創造

創造主とセルフイメージの世界

福沢諭吉とバプテスト牧師フランシス・ウェイランド(Francis, Wayland)

2022-01-21 20:30:15 | 歴史

Elements of Moral Science『道徳科学要綱』

は福沢諭吉の「学問のすすめ」の源泉的著作といわれます。

福沢は「心魂を撃破して食を忘れる」ほどに読みました。(「物語・日本キリスト教史」志茂望信著・新疆出版

3章日本の救いと改革主義3福沢諭吉)

バプテストは聖霊による新生(神生)を高調します。

 

早稲田大学は「フルベッキなくして大隈なし、大隈なくして早稲田大学なし」としてフルベッキを建学の祖と称えています。

東京大学の源流も勝海舟とフルベッキだと立花隆氏は述べています。(「天皇と東大・上巻」)

フルベッキ宣教師は、幕末に米国のオランダ改革派の伝道局(ミッション・ボード)から派遣されましたが

もともとモラビア派でした。

 

同労者であったワイコフ教授もフルベッキ師のうちに聖霊なる神ご自身が働いておられたことを証言しています。

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志士時代の伊藤博文

2022-01-20 15:11:55 | 歴史

志士時代の伊藤博文写真

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上野彦馬が撮った最後の盛岡藩主、南部利恭(としゆき)

2022-01-18 14:24:08 | 歴史

幕末の写真師、上野彦馬による南部氏です。

(山川出版社より)

南部氏は外国人教師を雇って「共慣義塾

を創設、人材育成に貢献しました。

この塾生に原敬、新渡戸稲造、犬養毅、

尾崎幸雄らがいました。

 

 

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神のいのちに生まれる

2022-01-17 15:21:37 | 福音

      ヨハネ福音書1章1-18節

なんという喜び

福音がユダヤから広いギリシャ文明世界へ伝えられてゆく過程で、ヨハネはロゴスというヘレニズムで最高の言葉を使用しました。相手の立場に立って語るためだったとおもいます。

しかし、ヘブライ、ユダヤでは、言葉は創造の力であり、人格でありました。創世記1章にすでに、父なる創造主と、言葉である御子と御霊なる神が示されています。「光あれ」という言葉からすべてが創造されたのです。

 

神は霊でありますが霊も息も、同じル-アッハ(カ)です。

言葉は、強い息によって発せられます。特に有気音カ行、タ行、ハ行、パ行です。

「カッとなる」「タ-とは走る」「パッと咲く」などの擬音語の際も使われます。

つまり、創造において、父の思いと言葉である御子と聖霊の力は一体だということです。

 

永遠に輝くいのちに満ちた創造主は太陽を作られたのですが、光と共通した性質があります。

太陽の光は粒子或いは波長(エネルギ-)となって地球に届き、地球生命の一部を形成します。

 

神はご自身を注いでくださって、私たちを神のいのちに生まれさせ、永遠のいのちと交わりに引き上げてくださりました。

御子が人になられ、十字架の贖いと復活によって、聖霊を住まわせてくださることによって実現されたのです。

 

14節の「住まわれた」の言語は「幕屋を張られた」という意味です。

モ-セによって建てられた幕屋の至聖所に神が宿り、栄光が現われました。

7つの奇跡をヨハネは「しるし」と表現しますが「現われ」という意味でもあります。

 

イエス様は聖霊を迎えて、言葉を使用されました。

言葉を通して、電気が電線を通して伝わるように、霊の力が流れました。聖霊が働かれたのです。

 

神殿(幕屋)は、神と人が出会い、交わり、結ばれる所です。

ヨハネ福音書は「幕屋の構造と祭儀」に沿って描かれます。

人間は神を宿す尊厳性を持つことも示されています。

真の幕屋になるとは真の人間性を回復することで、聖霊を宿すことによって実現します。

 

ここに神がご自身を与えられ、罪びとを滅びから救って永遠の神のいのちを与える大いなる奇跡が語られています、

創造主が私たちのうちに住まわれることによって実現された偉大な恵みです。

 

神聖歌144

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オーラル・ヒストリイ・記憶と記録の間

2022-01-11 10:30:31 | 歴史

オーラル・ヒストリイの可能性

 

 原点である聖書に立ち返る。基本に戻る。これは宗教改革者の精神でした。

聖書を一般人が直接読めるようしたのはグーテンベルグの活版印刷技術のおかげだとも言われます。

聖書は本来、書簡(手紙)ですから、日記などと同じように記録された言葉です。

その意味ではオーラル・ヒストリイともいえるかもしれません。

言葉は心の思いから発せられます。そして心の思いの原点は「霊Spirit」です。

霊から心へそして舌から発せられる言語へ。

これは神殿の至聖所から、聖所へ、そして大庭へと神の川が流れる光景を思わせます。

 失われた自分のアイデンティティを発見するために、源流に立ち返る旅をしなければなりません。

そこで記録された文字文書である、パウロやペテロなどの福音書記者たちのことばに触れ、

その体験と心の思いを辿ります。その心は聖霊によって導かれたものですから、

読む側が御霊の光に照らされることによって、直接的に神との出会いと交わりに引き上げられ

るのです。

神が十字架の贖いを通して至聖所の外に踏み出してくださったので、私たちは内側から神に触れる

ことが可能になりました。

時と空間を超えて、創造主との永遠を活きる奇跡です。

罪によって霊的死の状態では、生まれつきの心(魂・プシュケ)が主(あるじ)としてふるまい

「我が強い」生き方が特徴です。

聖霊によって霊がよみがえり(プニュウマ)、魂である自我が砕かれると、心が御霊に満たされて

御霊なる神がご自身の言葉を語られます。これが福音書であり聖書でした。

 ですから、今日においても、へりくだる者を通して主は語ってくださるのです。

 

 問題は語られる全てが真実とはかぎらないことです。そこで霊を見分けなければなりません。

文字化された記録書の検証が求められます。

それは容易ではありません。カリスマとカルトをどのように見分けるかという霊の次元に関わって

くるからです。

歴史的史実の検証は、聖霊による見分ける力(コリント第一12章)が必要だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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フルベッキ研究の新たな可能性 村瀬寿代

2022-01-08 16:08:10 | 神学

フルベッキ研究の新たな可能性

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大日丸記録

2022-01-04 21:24:41 | 捕虜レクイエム

大日丸調査記録

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主が通られる道

2022-01-03 21:18:53 | 福音

                                   (マルコ福音書1章1-13節)

マルコ福音書にはクリスマスは書かれていませんが、それに劣らぬ驚きと奇跡が記されています。

聖霊の油注ぎです。旧約時代の祭司、預言者、王への油注ぎがありましたが、限定的、不完全でなおかつ間接的でした。

聖霊は神殿の至聖所に下っておられましたが、まさか人間のうちに住まわれるということは考えられないことでした。

 今や、内住の聖霊の注ぎが起こりました。それは罪なき者にしか実現しない出来事でした。

聖なるお方でなければ、聖なる霊を宿せません。

イエス様が聖なる創造主と同質であることが、暗黙のうちに証明されています。

祭司、預言者、王への油注ぎは、神に対してとりなし、人々に対して語り、敵に対して戦い勝利するためでした。それは天使の介入への道を開くことでしたが完全ではありませんでした。

 しかし御子において聖霊なる神ご自身が、とりなしの祈りをされ、人に語り、サタンを追い払うのです。

失われた時の新しさネオスから神との交わりが回復され新生の新しさカイノスへ。

新しい年、水平的時間クロノスから垂直的時間カイロスへ。

創造主が直接介入される時間へ突入しました。

それは御子の十字架の贖いと復活によって聖霊が私たちに起こる奇跡でもありました。

新生は主が私たちの内に歩入ってくださること。

聖化と栄化は、私たちの内から歩み出てくださること。

神の子として、僕(弟子)として、兵士或いは戦う王として。

オーケストラのように、別々の楽器がハーモニーによる一つのメロデイを奏でる。

単神でなく、父と子と聖霊の創造主。ソプラノ、アルトだけでなく、テナー、ベースも共にそれぞれが調和をもって同時的に歌われる。

聖霊が内側で永遠の泉となり、川のごとくに溢れ出られる。

霊から心へ、心から体へ、環境へ。

「私の外で、神が語る」から「私の内、で神が語る」へ。

ネロ迫害のなかで、ペテロの語られたことをまとめたというマルコの働き自体、聖霊の業と言えます。

主語を「自分・私」から「主」へ変えること。霊の次元から観察し、考えて行動する。

主が自分に代わって働かれる余地、スぺ-スを残すこと。「間」を置くこと。

コリント第二の6章16で、「主が私たちの中を出入りされる」とあります。

偶像礼拝という霊的病気は罪と共に悪霊が介入して、聖霊の流れを邪魔します。

知らず知らずに、関わりをせまる霊的環境がある。汚れと穢れを洗い清めるのは御子の血と御霊のみです。

問題は、自分の神への信頼がゆらいで、被造物へ移っていく二心です。

霊的リスクをいやすのは主への謝罪と十字架の血潮へ頼ることです。

主が私たちの内にあっていつも喜んで働いてくださるよう、主の血によって霊と心と体を清めていただいて

祝福がゆたかに流れる神殿となりましょう。

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