(マルコ福音書1章1-13節)
マルコ福音書にはクリスマスは書かれていませんが、それに劣らぬ驚きと奇跡が記されています。
聖霊の油注ぎです。旧約時代の祭司、預言者、王への油注ぎがありましたが、限定的、不完全でなおかつ間接的でした。
聖霊は神殿の至聖所に下っておられましたが、まさか人間のうちに住まわれるということは考えられないことでした。
今や、内住の聖霊の注ぎが起こりました。それは罪なき者にしか実現しない出来事でした。
聖なるお方でなければ、聖なる霊を宿せません。
イエス様が聖なる創造主と同質であることが、暗黙のうちに証明されています。
祭司、預言者、王への油注ぎは、神に対してとりなし、人々に対して語り、敵に対して戦い勝利するためでした。それは天使の介入への道を開くことでしたが完全ではありませんでした。
しかし御子において聖霊なる神ご自身が、とりなしの祈りをされ、人に語り、サタンを追い払うのです。
失われた時の新しさネオスから神との交わりが回復され新生の新しさカイノスへ。
新しい年、水平的時間クロノスから垂直的時間カイロスへ。
創造主が直接介入される時間へ突入しました。
それは御子の十字架の贖いと復活によって聖霊が私たちに起こる奇跡でもありました。
新生は主が私たちの内に歩入ってくださること。
聖化と栄化は、私たちの内から歩み出てくださること。
神の子として、僕(弟子)として、兵士或いは戦う王として。
オーケストラのように、別々の楽器がハーモニーによる一つのメロデイを奏でる。
単神でなく、父と子と聖霊の創造主。ソプラノ、アルトだけでなく、テナー、ベースも共にそれぞれが調和をもって同時的に歌われる。
聖霊が内側で永遠の泉となり、川のごとくに溢れ出られる。
霊から心へ、心から体へ、環境へ。
「私の外で、神が語る」から「私の内、で神が語る」へ。
ネロ迫害のなかで、ペテロの語られたことをまとめたというマルコの働き自体、聖霊の業と言えます。
主語を「自分・私」から「主」へ変えること。霊の次元から観察し、考えて行動する。
主が自分に代わって働かれる余地、スぺ-スを残すこと。「間」を置くこと。
コリント第二の6章16で、「主が私たちの中を出入りされる」とあります。
偶像礼拝という霊的病気は罪と共に悪霊が介入して、聖霊の流れを邪魔します。
知らず知らずに、関わりをせまる霊的環境がある。汚れと穢れを洗い清めるのは御子の血と御霊のみです。
問題は、自分の神への信頼がゆらいで、被造物へ移っていく二心です。
霊的リスクをいやすのは主への謝罪と十字架の血潮へ頼ることです。
主が私たちの内にあっていつも喜んで働いてくださるよう、主の血によって霊と心と体を清めていただいて
祝福がゆたかに流れる神殿となりましょう。