創造

創造主とセルフイメージの世界

「私はぶどうの木、あなた方は枝です」

2022-10-18 16:19:09 | 福音

(ヨハネ福音書15章)

先週は「聖会」をオンラインのズームで見させていただきました。千葉先生の神学校時代のクラスメートの小野先生のメッセージもありました。「開天と御声、経過と完成」についてご自身お証を交えつつ霊的な糧を分かち合ってくださいました。キリストに倣うというテーマだったようです。

主は「私の語る言葉によって既にあなた方は清いのです」(3節)とありますように、聖霊に依る主の言葉は力があり神の業としての実が結びました。イエス様の人格と働きは創造主なる神と一体でしたので、いつでも天の響きと奇跡が現われました。

その秘訣をぶどうの木と枝の例えで説明されたのが15章です。

ローマ書11章16節ではオリーブの枝について「根が清ければ枝も清いのです」とあり、クリスチャンは選民イスラエルに代わって、神という台木に「つぎ木された者」とされました。枝が木の幹につながれることによって実を結ぶように、私たちは主にとどまることによって聖霊の実を結ぶのです。

根である神と幹であるイエス様に、御霊に依って私たちは結ばれ、樹液が流れるように聖霊が私たちを通して流れて実を結びます。

アダムが善悪を知る知識の木と結ばれて以来、サタンによる死と滅びの実を結んでいたのですが、十字架を通して罪が赦され、いのちの木につながるものにされました。

 

主の十字架の血による贖いと「父よ、彼らをおゆるしください」という言葉によってのみ、私たちは清くされ神いのちを与えられます。アダム以来の汚れた血をきよめていただいて神の子にされます。

しかし私たちは古い自分に帰ろうとする誘惑にさらされます。自我(魂)を主人公にし、自分の能力や知恵という枝ぶりを誇ります。罪とは「真に頼るべき創造主でなく被造物に頼ろうとする、的外れの歩み」の事です。

箴言3章5節-「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな、・・・自分を知恵ある者と思うな。主を恐れて悪から離れよ。それはあなたの体を健康にし、あなたの骨に元気を与える」

ここで自分を頼ることは、悪であり、主に頼るなら、サタンの呪いから解放されて祝福が与えられるとあります。

「自分を知恵ある者と思っている人をみただろう。彼よりも愚か者のほうがまだ望みがある。」(26・12)」

ブラザー・ローレンスは寒い戦場で葉を落とした木を見、再び樹液が流れて芽吹く姿を描いて希望を与えられました。つまらないような皿洗いの仕事の中でも、共におられる主をあおいで賛美の生活をしました。

自我に依存するのでなく内住の主に頼りきって、主がご自身を現わされ、主が実を結んでくださることを願いましょう。創造主との交わりによって、深い平安を与えられます。ただ十字架で流された神の血と神の御霊のみが永遠のいのちの勝利をもたらします。

主への祈りと賛美の中で、主が偉大な働きをされ永遠の実を結んでくださるのです。

新聖歌332

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「自然のいのちと神のいのち」

2022-10-05 21:12:51 | 福音

                                                                                                        (コリント第一の手紙15章45-58)

スミス先生追悼記念誌完成と前後して英国エリザベス女王の葬儀と安倍元総理の国葬を見る機会が与えられました。

故人を偲びつつも創造主に呼びかけ、その御業を讃える式と「あなたの判断はいつも正しかった」と人間を讃えるの前総理の弔辞はあまりにも対照的に思えました。

カール・バルトが70歳の時に天国のモーツアルトに感謝の手紙を書いたことがあり、「モーツアルトは、創造の世界が、このカオスに面した側でも、すなわちその全体性においてその主をほめたたえているのであり、創造の世界が完全であることをわれわれの耳に聞こえるようにしてくれる」とも述べています。(K・バルト著「モーツアルト」小塩節訳・新教出版)死者を美化する日本の典型のようにも思われました。

 コリント15章45節の「アダムは生きた者になった」は原語では「魂の人になった」であり、「土から造られた自然のいのちの人」であり「第二のアダム、キリストは生かす者になった」は原語で「霊の人になった」と書かれています。

スミス先生の葬儀はコロナ禍の中、少人数ながら静粛にそして天国の喜びを歌いつつで行われましたがそれは主と共に歩まれた人生を反映し、神の栄光を現わすものでした。

  日本では亡くなられた方を拝む祖先礼拝の習慣が中国から伝えられ、今日に至っています。

しかし、私たちが拝みたたえるのは創造主であり、その神に対して感謝しつつ、親しかった故人を偲ぶのです。

 被造物の命(ビオス)と魂(プシュケ)自体は永遠ではありません。アダム以来、創造主と断絶した結果、死と滅びの運命をたどることになりました。神と被造物の間に暗黒のベールが被い、それを突き抜けることが出来ないのです。

しかし神の御子が第二のアダムとなって、断絶の壁を突き破って世に下られ、そのベールを破ってくださいました。啓示(Revelation)とはベール(被い)を脱いでご自身を現わされるという意味です。

御子は十字架上で「わが神わが神なぜ私を見捨てられるのですか」と叫ばれて地獄まで、下られました。闇の中に光が輝き、罪とサタンの支配下にある私たちに直接触れ、出会ってくださったのです。

そしてその聖霊を賜ることによって、死を超える復活のいのち(ゾーエー)によみがえらせます。

宗教の原語ははリリジョンであり、結ぶという意味です。離れていた両者を再び連結し交わりの中に戻すことが真の宗教です。

最初のアダムは自我を神のようにして、創造主に離反し、死をもたらしましたが、創造主ご自身がその断絶の壁を乗り越えて私たちと一つになられたのです。

魂は自分を主とし、自分の思いのままに生きようとしますが、超自然の霊の生命は内住の聖霊様を主とし、その思いを第一に歩みます。

聖霊は私たちの内側から現れようとしておられますが、私体の自我がそれを妨害しています。しかし主の血によって清められ、自我が砕かれるとき、御霊のブレイクスルー(突破)が始まります。

試練や弱さを通して、自力ではなく創造主に頼ることを学びます。

そのようにして聖霊は、御力をもって働いてくださるのです。

自分ではなく、主が語り、主が働いてくださるよう主に信頼し明け渡してゆきましょう。

レクイエム

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