創造

創造主とセルフイメージの世界

キリシタン大名蜂須賀家政

2010-08-28 15:42:55 | 創世
8月29日徳島県板野郡松茂町の徳島恵キリスト教会(向島教会出身の千葉牧師)
で「いのちの水の川」という題で説教の奉仕をさせていただく。
朝早く、山陽道と瀬戸大橋を渡ることになる。

松茂町にはハレルヤという和菓子会社があり、その由来をいろいろ想像した。
80年の歴史があるといわれるから徳島出身の賀川豊彦が浮かんだ。

次に秀吉の家臣、蜂須賀小六の長男でキリシタン大名として知られる
蜂須賀家政のことが思われた。酒を飲まず、食後は菓子を好んだそうで
足りなくなると細分してみなで分けて食べたそうである。
阿波踊りの始まりは徳島城完成の祝いの踊りであったそうだ。

第3に考えられるのは剣山のことである。
荒唐無稽なところもあるが、以下のように面白いサイトもある。
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/kenzan.htm

みのもんた氏の司会した日本のルーツと古代イスラエルという番組でも
とりあげていた。

わたしたちはすぐ身近にある恵みに気づいていない。
もっとも近いのは自分自身だ。
聖書では「あなた方の内から活けるいのちの水が流れ出るであろう」
とある。

エゼキエルの神殿からいのちの川が流れ、主イエスの内側から聖霊
の川が流れて多くの奇跡をおこなわれたように、わたしたちの至聖所
に住まわれる創造主なる御霊は、創造界のレベルにわたしたちを引き
上げてくださり流れるように働かれる。

時の中にありつつ永遠を生き、造られた者でありながら、造り主のいのち
を生きるという驚くべき恵みと奇跡に与かっている。

(付記)
1867年(慶応3年)ゴーブル宣教師はグラバー商会のダン船長より、阿波藩
土佐藩との沿岸貿易を依頼されて、リジー・アレン号で両藩士とともに1月16日に
阿波藩に到着。
2月には後藤象二郎と会い、「土佐商会」の教師となる。
ゴーブルは、阿波藩のセントルイス号(後の乾元丸)購入の手伝いをした。
(パーカー著「日本のジョナサンゴーブル」132ページ)
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あなたはどのようなレベルで生きていますか。

2010-08-25 21:50:47 | 福音

(序)
昨夜のNHK中高年パソコン塾・ブログ版で
文章は主題をしぼること、
簡潔であること、語りかけるように書くこと、
音読して推敲してみてから投稿することを教えられました。

(本論)
人のレベル、それとも創造主なる神のレベル?
何をなしたかということよりもどのようになしたかが
問われると、長崎で被爆された永井医師が語ったそうです。

わたしは、誰とともに生き、誰を頼ってなしましたかと
自分に尋ねます。
主とともに生きるとき、主のレベルで生きることが出来ると
思うからです。

実のところ、わたしがと言う間は、まだほんとうではない
ような気がします。
わたしはではなく、主が私のうちで生きて下さり、主が働いて
くださる、これが最高ではないでしょうか。

こんな自分ですが、全能の創造主が内に宿ってくださっております。
わたしが特別な人間だからではなく、清いわけでも能力があるわけ
でもなく、ただ十字架の贖いを頼り、信じた結果、そうしていただき
ました。

「聖霊様、わたしのうちで十分に働いてください。
あなたの偉大な力の流れを妨げているのはわたしの自我です。」
そう祈らせられました。

 

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至聖所での会見

2010-08-24 10:53:37 | 神学
聖なる神に近づく祭司は、ブルーの着物に着替えて聖所に入った。
至聖所は創造主にじかに会見し交わるところである。
神は私達が想像するよりはるかに清く聖なる方である。
そこで聖なる着物を身につけなければならない。
そのお方が聖霊である。
聖霊が私達を神の清さのレベルに高めて下さり、神との交わり
を可能にして下さる。
聖霊と共に礼拝し、聖霊と共に祈る、否むしろ聖霊が礼拝へと
我々を導かれ、われわれの内で祈られ、賛美される。
聖霊なる神がわれわれの内で、聖徒の交わりを養い、人々を
愛される。
聖霊が私達を天使も及ばぬ地位に引き上げ、サタンを足のもと
に砕かれる。
 カルトとは、聖霊なしに、神の高みを追求し、聖霊なしに義人
であろうとし、人間のレベルだけで愛を追い求めることである。
十字架の贖いの力と聖霊への依存なしに、神に近づこうとする
ことは空の星を竹ざおで落そうとするようなことで、喜劇的で
あるだけでなく悲劇的である。
 かつてのパウロも、ニコデモもかつてはそうであった。
しかし内にこられたキリスト、聖霊に依存することがあまりに
すばらしい生活であるとを知ったパウロは、自己製造の
宗教がいかに貧しくつまらないレベルのものであったかを
体験したのである。

人間には、己の持つ何かを誇り、そこに依存しよう
とする断ちがたい習性を身に着けている。
その古びた着物を捨てて、日々主を仰ぎ、御霊と共に、神の
高みにあゆませていただけるよう祈る者である。
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甲子園

2010-08-17 22:41:27 | スポーツ

甲子園の熱戦が続いている。10年以上前に自分で書いた「野球黙示録」という文章を思い起こした。日本人が野球に熱中するのは戦時中、敵側のスポーツとして禁止されたことへの反動なのかもしれない。
中でも日本高校野球の人気は世界に例がないだろう。私なりに野球の魅力を感じたのは、ホームに突っ込む人間が点数になること、そしてボール(白球)を握った瞬間そのプレイヤーが主導権をもつことである。安全なベースを離れる走者はボールを持つ野手によってアウトにされる。
私達も御霊をもつことによって、御霊による権威を与えられる。病む者の上に手をおいて祈れとあるのは、御霊なる神が私という管(パイプ)を通してタッチしてくださるためであろう。
時には遠方にいる場合でも祈りと共に、御霊が触れてくださる。もちろん、私が主導権をとるのでなく、主が主導権をとられる。甲子園に、東海大相模高の十字架の校旗がひるがえり、聖光学院の校歌で「復活(よみがえり)の主」がたたえられのはすばらしいことだ。
願わくば、主の日である日曜日には、選手も応援団もマスコミもゆっくり休養して復活の主をたたえ、この世の勝敗を超えた真の勝利者として主のみ前に立ってほしい。


野球黙示録
    1998年7月29日
野球のルールは3から構成されている。 スリーアウトで1イニングが終わり、3の3倍の9イニングまで続く。

9人の選手が一ゲームに少なくとも3回バッターボックスに立つ。
3×9=27 旧約聖書は39巻で新約聖書は27巻、計66巻だ。
ピッチャーは3ストライクで三振を取る。 聖書は第一に創造者なる父なる神を語り、
第二に最初のクリスマスの日、この世に人となって下られた御子イエスを証言する。
それは私たちの罪を十字架によって清算し、私たちを神の家族として迎え入れるための
神の側からの愛の働きであった。 この恵みを私たち一人一人のものとして下さるのは
決め球ともいうべき聖霊さまである。 神は十字架によって私たちの罪と汚れを洗い清めて下さり、
聖霊の衣を着せて下さり、 神のいのちにあずからせ、私たちを御自身との「親子関係」に招き入れてくださる。
聖霊さまは私たちの内に住まわれて、「父なる神さま」といつでも、共に呼びかけ祈って下さる。
その交わりの中で子としての9の性質を与えられる。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」 (ガラテヤ5の22-23)
更に神の御霊の力として9つが約束される。 「ある人には、御霊によって知恵のことばが与えられ、
ほかの人には同じ御霊にかなう 知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、
ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、
霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」(コリントⅡ12の8ー10)
野球では9人の選手が守り、攻め、戦う。 神のチーム、私たちにも守りとしての9の実と攻めのための
9つの賜物が与えられる。 攻守がバランスよく、鍛えられて、はじめて、勝利するのである。
西方教会は主の受肉と贖いを強調し、三位の神の中の関係と交わりに注目し、
御霊の実にある交わりと倫理を重んじた。神の降下と[御子→聖霊]に光をあてた。
東方教会は御霊による栄化(神化)と力を重んじた。[聖霊→御子]の線で人間の上昇を強調した。
しかしまだ東西に分裂する以前、両者はともにバランスよく説かれていた。
例えば アタナシウスは「私たちが聖霊を受け取るために、み言葉は身体のかたちをとられた。
人間が霊をもつ者となるために、神は身体を持つ方となられた」
「神が人になられたのは、人を神にするため(神化)であった」とDE INCARNATIONE で述べている。
御霊の実を約束して下さった方は、賜物をも豊かに備えて下さるのである。
東西交流の場、この日本において、両者の真の一致が見出され、
主の再臨へ備えて勝利の栄冠をつかむ強力な宣教チームが結成される事が望まれる。

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「井上ひさし作 少年口伝隊一九四五」

2010-08-07 10:13:55 | 歴史
8月6日のNHKラジオ特集は広島で市民による
「井上ひさし作 少年口伝隊一九四五」が上演
されたことを取り上げていた。
7日の新聞は前日の「原爆死没者慰霊式並びに
平和記念式」の記事と共に秋葉市長の平和宣言
文、管首相のあいさつ全文を掲載している。
両者が使用する「御霊(みたま)」という表現が
気になった。
聖書では御霊は創造主なる三位一体の聖霊
を意味する。
死者の霊は被造物であるから、決して御霊とは
呼ばない。
井上氏の作品は、過去の原爆の恐るべき悲劇を
現在に呼び起こすとともに、「狂ってはいかん」
とういう主題が織り込まれているとラジオ番組
は解説していた。
「狂った号令を下すものに正気で立ち向かうように
」哲学者ジータが少年に語りかけるのである。
 井上氏の言いたかったのは何か?
ハイル・ヒトラーや天皇万歳に駆り立てた狂気
はどのように生まれたのか。
それは創造主のまえにへりくだることを忘れ、
被造物を絶対化したことに起因する。
 原爆投下も恐るべき狂気に違いない。
しかし、それを呼び起こした狂気が、こちらがわ
にもあったということ。
 アジアにおける侵略の犠牲者や無抵抗のまま
衰弱死していった捕虜達の霊をも併せて、
追悼する時に、私達は正気に立ち返るのでは
ないだろうか。
日本の代表的リーダーの口から不用意に
「御霊」という言葉が発せられるのを聞いて
日本はほんとうに狂気から解放されているのか
不安を覚えた。
主がこの国を霊的闇から呼び覚ましてくださる
よう祈らずにおられない。


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