【エペソ書2章1-10節】
先週は清原先生を通して二胡の演奏と共に、神が極度の心配性で入院までされた少年であった自分をどのように救ってくださり、現在まで導いてくださっておられるか教えられました。入院中に讃美歌を聞いて慰められ、やがて教会に導かれたとのことでした。私も自分に嫌気を覚え、また社会が安保闘争で騒然としたときに聖書研究会に参加し教会に導かれてクリスチャンになったこととを思い出しました。
ウクライナで、そしてイスラエルとガザで今も悲惨な状況の中で人々が苦しんでいます。
私たちは罪の嵐の中で過ごしていますが、神と断絶した闇の中から、神の恵みと愛によって光へ救い出されました。
「罪過と罪」、罪とは的外れのこと、神に信頼して神に結ばれるべきなのに、自分とかこの世という被造物に頼って、神と断絶分離され神との交わりが途絶え、神に死んだ状態を意味し、罪過とは、その心の隙間に「空中の権威を持つ」悪霊が入り込んで憎しみや欲情に支配され、実際の悪事をさせられることと言えます。その結果、神との敵対関係に陥り、義なる神の怒りの対象になってしまいました。
しかし、神は独り子をこの世に送り、御子は十字架上でその神の怒りを一身に受けてくださいました。その刑罰は実に恐ろしく過酷なものでした。裂かれた御体から神の血がなされました。「律法によればすべてのものは血によってきよめられる、といっていいでしょう。血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル書9・22)サタンと呪縛を断ち切ってくださり「神がご自身の血の代価をもって買い取ってくださいました。」(使徒20・28)
そして「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストと共に生かし、-あなた方が救われたのは、ただ恵みに依るのです。ー キリストイエスにおいて、共によみがえらせ、共に天の所にすわらせてくださいました。」(5,6節)「共に生かし」の生かす(ゾーオポイエーセン)は聖霊なる神ご自身が私たちの内に住まわれて、神の永遠のいのちを与えられるという意味です。
この天とは天使や堕落天使サタンよりはるかに高い、創造主のおられる至聖所のことです。
福音とは神が内に住まわれて、ご自分のいのちを私たちに与えられ、神の働きをなさることです。
神に新生した者は聖化を通して栄化に成長します。自分が主役を演じようとして神を頼らず、自分の人間力に頼ことから、試練と弱さを通して、自分が土の器であることを気付かせ、自分ではなく内に住まわれる宝である聖霊に目を向けされます。そして自分でなく聖霊なる神が私たちの内で働かれるのです。これが善い業です。
御霊で始めたのに肉で完成しようとせず、神のいのちと力に自分をゆだねるのです。主役はいつも神であります。
パリサイ人は自力で律法を守れると自分を誇りました。それは創造主でなく被造物である自分の道徳心と実行力を頼ることでした。私たちは取税人と同じように自分自身に従う力はないことを認めて、主の恵みと憐みにすがることが必要です。ペテロもパウロも自分では信じることも従う力もないことを知らされました。
ただ信仰、ただ御霊に頼ることを学びました。それはルターやカルヴァンも説いた道でした。
神の御霊のみが、私たちに信仰を与え、私たちの心の内側にすごされることで栄光が現れ、御霊は人々からいのちの流れとなってそそぎだされます。
被造物である人間の力で行うよりも、我々の内で活き生きと働かれる創造主なる聖霊様を喜び、誇り、頼り、神に大いなることを期待しましょう。夢と願いを明確にし、目標を定め、神にご覧になっていただき、自分の心にも抱いて祈りましょう。
善い業とは神の業であり、主役は神です。聖霊の働かれるようにゆだねてゆくことです。