聖書と日本の関係については興味深いサイトが多い。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb412.html
http://www.geocities.com/heartland/lane/7662/index_j.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96
へブル語は動詞の3母音が基本であり、日本の大和言葉と共通している。
また文法上、使役形は英語ではmakeやletを追加するがへブル語では
ヒスパエルと言って、母音を変化させる。
例えば日本語行く(本来はゆこむ)は行かせると母音をアエルと変化させて使役形にする。
川守田英二博士の「日本へブル詩歌の研究上下」(昭和21年)は三笠宮崇仁親王殿下
に捧げられたもので出版のための寄付者・後援者には賀川豊彦も名を連ねている。
賀川ほどの人物が何故に太平洋戦争に正面から反対しなかったのか。教理的な面からの
問題性も指摘されているが、上著の「第3章日本民族とキリスト教」を読むと、賀川自身日本のルーツをユダヤに求め、その象徴である天皇を敬うことが福音宣教に繋がると考えたのではなかろうか。(注1)
これは非常に微妙な課題である。
確かなことは従来、鎖国や皇国思想の影響下で純日本といわれてきた、和船(ジャンク船)や和太鼓や尺八など日本古来のものでなく、大陸にルーツがあることが明らかになりつつある。「天皇」という言葉自体が元来は中国語なのである。
創造主のもとに人間は一つであることを覚えたい。そして御子を通して父なる創造主に立ち返ることが最も幸いな人生である。
(注1)
「宣教師が観た天皇制とキリスト教The Two Empires in Japan」ジョンM・L・ヤングJohn M.L.Young著川崎豊訳(2005年燦葉出版)
(139ページ神道イデオロギーを宣伝する「クリスチャン」達より)
「神社参拝に出かけた人の一人に賀川豊彦博士がいたが、同氏は前述のように、朝鮮および満州の教会を、政府の命に従い神社参拝を行うように説得するために歴訪した人である。
彼の福祉事業への貢献を認めるにやぶさかではないが、彼の自由主義神学と神社問題に関する全面的妥協ぶりとが日本におけるキリスト教の発展を大いに阻害したことは明白である。賀川の自由主義神学は、その著書から以下の引用で明らかである。『どういう形で復活が行われたかわからない。四福音書が教えるように肉体をを備えていたのか、パウロが言うとおり霊体だったか、いずれにしてもそれは問題ではない。とにかく、イエスは弟子たちの心の内に本当に甦られたのだ。ここにキリスト教の発端がある。もしそれが迷信だと考えられたければそうといってもよい』(T.Kgawa, The Reliegion of Jesus,p.103)
さらに、最近になって、賀川氏はヨハネによる福音書第六章五三節について以下のように文章を物している。『社会事業家としての私の日々の活動はこのイエスの言葉を道標としている。すなわち、"人の子の肉を食わず、その血をの飲まずば、汝らに生命なし。”これは私(とわが国民)が世界の罪を罪を赦すために、我々の生命そのものを与えなければならないという意味である。ある国民が危険を冒し、道徳的、法律的罪の負債を喜んで弁済するのでなければ、罪は償われない。それは生命そのものの最も深い真理であるように、基督教神学の最も深い真理である。』(T.Kagawa,Japan Christian Quartery,October,1958,p.312.)
復活やキリストの贖罪の意味についてのかような理解に基づく伝道では、迷信的神道多神教から魂を贖うことや、まったき愛と忠誠心をもってキリストに奉仕しようとする願望で心を満たすことはおぼつかない。このような説教が人々にキリストの唯一無二なることと彼へのまったき忠誠の必要を確信させ得ず、迫害の危険にさらされた時にベイカーの記録する以下のような発言を生み出すことになったのである。すなわち『いつ警察が愛国心の調査にやってくるかわからないから、どの日本家庭も神棚を祭っておくことが賢明なことだった』」
(参考文献)
「日本書紀と日本語のユダヤ起源」(ヨセフ・アイデルバーク久保有政訳・2005徳間書店)
「銅鐸の謎」(大羽弘道・光文社)
「日本語の起源に関する調査研究報告書」(今井弥生編1995・財団法人国際科学振興財団内)