創造

創造主とセルフイメージの世界

神による三つの働き

2022-06-20 10:30:08 | 福音

(エペソ書 4章1-16)

先週は旧約聖書のギデオンの名にちなんだギデオン協会を覚えて礼拝をもちました。

士師記7-8章を見ますと10万以上の敵軍に対して味方は3万2千人でしたが、1万人に減らされそれでも多すぎると言われて僅か3百人で戦うことになります。人間的に考えると、ただでさえ足りないのに、絶望的な数まで削られたのです。

 なぜでしょうか。イスラエルの戦いは人間の戦いではなく、敵サタンと神ご自身の戦いであり、神が戦うために人間の力に依存せず、少数者でも自分の中の偶像を捨て、本当に神に頼りきった人々、神が働きやすく戦いやすいように自分を明け渡すところで神は勝利をとられます。

今日は新年度の総会を前に、神が働いてくださる教会であることを願わずにおれません。

まず、私たち個人に対する神の三つの働きをみます。第一の主の働きは前半でパウロが述べたように、永遠の霊の救いの業です。主が天から地に下られたのは、十字架上で血による贖いを成し遂げ、罪を清めて聖霊を住まわせてくださるのです。新生(神生)です。第二に心に満ちてくださる聖化の業です。2節、「謙遜と柔和」「へりくだり」と共に起こる恵みです。主ご自身が世のおられた時「私は柔和でへりくだった者であり、私を倣いなさい」といわれました。パウロは「主の囚人」として、自分が主人公となってあれこれを為すのではなく、主にゆだね明け渡すことを勧めています。そこに三つ目、すなわち舌と言葉が解放されて神ご自身が聖霊によって働かれる業が起こります。主の血が霊と心と体を清めてくださると、聖霊が川のように流れだすのです。

次に教会における神の三つの働きを見ます。

主を信じる者は聖霊によって直接神とつながれます。そして「聖徒」と呼ばれます。罪や欠点があっても主の血によって清くされているので神の子であり「聖徒」なのです。

旧約時代は神の働きは天使の介在し、祭司、預言者、王という三聖職者によってなされました。

ケルビムやセラヒムは礼拝の天使でレビ族に関わりました。ガブリエルはメッセージを運ぶ天使でダニエルなどを助けました。天使ミカエルはイスラエルのために戦う天使で、ユダ族と接触しました。

神と交わり祭司としてとりなす働き、人々に神の言葉を届ける預言者としての働き、敵と戦いおさめる王としての働きが天使と共になされました。しかし、それは間接的なものであり、永遠的霊魂の祝福にまで至りませんでした。天使は人間に内住できないし神ではありません。羊の血は外的な面を清めることはできても霊魂までは清めることはできませんでした。

神の御子の血潮だけが、私たちの根源的な罪を取り除く力があるのです。そして信仰と共にその効力が発揮され、清められ、聖霊なる神が心の深み、霊の中に住んでくださるのです。

このようにして、神は主の体である私たち教会の中で、祭司、預言者、王として直接三つの業をされます。

第一に神に対する祭司の働き、祈れないときでも御霊は「アバ父よ、御子イエスよ!」と永遠の交わりを絶やさず、とりなしの祈りをささげられます。第二に人に対する預言者としての業、どのように語りふるまうべきか悩むときにも愛と知恵をもって私たちと共に語り行動してしてくださいます。

第三に王として、敵であるサタンに立ち向かってくださいます。敵が私たちの罪や過ちをもって訴える時、御子の十字架と血潮を示して、訴えを却下し追い出してくださるのです。ハレルヤ!

トリノの奇跡

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「聖霊と私」

2022-06-06 14:10:19 | 福音

使徒2章1-21節

ウクライナでの戦禍の中で迎える聖霊降臨日となりました。

バベルの塔で人間が神との交わりを軽んじて、自分たちの力で天に昇ろうとした結果、お互いの心が通じなくなり言葉が混乱して全知に散らされて行きました。

最も近いはずの同じスラブ人、同じ東方正教会の兄弟なはずの民の戦の惨状を目にさせられています。愛し合うはずの兄弟に、なぜ亀裂が生じ戦いが起こるのか。ペンテコステの出来事はその答えを与えてくれます。それは、人間関係の前に、神との関係が優先されなければならないということです。

弟子たちがガリラヤ湖で一晩中、漁のために働きましたが、全くの徒労に終わったのは、岸辺でずっと見守っていてくださった主に目を向けずに、ただ自分たちの力や体験に頼ったからでした。主イエスは弟子たちと共にいつもおられたが、弟子たちは主との交わりを忘れていたのです。神は聖霊として、私たち一人びとりに宿られていつもともにおられます。

しかし、その主を意識せずに、ただ自意識のみ、この世の情報のみに頼るならば、聖霊を悲しませ、その働きを縛ることになります。人の思いと言葉についてヤコブは、舌を火に譬えて、私たちの生き方にどれほど大きな災いをもたらすかを記します。「舌は『不義の世界』です」とありますように、私たち人間の罪は、舌によって力を振るうのです。このことは、イエスさまが教えられたことでもあります。イエスさまは、「口から出て来るもの(言葉)は、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す」と言われました(マタイ15:18~20)。私たちの心にある罪は、言葉となってあらわとなるのです。その言葉を発する舌は、私たちの体の器官の一つでありながら、私たちの全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火に燃やされるのです。ヤコブが「舌は火です」というとき、その「火」は、私たちを滅ぼす地獄の火であるのです(「舌の剣は命を絶つ」)

 ペンテコステに現れたのは「炎のように現れた分れた舌」でした。それは聖霊の新しいいのちと清められた心から発せられる言葉を指しています。いのちは血にあり、主イエス様は私たちのために神の血潮を注いでくださいました。聖霊によって信仰が生じて、神の永遠のいのちをいただきます。

 カール・バルトという神学者は、ヒットラーのナチスの根本問題は、信仰なき形式的生活、聖霊という神のいのちとエンジン動力のないグライダー人間にあると語りました。東方教会は本来聖霊を重んじるのですが信仰告白のない幼児洗礼にみられるように、かなり形式化しています。

神の宮の至聖所である霊に住まわれる聖霊は、聖所にあたる心を通過して大庭に現れます。

主の血潮の清めによって霊から思いへ、そして舌、すなわち言葉となって働かれます。

普遍的抽象的霊の次元から具体的生活の場面への移ることを「下る」と表現します。聖霊降臨とは内に住まわれる聖霊が霊から心へ、心から舌(言葉)に下ることです。自我がへりくだる時に、聖霊が主導権をとって働かれます。神の力を妨げているのは自我です。40日間の現われと交わりの中で、心砕かれた弟子たちに主が満ちてくださいました。「働きにはいろいろの種類がありますが、神は全ての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。」(第二コリント12章6節)

神様が内に住んでおられるのですから、もっとゆだねて聖霊なる神様が共に祈り、共に語り、共に行動してくださるよう期待しましょう。

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