創造

創造主とセルフイメージの世界

青銅のヘビを仰いで

2013-03-29 09:46:46 | 福音

今日は主が朝9時から午後3時まで十字架上で我々の罪を負われ、贖いを完成された日です。

モ-セによって高くあげられた青銅のヘビを見た者はすべて、毒ヘビにかまれた体中の毒が取り去られていやされました。毒が吸い取られたのです。

私たちが十字架の主を思い仰ぐ時に、わたしたちにも不思議な奇跡がおこります。見ることは一体化することでもあり、そのことによって罪が死滅します。過去現在未来に渡るすべての罪と、つみの根源である自我が死ぬのです。

そして新たな義の自分が復活の主と共に新生します。これは日々体験されることでもあり、永遠のいのちを生きる道でもあります。

十字架を仰ぎ、主の赦しを願う時に、あらゆる過ちや、失敗、自我から生みだされたみにくさが拭い去られます。

そして聖霊が私たちの内に住まわれて、主導権をとってくださいます。こうして自分を越えた創造主の交わりといのちの中に生かされてゆくのです。復活の世界です。

霊においてすでに実現されているこの事実は、やがて目に見える形で現われてきます。

日々、十字架と復活の主を思い仰ぐ(信じて頼る)ことが、創造主を現実の生活の中に招き、働いていただくことになります。

 

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第三次元に第四次元を

2013-03-27 22:43:14 | 福音

アダムは自己という被造物を絶対化ようとして、この世界にサタンの4次元を呼び込んだ。

そしてこの3次元界の全被造物は死の力を持つサタンの支配下に落ちた。

しかし神はこの世界に人として下られた。この受難週は罪の刑罰を身に負われる主の

御苦難と痛みを覚える時である。

主は十字架上で、アダム以来の罪の刑罰を呪いとして背負われた。

そして十戒が成就され、祝福の時代がもたらされた。

主イエスに依って、失われた神の4次元がこの世に到来した。

主を信じる時、そのところは創造主なる神の訪れの場となる。

父なる神と復活の主は天にも地にも満ちておられる。

聖霊なる神は私たちの霊の中に内住されておられる。

聖受難日はグッド・フライデイと呼ばれるのは、この日、まさしく神の血が流され

神のいのちが私たちに注がれる道筋が整えられたからである。

もう被造物である自我を誇り、これに依存する必要はない。

創造主を誇り、その偉大な知恵と力に、愛にお頼りする時である。

主が私たちの内側に満ちて下さる時、この世にあってすでに天を体験するだろう。

主を思い主をたたえるところに神はそのその存在と力を現わして下さるから。

主と共に十字架につけられる自分を見る時に、主と共に永遠のいのちによみがえらされ

栄光の御座にともに座らせられている自分も見ることになる。

この失われた世界をもう一度ご自身のもとに招き入れて、永遠化することを願って

おられるのは創造主御自身である。

 

 

 

 

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Hitachi Dockyard 日立造船

2013-03-21 14:38:39 | 英国空軍捕虜

”By HellShip to Hiroshima”の6章は「日立造船」です、元捕虜として因島工場で働いテレンス・ケリー氏は

時にはユ-モアを交えて当時を回想しています。

冒頭に英国人エドワード・ハズレット・ハンター氏が1881年(明治14年)大阪鉄工所を創設したことが日立造船の始まりであることを述べています。

日本近代産業史の一翼を担った130年の歴史を以下で知ることが出来ます。

http://www.hitachizosen.co.jp/130/history2002.html

ケリー氏は因島工場の配置図を73ページに掲載していますが、日立造船百年史373ページでより鮮明な配置図を見れます。

ところで4月15日2時からの、向島捕虜収容所跡地(現在エブリイ)のメモリアル広場でのセレモニーには宮沢賢治のご親族が出席されます。新メモリアル設置のため御尽力いただいている縷観光協会理事の加藤慈然氏の友人とのことです。賢治は北上川の一川辺をイギリス海岸と名づけました。花巻は銀河ドリームライン鉄道で近代鉄鋼業発祥の地、釜石とつながれています。盛岡でタッピング宣教師から聖書を学び、身近なところで西欧化してゆく郷土の中に賢治は異次元のものへの憧憬を呼び覚まされていたのかもしれません。その結晶が「銀河鉄道の夜」ではなかったかと自分なりに想像します。

ところで瀬戸内海の「文明開化」は「瀬戸の白鳥」と呼ばれた「福音丸」によってはじめられたとも言われます。スコットランド・グラスゴーの造船会社の社長夫人の寄付によって建造され、ドイツ系アメリカ人ビッケル船長が乗船した福音宣教船です。そして賢治の「岩手公園」と言う詩に歌われるタッピング二世とビッケル氏のお嬢さんはやがて結婚することになりました。

瀬戸田教会にはそのエバリン・タッピング女史の弾いたオルガンが現存し、因島の重井教会の礼拝堂の柱は福音丸のマストが使用されています。向島教会は戦後米国出身のブラネン宣教師によって開拓されましたが当初から日立造船の関係者が礎となって協力されました。

「瀬戸内海国立公園」と「陸中海岸国立公園」はその近代化の歴史において相通じるものがあるのかもしれません。

それは同時に第二次大戦下における連合軍捕虜の収容の事実においても共通する者があります。

POW研究会に依れば、釜石捕虜収容所だけで、米英蘭合計50名が死亡しています。東日本地震と津波による犠牲者を追悼するとともに、遠く異教の地で天に召された若者たちのいたことも忘れてはならないと思います。

 

 

 

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重荷をおろしなさい

2013-03-16 22:45:54 | 福音

司馬遼太郎の「「坂の上の雲」というタイトルを私なりに解釈しして、明治以来の日本の歴史を光り輝く雲(聖書では雲は神の臨在のシンボルに用いられることがあります)を目指して坂を登る姿を描いたのではないかと考えます。

「脱亜入欧」という言葉の中にキリスト教近代文明への憧憬が感じられます。しかしその方法が「和魂洋才」によったところに問題があったように思われます。

徳川家康が語ったように確かに人生は荷を負って坂を登るようなもので、その荷は年々重くなっているようでもあります。

主イエスはそのような私たちに「私のもとに来て重荷をおろしなさい」と語られました。「私に倣いなさい」」とも。

全人類の罪を負われるという途方もなく重い荷を負われた主がなぜ、私の荷は軽いといわれたのでしょうか。

それは内に住まわれた御霊に依存されてその偉大な御力に依って歩まれたからだと思います。

西欧近代文明の根に、キリスト教があることは否定できません。一言でいえば、人の有限の能力に依らずに

創造主の霊とその永遠の力に支えられた人生が基本にあることです。

主イエスに依って、神がわれわれの内に、人が神の内に生きる道が開かれました。永遠者である創造主が私たちの内側で重荷を担って下さるというライフ・スタイルであります。

永遠のいのち、神のいのちを生きるという夢のような話が現実化したのであります。

そのいのちの中でモーツアルトは作曲し、ドストエフスキーは「カラマゾフの兄弟」を書き下ろし、カルヴァンやルターは全く新たな聖霊文明の道を開きました。ただひたすらに聖書を読んだリンカーンは真の民主政治がなんであるかを示しました。

多くの生物や近代医学、宇宙物理の法則が修道僧によって、聖書に啓発されて光を研究したニュートンやアインシュタインによって発見されました。

産業革命はジョンウエスレ―によるリバイバルと相前後してなされたことはマックス・ウェーバーが指摘しています。

神に向かう人生の、あるいは文明と言うこの坂を登るには、神御自身の力が必要であります。

これをもし、人間が自己の能力のみで成し遂げようとするなら、とてつもない重荷を負うことにならないでしょうか。

十字架を見上げるとき、私たちの自我がそこで砕かれます。日本が廃墟のなかから立ち直ったのは自分の力や美しさを誇った時ではなく、鎖国に依っていかに立ち遅れた自国を謙虚に認識して、他国に学ぶ決意をした若者たちが新たな日本の礎を築きました。

敗戦の荒廃から世界の経済大国に立ち直させたのは、自らの非を認めたその悔い改めではなかったでしょうか。

イザヤは、天使セラヒムが神を礼拝するのを目撃して、その清さのゆえに「私はもう駄目だ」と叫びました。そのことが大予言者イザヤの原点になりました。パウロは自分の罪を知って「自分はなんというみじめな人間か」となげきました。

その砕きのゆえに聖霊はパウロの内側から泉のように湧きあがり、川となって流れ始めました。

十字架と復活は表裏一体であります。レントにおいて主の十字架を見上げ、被造物依存と自我を十字架に共につけていただき、そして日々復活のいのちに活かされ、聖霊ご自身に働いていただきましょう。

自力によって坂を登ろうとして我が国は一度大きな挫折を味わいました。

今は恵みの時代です。神御自身が私たちの荷を負ってくださり、その偉大な働きを見せて下さる時代であります。

 

 

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空間・時間・復活Space,Time and Resurrection

2013-03-11 11:28:17 | ゴスペル

今はレント(受難節)です。40日間の。最終の一週間が受難週。そして復活日(イースター)を迎えます。

それから復活の主が40日間に渡って弟子たちに現われたことを覚えて40日間の復活節に入ります。

T.F.トランスは「空間・時間・復活」(小坂訳・ヨルダン社)によって神学的に復活を解明しました。

空間と時間と言う三次元は、罪によってサタンと死の支配に陥りました。

いくら人類と全被造物が、もがいてみても終局は死滅に終わる。これが厳しい現実であります。

3・11はまざまざとその悲惨をわれわれにつきつけました。

ラザロは死んで遺体はすでに腐敗が始まっていたのです。マリヤとマルタが悲嘆と絶望にくれたとしても

当然のことであります。そして主も涙されました。

しかし主の涙は悲憤のそれだったとあります。何に対して主は怒られたのでしょうか。

一つには圧倒的な死の力に対してであり、もうひとつはその死とそれをもたらすサタンをはるかに超えた

お方であるご自身がそこに居たもうにもかかわらず、人々が光よりも闇にのまれて不信と絶望に陥って

いるからだったからです。

突然、永遠の主の言葉が、時のただなかに突き刺さるように放たれます。「ラザロよ起きなさい!」と。

主ご自身がこの空間と時間の中に入られた永遠者であります。

死によって封印されたこの空間と時間が、創造主のもとに呼び戻されることによって、死を越えた永遠の

次元に解放されるのです。

ところでラザロは再びこの世に戻されました。しかし、主は神の光の座へ復活されました。パウロはその光の中で主と邂逅しました。

サタンは復活はないと叫びます。そのことによって自己の支配権を誇示したいのです。

しかし、事実まぎれもなく主は復活されました。今や死の力は根こそぎにされました。

闇は今でも光を覆い隠そうとしていますが、創造主の光は全被造物をはるかに凌駕し、そして全被造物を

永遠の光へ解放して下さるのです。

 

 

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勝利の秘訣

2013-03-03 22:37:41 | ゴスペル

主イエスの荒野におけるサタンとの戦いは、始めから勝負が決められていたことが分かります。

レベルと言うか次元と言うか全く違っているからです。例えば天使ミカエルとサタンは同レベルで戦いますから

いわば接戦の様相を呈します。しかし創造霊の次元と天使レベルでは天と地の違いがあります。

御霊によって創造主のレベルに引き上げられている主イエスにとって、サタンは眼下の敵であります。

至聖所はサタンにとってはるかに遠く高い次元であります。

したがってサタンの策略は何とか自分のレベルに主を引き下ろそうとする誘惑でもあったことが分かります。

アダムの場合は、自我を神のようにさせて、もはや神依存ではなく自主の者に誘うことによって、まんまと罠にかけ結果的に人間を自分の下位に置くことに成功しました。

しかし主はその誘いにはのりませんでした。御霊への依存によってその高い地位を守られ、敵に対して優位な立場を明け渡すことはされませんでした。

ですから主は御霊によって同じ栄光の座に引き上げられている私たちに「悪霊どもがなたがたに服従するからと言って喜んではなりません。ただあなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10の20)

と語られました。

ヨハネは「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネ第一の手紙5の5)

と語り、パウロは「キリスト・イエスにおいて。ともによみがえらせ、ともに天のところにすわらせてくださいました。」(エペソ2の6)と証言しています。

霊的に、死を越えた永遠のいのちの次元にすでに引き上げられているというのです。

つまり私たちは勝敗の分からない戦いをしているのでなく、すでに勝利のなかで敵と一戦を交えているということです。

哲学者三木清は「幸福を武器とする者が敗れてもなお幸福である」と語りましたが、御霊の内住のなかで生きる者は相対的状況のいかんによらず、絶対的勝利と幸福を生きるのであります。

創造主であられる神が、私たちの内に住んで下さり、その永遠のいのちをともに生きて下さり、私たちに代わって戦ってくださり、活動して下さるからであります。

 

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未知との遭遇・永遠回帰への歴史

2013-03-02 17:06:16 | 歴史

歴史家トインビ-は文明の激突と交流としての人類史を描きました。

神がモーセを立ててエジプトから脱出させるために現わした奇跡はアロンの杖をヘビに変え、同じく呪術者の杖であったヘビを飲み込ませたことでした。

創造霊が被造霊を飲み込んだといってよいでしょう。

それは人類の側からいえば失った永遠を、再び回復してゆく行程としての歴史です。

しかしそれは永遠者の清さのゆえに、その聖性のゆえに、神の側の大いなる犠牲を伴うものでした。

40日間の荒野でのサタンの誘惑はまさにここに集中したと言ってよいでしょう。

つまり、サタンは神から奪った世界を再び奪回されないように、換言すれば時間の中に人類を閉じ込めて

永遠と断絶させるために、主の十字架による贖いへの道をそらそうとしたのです。

パロが秘術を用いて、出エジプトを拒んだように、一度捕えられたものの解放は容易ではなかったのです。

しかし、主は十字架と復活による贖いの道を貫徹されました。御霊と共に。

そうして死はいのち(ゾーエーン・神のいのち)に飲み込まれました。

一人一人が未知であった永遠者と遭遇し、その交わりといのちに生きる道が開かれたのです。

それは人生の目立たぬひとこまの出来ごとに見えますが、これこそ歴史の中で文明を動かす底流であります。

なぜなら全被造物はその創造主に立ち返ることによって本来の永遠性を回復するからです。

そのために、創造主は人となられ、その清い血の代価を払われて、人をご自身もとに呼び戻されました。

 

 

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