「闇に輝くともしびを継いで」Take the torch shining in the Dark ~宣教師となった元日本軍捕虜の76年~ スティーブン・メティカフStephen A. Metcalf著より抜粋
・・・・・その人、エリック・リデルは、一九二四年のパリ・オリンピックにおけるゴールドメダリストとして有名なイギリス人だった。一九八一年公開のアカデミー賞作品省映画「炎のランナー」の主人公と言えば、もっと多くの人にわかっていただけるかもしれない。・・・・・しかし、それらのスポーツのキャリアをすべて投げうって、エリック・リデルは中国の宣教師になった。そして一九四一年、気がつけば戦争の黒雲が彼の周りに立ちこめていたのである。リデルは、妊娠中の妻とふたりの娘をカナダに帰し、中国で始めた神の仕事を終わりまでやり通すために、自分ひとりが残った。こうして、同じ不運に追い立てられて、リデルと私は濰県の収容所で再会したのだ。・・・・・
ある日、リデルの聖書クラスで「山上の説教」を学んでいたとき、聖書の中の一つのことばを巡って私たちとリデルの間で意見が対立した。・・・・その中に、「自分の敵を愛しなさい」という一節があるのだが、その日、私たちは、イエスがこれを「このような姿勢でいるべきだ」という理想として語ったのか、それとも本気で「こうしなさい」という意味で語ったのかということで議論を始めた。
当時の私たちにとって、「敵」ということばで真っ先に頭に浮かぶのは、なんといっても日本兵だった。日本兵を愛せるか。そう具体的に問われると、このことばがどれほどとんでもない教えかよくわかった。
前にも少し触れたが、私たち自身は、収容所の中でそれほどひどい暴力にさらされたわけではなかった。また、戦闘地域にいた者のように、大殺戮の場面を目撃したわけでもない。しかしそれでもやはり、日本兵による中国人へのむごい仕打ちを見せつけられていた。
私は、両目をえぐり出された人が目を下に垂らした姿でリヤカーに乗せられて、市中を引き回されているところを見たことがある。そのとき彼はまだ生きていた。生きたまま両目をえぐり出されたのである。スパイ容疑などで殺された人が、見せしめにさらし首にされているのも見た。友人のレイの母親は南京で看護婦をしていたが、勤めていた病院に南京大虐殺の犠牲者が次々に運びこまれてくるのを見ているうちに、その傷のむごたらしさに、神経が完全にまいってしまった。中には、小さな肉片になるまで切り刻まれた女性の死体などもあったという。同じ殺すにしてもなぜそこまでしなければならないのか。これが人間のやることなのか。目に入ってくること、耳に入ってくることのすべてが、とうてい赦せるようなものではなかったのである。
愛せるはずがない。この教えはやはりあくまでも理想だ。私たち少年の意見がそういう結論に傾き始めたとき、リデルはほほえみながら言った。「ぼくもそう思うところだったんだ。だけど、このことばには続きがあることに気がついたんだよ。『迫害する者のために祈りなさい』という続きがね。ぼくたちは愛する者のためなら、頼まれなくても時間を費やして祈る。しかし、イエスは愛せない者のために祈れと言われたんだ。だからきみたちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、きみたちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、きみたちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りはきみたちの姿勢を変えるんだ。」そう言うリデル自身、毎朝十五分早く起きて日本と日本人のために祈っている人だった。
私は、ひとりのクリスチャンとして、多くのことを祈っていた。――スパイ容疑で捕えられた校長先生が早く解放されますように。天皇礼拝を拒否して投獄されている中国人牧師たちが早く解放されますように。意地悪な日本兵が転属でいなくなりますように――。これらのことは、祈らずにはいられないことだった。しかし、日本兵のためになど、祈ろうと思ったこともないし、祈りたくもなかった。けれども、「迫害する者のために祈りなさい」というのがイエスの教えであり、そうするときに自分中心ではなく神中心になるのだとリデルにさとされたとき、私は、信仰の新たな段階に進まなければならないところにきたのだと感じた。そう教えてくれたリデルを心から敬愛し、彼のようなクリスチャンになりたいと思ってもいた。そこで私も思いきって、このときから日本と日本兵のために祈り始めたのである。
そのような一大決心をして日本兵のために祈り始めても、彼らの振る舞いが変わることはなかった。相変わらず残酷なシーンを目にしなければならないことがたびたびあった。しかし、それを見ている私の心には変化が生じてきた。
以前は、その行為をしている日本兵個人に憎しみを向けていたのだが、祈るようになってからは「これが戦争だ。ひどい戦争だ。今の彼らは死に慣れっこになっていて、いのちの価値がわからなくなっている。それに、人間が神に造られた大切な存在であることも知らないであんなことをしている」と思うようになった。それは強い怒りでもあり、悲しみでもあったが、憎しみではなくなっていったのだ。
また、そんな残酷なことをする日本兵であっても、彼らは神に愛されている存在なのだと思うようになった。イエスは、ローマ兵が自分を十字架につけている最中に、そのはかりしれない苦痛の中で「父(神)よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言われた方だ。日本兵たちもまた、自分が何をしているのかわかっていなかった。どれほど神を悲しませ、苦しませる恐ろしい罪を犯しているのか、自分ではさっぱりわかっていなかった。しかし、そんな彼らのことをも、神は憎んでいたのではない。愛していたのだ。そう思うと、憎む代わりに、日本兵たちが一日も早くそのことを悟り、神さまのもとに立ち返ってくれればいいと願うようになっていった。リデルが教えてくれた「きみの姿勢が変わる」とはこういうことだったのか、と体験して初めてわかった。
もし、祈らなければ、日本のことを野蛮で恐ろしい国という目で見続いていたに違いないと思う。ずっと後に、戦争が終わってオーストラリアで神学校に通い始めたころ、私は多くのクリスチャンたちが日本のためには祈りたがらないことに気づいた。彼らの気持ちはよく理解できた。それは自然な感情だ。しかしもし、自分の自然な感情に従うのではなくイエスの教えに従うのなら、憎んで当然の相手を愛するようになるという奇跡を神さまが起こしてくださるということを、私は体験したのだ。
収容所という特殊な環境の中で、こんなにも大切なことを教えてくれたリデルは、私にとってかけがえのない教師だったが、彼の身には少しずつ恐ろしい変化が生じ始めていた。以前はできたいろいろなことが、だんだんできなくなってきていた。脳腫瘍の兆候だった。
あるとき彼は自分のランニングシューズを持って、私に会いに来てくれた。彼独特のはにかんだようなぶっきらぼうな言い方で、「きみもその靴をかなりはきつぶしているようだね。また冬が来ることだし、僕のこの靴なら二、三週間はもつんじゃないかな」と言うと、軽くうなずいて私の手にその靴を押しつけていった。それはぼろぼろだったが、彼にとって非常に意味のある競技会で使った靴だったことを後に知った。あちらこちらにつぎはぎがあったが、それは彼自身が私のためにしてくれたことだった。脳腫瘍の症状に苦しめられながら、どれほどの苦労をしてそのつぎをあててくれたことだろうか。
それから三週間ほどして、エリック・リデルは天国へ帰っていった。四十三歳という若さだった。私と、他にほんの十数人だけが、警備兵に伴われて墓地まで行った。私は彼がくれたランニングシューズをはいて棺をかついだ。殺風景な墓地の穴に彼の棺をおろし、寒さに震えながら収容所に帰る道すがら、私の心には複雑な思いが渦巻いていた。「これが中国にいのちを捧げた男の迎える結末なのか。妻にも子供にも死んだと知らせることさえできないなんて。ゴールドメダリストであり、聖人のような人物だったのに。でもいつかきっと神さまがエリックに栄誉を与えてくださるにちがいない。僕たちは今、とにかく収容所生活を続けていかなければならないんだ。きっとやるべき仕事が残っているんだ。神さま、もし僕が生きてこの収容所を出られる日が来たら、きっと宣教師になって日本に行きます」・・・・・・
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スティーブン・メティカフ師はその後7年後に宣教師として来日し、それから38年間日本で宣教の奉仕しました。2003年10月に恵子ホ-ムズさんと共にアガペ和解の旅で向島捕虜収容所跡を訪問されました。主と共に試練の人生をかけぬけた若者たちの姿が胸中を去来したに違いありません。
http://www.youtube.com/watch?v=jTf2h2ed-P4