創造

創造主とセルフイメージの世界

By Hellship to Hiroshima 「地獄船で広島へ」を訳し終えて

2019-02-16 11:18:35 | 捕虜レクエム

http://www.333.ecnet.jp/pow/tuitou.html

「尾道赤レンガの会」の有志の方々と共に、「大日丸」で移送され因島捕虜収容所での捕虜体験記を書かれた元イギリス空軍兵士テレンス・ケリ-さんの

著書を多くの方々の指導によってやっと訳し終えホットしました。これから電子本化と印刷出版を検討してゆくことになります。

おりしも隣国との徴用工問題が政治問題化しておりますが、まず歴史の事実を把握しなければ本当の解決は難しいと思います。

とこで翻訳と言っても、電子本だとある程度、コピ-ペイストが可能で、ネットの多くの無料翻訳ソフトを活用する「超翻訳法?」も活用できました。

全ての言語を知られている神に「バベルの塔の人類の罪」の赦しを願い、祈りつつなんとかやり遂げることが出来、感謝しています。

 

 https://www.bing.com/videos/search?q=%e6%9c%80%e5%be%8c%e3%81%ae%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%8a%ef%bc%8d+%e7%82%8e%e3%81%ae%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%8a%ef%bc%8d&view=detail&mid=CCDA869353A89302D782CCDA869353A89302D782&FORM=VIRE

 

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「炎のランナ-」とメティカフ少年

2013-08-21 10:24:43 | 捕虜レクエム

 

「闇に輝くともしびを継いで」Take the torch shining in the Dark ~宣教師となった元日本軍捕虜の76年~ スティーブン・メティカフStephen A. Metcalf著より抜粋

 

・・・・・その人、エリック・リデルは、一九二四年のパリ・オリンピックにおけるゴールドメダリストとして有名なイギリス人だった。一九八一年公開のアカデミー賞作品省映画「炎のランナー」の主人公と言えば、もっと多くの人にわかっていただけるかもしれない。・・・・・しかし、それらのスポーツのキャリアをすべて投げうって、エリック・リデルは中国の宣教師になった。そして一九四一年、気がつけば戦争の黒雲が彼の周りに立ちこめていたのである。リデルは、妊娠中の妻とふたりの娘をカナダに帰し、中国で始めた神の仕事を終わりまでやり通すために、自分ひとりが残った。こうして、同じ不運に追い立てられて、リデルと私は濰県の収容所で再会したのだ。・・・・・

 

 ある日、リデルの聖書クラスで「山上の説教」を学んでいたとき、聖書の中の一つのことばを巡って私たちとリデルの間で意見が対立した。・・・・その中に、「自分の敵を愛しなさい」という一節があるのだが、その日、私たちは、イエスがこれを「このような姿勢でいるべきだ」という理想として語ったのか、それとも本気で「こうしなさい」という意味で語ったのかということで議論を始めた。

 

 当時の私たちにとって、「敵」ということばで真っ先に頭に浮かぶのは、なんといっても日本兵だった。日本兵を愛せるか。そう具体的に問われると、このことばがどれほどとんでもない教えかよくわかった。

 

 前にも少し触れたが、私たち自身は、収容所の中でそれほどひどい暴力にさらされたわけではなかった。また、戦闘地域にいた者のように、大殺戮の場面を目撃したわけでもない。しかしそれでもやはり、日本兵による中国人へのむごい仕打ちを見せつけられていた。

 

 私は、両目をえぐり出された人が目を下に垂らした姿でリヤカーに乗せられて、市中を引き回されているところを見たことがある。そのとき彼はまだ生きていた。生きたまま両目をえぐり出されたのである。スパイ容疑などで殺された人が、見せしめにさらし首にされているのも見た。友人のレイの母親は南京で看護婦をしていたが、勤めていた病院に南京大虐殺の犠牲者が次々に運びこまれてくるのを見ているうちに、その傷のむごたらしさに、神経が完全にまいってしまった。中には、小さな肉片になるまで切り刻まれた女性の死体などもあったという。同じ殺すにしてもなぜそこまでしなければならないのか。これが人間のやることなのか。目に入ってくること、耳に入ってくることのすべてが、とうてい赦せるようなものではなかったのである。

 

 愛せるはずがない。この教えはやはりあくまでも理想だ。私たち少年の意見がそういう結論に傾き始めたとき、リデルはほほえみながら言った。「ぼくもそう思うところだったんだ。だけど、このことばには続きがあることに気がついたんだよ。迫害する者のために祈りなさいという続きがね。ぼくたちは愛する者のためなら、頼まれなくても時間を費やして祈る。しかし、イエスは愛せない者のために祈れと言われたんだ。だからきみたちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、きみたちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、きみたちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りはきみたちの姿勢を変えるんだ。」そう言うリデル自身、毎朝十五分早く起きて日本と日本人のために祈っている人だった。

 

 私は、ひとりのクリスチャンとして、多くのことを祈っていた。――スパイ容疑で捕えられた校長先生が早く解放されますように。天皇礼拝を拒否して投獄されている中国人牧師たちが早く解放されますように。意地悪な日本兵が転属でいなくなりますように――。これらのことは、祈らずにはいられないことだった。しかし、日本兵のためになど、祈ろうと思ったこともないし、祈りたくもなかった。けれども、「迫害する者のために祈りなさい」というのがイエスの教えであり、そうするときに自分中心ではなく神中心になるのだとリデルにさとされたとき、私は、信仰の新たな段階に進まなければならないところにきたのだと感じた。そう教えてくれたリデルを心から敬愛し、彼のようなクリスチャンになりたいと思ってもいた。そこで私も思いきって、このときから日本と日本兵のために祈り始めたのである。

 

 そのような一大決心をして日本兵のために祈り始めても、彼らの振る舞いが変わることはなかった。相変わらず残酷なシーンを目にしなければならないことがたびたびあった。しかし、それを見ている私の心には変化が生じてきた。

 

 以前は、その行為をしている日本兵個人に憎しみを向けていたのだが、祈るようになってからは「これが戦争だ。ひどい戦争だ。今の彼らは死に慣れっこになっていて、いのちの価値がわからなくなっている。それに、人間が神に造られた大切な存在であることも知らないであんなことをしている」と思うようになった。それは強い怒りでもあり、悲しみでもあったが、憎しみではなくなっていったのだ。

 

 また、そんな残酷なことをする日本兵であっても、彼らは神に愛されている存在なのだと思うようになった。イエスは、ローマ兵が自分を十字架につけている最中に、そのはかりしれない苦痛の中で「父(神)よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言われた方だ。日本兵たちもまた、自分が何をしているのかわかっていなかった。どれほど神を悲しませ、苦しませる恐ろしい罪を犯しているのか、自分ではさっぱりわかっていなかった。しかし、そんな彼らのことをも、神は憎んでいたのではない。愛していたのだ。そう思うと、憎む代わりに、日本兵たちが一日も早くそのことを悟り、神さまのもとに立ち返ってくれればいいと願うようになっていった。リデルが教えてくれた「きみの姿勢が変わる」とはこういうことだったのか、と体験して初めてわかった。

 

 もし、祈らなければ、日本のことを野蛮で恐ろしい国という目で見続いていたに違いないと思う。ずっと後に、戦争が終わってオーストラリアで神学校に通い始めたころ、私は多くのクリスチャンたちが日本のためには祈りたがらないことに気づいた。彼らの気持ちはよく理解できた。それは自然な感情だ。しかしもし、自分の自然な感情に従うのではなくイエスの教えに従うのなら、憎んで当然の相手を愛するようになるという奇跡を神さまが起こしてくださるということを、私は体験したのだ。

 

 収容所という特殊な環境の中で、こんなにも大切なことを教えてくれたリデルは、私にとってかけがえのない教師だったが、彼の身には少しずつ恐ろしい変化が生じ始めていた。以前はできたいろいろなことが、だんだんできなくなってきていた。脳腫瘍の兆候だった。

 

 あるとき彼は自分のランニングシューズを持って、私に会いに来てくれた。彼独特のはにかんだようなぶっきらぼうな言い方で、「きみもその靴をかなりはきつぶしているようだね。また冬が来ることだし、僕のこの靴なら二、三週間はもつんじゃないかな」と言うと、軽くうなずいて私の手にその靴を押しつけていった。それはぼろぼろだったが、彼にとって非常に意味のある競技会で使った靴だったことを後に知った。あちらこちらにつぎはぎがあったが、それは彼自身が私のためにしてくれたことだった。脳腫瘍の症状に苦しめられながら、どれほどの苦労をしてそのつぎをあててくれたことだろうか。

 

 それから三週間ほどして、エリック・リデルは天国へ帰っていった。四十三歳という若さだった。私と、他にほんの十数人だけが、警備兵に伴われて墓地まで行った。私は彼がくれたランニングシューズをはいて棺をかついだ。殺風景な墓地の穴に彼の棺をおろし、寒さに震えながら収容所に帰る道すがら、私の心には複雑な思いが渦巻いていた。「これが中国にいのちを捧げた男の迎える結末なのか。妻にも子供にも死んだと知らせることさえできないなんて。ゴールドメダリストであり、聖人のような人物だったのに。でもいつかきっと神さまがエリックに栄誉を与えてくださるにちがいない。僕たちは今、とにかく収容所生活を続けていかなければならないんだ。きっとやるべき仕事が残っているんだ。神さま、もし僕が生きてこの収容所を出られる日が来たら、きっと宣教師になって日本に行きます」・・・・・・

 

****************************

 

スティーブン・メティカフ師はその後7年後に宣教師として来日し、それから38年間日本で宣教の奉仕しました。2003年10月に恵子ホ-ムズさんと共にアガペ和解の旅で向島捕虜収容所跡を訪問されました。主と共に試練の人生をかけぬけた若者たちの姿が胸中を去来したに違いありません。 

http://www.youtube.com/watch?v=jTf2h2ed-P4

 

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メモリアル設置

2013-01-22 23:12:12 | 捕虜レクエム

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12月14日現在・メモリアル設置予定地

2012-12-15 11:48:31 | 捕虜レクエム

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交流ニュース

2012-10-26 10:20:11 | 捕虜レクエム

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201210240027.html

 

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メモリアルモニュメント広場イメージ図

2012-08-08 19:54:31 | 捕虜レクエム

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メモリアル・プレート現状報告(山陽日日新聞)

2012-08-07 15:57:06 | 捕虜レクエム

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上越市平和祈念公園展示館(捕虜資料館)

2012-07-13 16:40:27 | 捕虜レクエム

http://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/kyousei/heiwa-shisetsu.html

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7月12日現在旧紡績地写真

2012-07-12 23:22:11 | 捕虜レクエム

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THE WING OF TIME

2012-06-01 20:54:59 | 捕虜レクエム

http://holyspirit.blog.ocn.ne.jp/mmm/files/englishwingoftime.pdf

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戦場のメリー・クリスマス

2012-05-30 07:34:17 | 捕虜レクエム

 

http://www.youtube.com/watch?v=JWx8o5FI-Us

http://nihon.eigajiten.com/senjyou.htm

向島捕虜収容所跡を見学された岡山大学の中尾准教授から、ビートたけしが初めて出演した「戦場のメリー・クリスマス」映画会を開催してみてはとのご意見を伺いました。

当地で捕虜として過ごされた英国空軍兵士たちは、太平洋戦争ジャワ宣戦でとらえられた方々だったからです。

他方、タイメン鉄道建設のため強制労働に従事した捕虜を描いた「戦場にかける橋」があります。

アーネスト・ゴードン著「クワイ河収容所」も映画化されましたが、日本人通訳者永瀬隆氏を描いた映画の製作が進められているとのことです。

 

 

 

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戦争遺構研究会

2012-04-27 10:54:16 | 捕虜レクエム

戦争遺構研究会の要請文コピーです。

「貴重な戦争遺構・を、正しく評価して、将来、文化財に指定し、保全活用されるよう要望します。12・04・20.

広島県知事殿、 尾道市市長殿、尾道市市議会殿、文化庁殿

 突然失礼します。ご検討をよろしくお願いします。

 向島捕虜収容所:戦争の惨禍刻む遺産、解体へ 英の遺族や広島・尾道市民が保存訴え。第二次大戦中、英国や米国の兵士を収容していた、広島県尾道市向島町の向島捕虜収容所が近く、取り壊される。かけがえのない戦争遺構は、後世に悔いを残さないよう正しく評価して、文化財にして保全活用されるよう要望。戦争遺構研究会



のこぎり形の屋根に赤れんが造りの建物。壁面には、収容所で死亡した元捕虜の名前を刻んだメモリアルプレートが設けられている。元捕虜の遺族や市民からは、戦争の惨禍を刻んだ貴重な歴史遺産を惜しむ声が強まっており、英国政府も関係者に保存を要求。保存の声に戦争遺構の研究している立場から応援中。戦争遺構研究会

     戦争遺構の保全活用の研究している立場から関西から応援させてもらいます。
 
   599-8126 堺市東区大美野155-13 
          
            戦争遺構研究会 TEL 072-236-3357 。






  向島捕虜収容所:戦争の惨禍刻む遺産、解体へ 英の遺族や広島・尾道市民が保存訴え。第二次大戦中、英国や米国の兵士を収容していた、広島県尾道市向島町の向島捕虜収容所が近く、取り壊される。かけがえのない戦争遺構は、後世に悔いを残さないよう正しく評価して、文化財にして保全活用されるよう要望。戦争遺構研究会



のこぎり形の屋根に赤れんが造りの建物。壁面には、収容所で死亡した元捕虜の名前を刻んだメモリアルプレートが設けられている。元捕虜の遺族や市民からは、戦争の惨禍を刻んだ貴重な歴史遺産を惜しむ声が強まっており、英国政府も関係者に保存を要求。保存の声に戦争遺構の研究している立場から応援中。戦争遺構研究会



  向島捕虜収容所:戦争の惨禍刻む遺産、解体へ 英の遺族や広島・尾道市民が保存訴え
毎日新聞 2012年04月20日 大阪夕刊


向島捕虜収容所だった向島紡績の工場建物(一部画像加工をしています)=広島県尾道市向島町で2012年4月13日、坂根撮影
拡大写真 第二次大戦中、英国や米国の兵士を収容していた、広島県尾道市向島町(むかいしまちょう)の向島捕虜収容所が近く、取り壊されることが関係者への取材で分かった。のこぎり形の屋根に赤れんが造りの建物。壁面には、収容所で死亡した元捕虜の名前を刻んだメモリアルプレートが設けられている。元捕虜の遺族や市民からは、戦争の惨禍を刻んだ貴重な歴史遺産を惜しむ声が強まっており、英国政府も関係者に保存を求めるという。【坂根真理】

 建物を管理し、工場として使っていた地元の向島紡績が昨年12月に倒産し、解体が決まった。跡地を借り上げた地元のスーパー経営会社が商業施設を建設する。今月20日、取り壊しの工事が始まる予定だ。

 しかし、建物の保存を求める声は根強い。建物の壁のメモリアルプレート(縦2・9メートル、横2・5メートル)は、「歴史遺産を後世に伝えよう」という地元市民らが02年、募金を集めて設置。市民らは「日英友好メモリアルプレート保存の会」として活動をしている。会の小林晧志(こうし)さん(72)は「捕虜の悲惨な歴史を後世に伝えるため、何とか残してほしい」と訴える。」

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