創造

創造主とセルフイメージの世界

ノア・S・ブラネン先生11日天に召される

2013-04-13 21:49:50 | 歴史

向島キリスト教会初代宣教師ノア・S・ブラネン先生が4月11日肺炎のためカリフォルニアで主の御許に召されたとのお知らせを山口さんから受けました。先生は向島教会の事実上の創立者でもあられ、宣教のあいまに大三島方言を研究され、ミシガン大学で博士号を取得されました。

国際基督教大学でも長い間教授として働かれ、多くの著書を残されました。米国に帰国される際、NHKラジオ番組に三夜連続で出演され、尾道と向島そして福音丸での瀬戸内海の島々を航海されたことをなつかしげに語っておられました。ギタ-もお上手でしたがお嬢さんの二人は一時、フォーク歌手の草分けとしてデビュ-されたそうです。

奥様のアン・ブラネン先生は昨年12月26日に召されたとのことですから、天国で幸せな再会をされていることと思います。こちらが寂しくなるということは、むこうではにぎやかになるということですから。

先生を天に送られた皆様の上に主の慰めと平安をお祈りします。

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日英米友好メモリアル除幕式[15日(月)午後2時-3時エブリイ駐車場隣接広場]

2013-04-12 20:55:36 | 捕虜レクイエム

15日の除幕セレモニ-には尾道市副市長を始め、イギリス領事のフィッシャー氏や岩国海兵隊司令官スチュワ-ト氏、エリザベス女王から勲章を授与されたPOW研究会代表笹本妙子氏、中央小学校4年生70余名のほかに宮沢賢治ワ-ルドを代表する宮沢和樹氏も来賓として出席されます。

私もこのセレモニ-を終えた後、28年間すごした尾道とお別れして、徳島に行くことになりました。徳島市と鳴門市の間にある松茂町というところです。阿波踊り空港から歩いて10分ぐらいのところです。以前、その近くの賀川豊彦のお墓を訪問したことがありました。鳴門市のドイツ館[第一次大戦ドイツ人捕虜収容所記念館]の隣には賀川豊彦記念館があります。

ところで賢治の詩を朗読された長岡輝子さんが賀川豊彦を世界に紹介したのはタッピング宣教師だと以下のブログで語っております。

http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20090924/1253829917

そして盛岡で賢治が聖書を学んだのは、タッピング宣教師からでした。明治の米国宣教師として瀬戸内海を福音丸で航海伝道したのはドイツ系米国人ビッケル船長でした。そのお嬢さんとタッピング師の息子さんが結婚して瀬戸内海で働かれたこともあります。9年前の2004年大村はま先生が来尾されたとき、恩師の一人がビッケル船長のお嬢さんエバリン・タッピング氏であったことを感銘深く語っておられました。

http://holyspirit.blog.ocn.ne.jp/mmm/2009/05/post_6a77.html

除幕セレモニ-には園山春二氏も参加されるとのことです。和樹氏の友人とのことで尾道イ-ハト-ブの提唱者です。

http://ihatov.in/sonoyama/

人間の出会いが歴史を形成してゆくのだと改めて思わされます。

ペリ-に同行した仙太郎は日本人で初めての海兵隊員でした。ゴ-ブル同様に。

そして、それぞれがその人生を走りぬいて、天のみ国に凱旋します。

この地での米国人捕虜で死亡したのはただ一人でしたが、その追悼のため多忙を極める公務の中、来て下さる司令官、同胞23名を偲んでこられる英国領事官はじめ日本側の来賓者に感謝と敬意を覚えます。

このようなすべてのことの中で創造主が私たちの内に働かれ、導いておられるのだと思います。

 

 

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日英米友好メモリアル

2013-04-02 11:23:53 | 捕虜レクイエム

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201303280038.html

 

完成予想図

大畠商会による基礎工事(4月1日現在)

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尾道海事史と松本帆布

2013-04-01 23:08:38 | 歴史

土本さんの写真パネル展「兼吉3丁目今昔物語」を鑑賞された長江在住の松本博之氏から

松本帆布創設者の「松本栄七氏」のご子孫であるとの伝言が届けられました。

http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/kaijitoshi/history/h06.pdf#search='%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%B8%86%E5%B8%83'

あのレンガ塀はその時代に建てられたものです。戦時中海軍の捕虜収容所とされ、その後2011年まで向島紡績工場でした。

兼吉銀座と呼ばれるほどの街通りは、この建物の歴史と共にあり、また日立造船や丸善製薬という企業を背景に栄えたのだと思われます。

そして現在ス-パ-「エブリイ」の敷地の一角に英国人捕虜と米国人捕虜を追悼する日英米友好メモリアルが建てられ4月15日午後2時から除幕式とセレモニ-が開催されることになりました。これには保管されているそのレンガが一部に使用されます。

昨年夏、汗のなかのケレン作業で残されたものです。解体されたレンガを清掃し再利用したことは因島収容所の元捕虜、テレンス・ケリー氏も経験したと著書の中で述べています。

このレンガが購入された英国製戦艦の運搬時、バラストとして用いられたものかどうかは今後の研究課題であります。

思えば、尾道港の海運業、幕末以来の海軍、そして帆布産業そして造船業は相提携しつつ、瀬戸内の近代化を推進してきたと言えるでしょう。

日立造船の前身「大阪鉄工所」は、日本造船業の夜明けの1881年4月1日に産ぶ声をあげたと「90周年史」

に記されています。

 

 

 

 

 

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