(コリント人への第二の手紙・4章7ー18)
神はご自身である聖霊を私たち、土の器に住まわせておられます。
ギリシャ思想では肉体が外、精神が内ですが、聖書では創造霊を頼る生き方を内なる人、被造物に依存する生き方を外なる人ともいえます。ですから、ギリシャ思想のように、精神(心)を絶対化して、これを頼るのでなく、内住の人格者である御霊を頼ることが大切です。御霊は信仰を与え、言葉となって現れます。
私たちは永遠の宝を内にいただいているのですが宇宙よりも偉大なお方がどうして、自分のような小さな中に臨在できるかと疑問に思ったりします。イスラエルの民が荒野の旅に出るとき、貴金属やダイヤモンドを携帯しました。現代でもユダヤ人がダイヤ生産の大半をシェアしているといわれます。非常に高価なため、いざというとき、宿代にも食費にも代えられるのです。神は自らを低く小さくされておられるのです。
そして試練の中で、ご自分に頼らせようと待っておられます。
心(魂)も体と同じように被造物であることを忘れてはなりません。
「自分の心に依り頼む者は愚か者だ。(神の)知恵によって歩む人は救われる。(箴言28:26))」
自分の気持ちに頼る者は愚かな者と宣言しています。なぜ聖書はそう言うのでしょうか。それは、人の心や気持ちは一瞬で変わることが多いかららです。絶えず目に見えるものに頼ろうとして 感情のジェットコースターに左右されやすく、幸福だと思っていてもすぐ心が沈み、不幸だと思います。 心が愛で満たされていると感じたと思ったら、すぐ怒りでいっぱいになることもあります。 自信にあふれていたはずなのに不安になったり・・・・。
自分の心だけをよりどころにするのは、人間の限られた知識と気まぐれな感情に将来を賭けるのと同じことのような歩みになるのです。
エレミヤ書、17:5 主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。
7:7 主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。17:8 その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。
戦争や天災、病で死が迫る時、死を超えた神のいのちに目が注ぎます。外なる自分や環境は乏しく厳しくとも、内なる自分を見ますと素晴らしい宝が輝いております。
6章にもあるように、霊の目で見ると何も持っていないかのように見えますがすべてをもっています。
目に見えるものから目を離すとき、いままで見えなかったものが目に入ります。暗闇でしか見えないものが見え、歌が聞こえます。試練は内なる霊の世界に目を開かせます。ダニエルは21日間の悩みと祈りの後に、目が天使の世界に開かれました。敵の大軍に囲まれて絶体絶命の時にエリシャの弟子は主の大軍を見ました。
主の40日の試みの中で。サタンと戦い勝利されたのは御霊なる神御自身でした。
死ぬような厳しい試練に会う時、自分自身の天である至聖所におられる聖霊様が働かれていることに目が開かれます。
御子の血によって心を洗っていただき、被造物依存という偶像礼拝から解放されて、御霊がご自身を現わされますように。悔い砕かれた魂(心)を通して神の働きが輝き出ますように。
今の重い試練も共にいます主と御霊にゆだねるならば、神が重荷を代わって負ってくださるので軽くなります。
やがて、聖霊はこの土の器を栄光の復活の体に変えてくださるのです。