私たちは創造主Creatorである神によって造られた被造物creatureです。
神と私たちの間には天使あるいはサタンが介在し、断絶があります。
しかし人は神によって生まれることが出来ます。
神のいのちそのもの中に生かされるという奇跡です。
神の種(DNA)が人に宿り、永遠のいのちを生きるのです。
主イエスが神を「父と」呼んだのは単に造り主としてだけでなく、
同じ遺伝子で結ばれていたからです。心に聖霊が宿ると
その活動によって神と同質のいのち(ゾーエー)を体験します。
私たちはすべて人の遺伝子を与えられて誕生しました。
しかし被造物のいのち(プシュケーまたはビオス)の能力には限界があります。
最終的には死によってピリオドがうたれます。
またそのような自分の力のみに依存した人生には重い荷がかかってきます。
主は「すべて重荷に苦しむ者は私のもとに来て、謙遜とへりくだりを学びなさい。」
と語られました。
自分を主(あるじ)として歩むならば生活の重荷はすべて自分が負わなければ
ならない、しかし創造主とその霊を心の中心に据え、そのもとに自分を低くするならば
重荷はすべて主が負ってくださり、軽やかな自由な日々を過ごすことができるのだと
語られたのです。
つまり人力と自力だけでやってゆくと押しつぶされる危険があるが、創造主から生まれて
そのいのちを生きるならば重荷が取り去られるといことです。
あるいは自分が生きるというより、自分を通して神に生きて働いてもらうなら不可能と思えることが
可能になるということです。
神との対話(交わり)においても、神のいのちの中で聖霊によって祈ることは超自然的な
永遠の交わりです。3次元にありながら4次元を生きると言うべきでしょうか。
いわば創造主ご自身のレベルに引き上げられて直接「父よ」と交わるのですから。
御子はその永遠のいのちを与えんがために、人になられ十字架上で私たちの罪を負われ、
御霊のよって復活されました。
主を信じるとき私たちも神から生まれます。(ヨハネ1の12)
神に造られたことを越えて神自身のいのちに生き始めるのです。
ヤコブ1の18には「父はみこころのままに、真理のことばをもって、私たちをお生みに
なりました。」とあります。