創造

創造主とセルフイメージの世界

大日丸のシルエット

2012-11-21 14:33:53 | 捕虜レクイエム

ケリイ氏による「地獄船で広島へ」の表紙に「大日丸」のシルエットが用いられていました。

昨日、署名入りのこの本を手にして大日丸での悲惨な航海を読み始めていました。

向島収容所で死亡した23名の英国兵捕虜のほとんどが到着して数カ月後のことですので

地獄船と呼ばれた捕虜運搬船のことを知りたかったからです。

とこらが21日の今日、久しく御無沙汰していた瀬戸内タイムズ紙編集者の青木氏から電話があり、

「リビング・ウィズ・ザ・ジャパニーズ」に因島捕虜収容所と当時のことが詳しく書かれていて、日本語で読みたいとのことです。

手元の本を調べてみるとタイトルは「BY HELLSHIP TOHIROSHIMA」ですが、昨日から読んでいる同じ本であることが分かりました。

青木氏からの要望もあり、これから数人の有志で手分けして翻訳することになりました。

想像を絶する苦難の中で天に召されていった若者たちへのささやかな追悼になることを願っています。

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Topping,Willard.F夫妻

2012-11-17 20:08:16 | 歴史

宮沢賢治の詩「岩手公園」の大学生のタピングとは、ヘンリー・タッピング宣教師の長男ウィラードのことで、後に彼は瀬戸内海を福音丸で伝道航海したビッケル船長の娘エバリンと結婚します。http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/topping_wf.html

ビッケル船長亡きあと、1931(S6)年福音丸宣教に従事し、福音丸新報発刊に寄与したとあります。

女優の長岡輝子さんは賀川豊彦との関わりを証言しています。

http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20090924/1253829917

タッピング夫人と盛岡幼稚園の教師、園児の写真が見られます。

http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=80759150

小林功芳氏が「英学史研究21号」に「タッピング家の人々」と題して著しています。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/1989/21/1989_21_155/_pdf

エバリン氏と親交のあった教育家の大村はま氏が2004年4月尾道を訪問された際のことは同行された

小学館教育編集部 横山英行氏が報告されました。

http://blog.goo.ne.jp/mitsuominami/e/3dd9644555e8374d05d5ff491a910ba5

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タッピング師と宮沢賢治

2012-11-17 16:45:16 | 文学

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旧約聖書ヘブル語の学び

2012-11-12 22:29:08 | 創世

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%AB%E8%AA%9E%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0

聖書は神学校でしか学べないと思っていましたが、上記でインターネットの力を知らされました。

詩篇34編の18節後半、以前は「たましいの砕かれた者を救われる」と訳されていましたが最近は新改訳も共同訳も「霊の砕かれた者」「悔いる霊」と日本語で訳されています。

これを検証するには分厚い参考書数冊は必要でしたがインターネットでたやすく調べられるのは驚きです。

ルーアッハ(霊)と書かれていますから後者が正しいと思われます。70人訳ギリシャ語訳でもプニュ-マ

と訳し英語ではspiritです。もちろんSpiritではありません。

マタイ福音書の「心の貧しい者は幸いです。」は英語でHappy are those who know they are spiritually poor ですから詩篇34とほとんど同じ意味といえるでしょう。

霊は関係概念であり、本来創造霊を迎え交わる至聖所ともいえるのですが、他のもろもろの霊あるいは被造物に囚われると最も大切な神との交わりがおろそかにされます。

霊はすべての屋台骨であり骨格です。創造主との交わりを第一にし、土台にすることによって人間は心(たましい)と体と生活に健全な祝福を受けることができます。

尾道久保教会90周年記念会でで東京神学大学学長の近藤勝彦教授の講演を聞きました。

師は現代の不安な時代の問題の根は「真の神との生きた関係」を失っているところにあると語られました。

四日目に生き返されたラザロはその存在自体が多くの人々への証しであったように、霊のよみがえりを体験させられたキリスト者は生活自体が証しであるとも教えられました。

 

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神に造られることと、生まれること

2012-11-09 21:11:23 | ゴスペル

私たちは創造主Creatorである神によって造られた被造物creatureです。

神と私たちの間には天使あるいはサタンが介在し、断絶があります。

しかし人は神によって生まれることが出来ます。

神のいのちそのもの中に生かされるという奇跡です。

神の種(DNA)が人に宿り、永遠のいのちを生きるのです。

主イエスが神を「父と」呼んだのは単に造り主としてだけでなく、

同じ遺伝子で結ばれていたからです。心に聖霊が宿ると

その活動によって神と同質のいのち(ゾーエー)を体験します。

私たちはすべて人の遺伝子を与えられて誕生しました。

しかし被造物のいのち(プシュケーまたはビオス)の能力には限界があります。

最終的には死によってピリオドがうたれます。

またそのような自分の力のみに依存した人生には重い荷がかかってきます。

主は「すべて重荷に苦しむ者は私のもとに来て、謙遜とへりくだりを学びなさい。」

と語られました。

自分を主(あるじ)として歩むならば生活の重荷はすべて自分が負わなければ

ならない、しかし創造主とその霊を心の中心に据え、そのもとに自分を低くするならば

重荷はすべて主が負ってくださり、軽やかな自由な日々を過ごすことができるのだと

語られたのです。

つまり人力と自力だけでやってゆくと押しつぶされる危険があるが、創造主から生まれて

そのいのちを生きるならば重荷が取り去られるといことです。

あるいは自分が生きるというより、自分を通して神に生きて働いてもらうなら不可能と思えることが

可能になるということです。

神との対話(交わり)においても、神のいのちの中で聖霊によって祈ることは超自然的な

永遠の交わりです。3次元にありながら4次元を生きると言うべきでしょうか。

いわば創造主ご自身のレベルに引き上げられて直接「父よ」と交わるのですから。

御子はその永遠のいのちを与えんがために、人になられ十字架上で私たちの罪を負われ、

御霊のよって復活されました。

主を信じるとき私たちも神から生まれます。(ヨハネ1の12)

神に造られたことを越えて神自身のいのちに生き始めるのです。

ヤコブ1の18には「父はみこころのままに、真理のことばをもって、私たちをお生みに

なりました。」とあります。

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日英交流報道・読売新聞

2012-11-05 21:26:47 | 捕虜レクイエム

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/feature/hiroshima1351947862624_02/news/20121104-OYT8T00664.htm

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「海の墓標」著者の三輪裕児氏対談

2012-11-03 15:56:11 | 捕虜レクイエム

http://www.ustream.tv/recorded/12111150

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大日丸Dainichi Maru(地獄船Hellship)?

2012-11-02 22:22:30 | 捕虜レクイエム

http://www.wrecksite.eu/wreck.aspx?174263

捕虜運搬船(地獄船)の大日丸がグラスゴーで建造されたESKDALE 号か三井造船建造の伊吹丸なのか本当のところ分かりません。

http://www.333.ecnet.jp/dainichimaruhomepage.htm

では座礁したエスカダレ号の銘板を伊吹丸に移設して二代目大日丸と命名したということにしました。

それは元捕虜のプラントンさん他の証言で乗船した大日丸の銘板にはESKDALEと記されていたとの証言を聞きましたので、つじつまをあわせてそういう仮説をわれわれが10年前に立てたからでした。

しかし今になってどうもこの推察に疑問を持つようになりました。

http://www.fepow-community.org.uk/monthly_Revue/html/dainichi_maru.htm

を読むと大日丸については英国でも謎とされているようです。

小林さんあてのプラントン氏の証言は以下のようです。

「大日丸に関してインターネットや電話で多くの時間をかけて、その由来を調べています。わが村の雑誌の編集者にも支援を求めています。彼は退役英国空軍中佐で、地方ラジオ局へも含め多くの問合せに対して熱心に対応している。私は、現在、スコットランドのグラスゴー大学公文書館(船舶)へ手紙を書き、その返事を待っているところです。あなたに連絡は続けましょう。

 

船に関する私の記憶ですが、煙突にスジがあったのは思い出せません。船には4つの船倉があり、平甲板でした。銘板の年月は1893年です。すみません、前に6と書いたのは間違いです。確かに、非常に古い船で、非常に錆ており、台湾に近づくにつれてエンジントラブルがありました。言うまでもなく、我々が往来を許されたのは、デッキの上では便所のみ、それと釜口と死人を船倉から運び出し水葬することです。それ以外は、船倉に閉じ込められていました。

 Sent: Thursday, January 22, 2004 9:48 PM

Subject: Dainichi Maru

 Dear Koshi, 

Re--the Dainichi Maru, l have spent many hours on the internet and telephone trying to trace the origins of this ship. l also have enlisted the help of the editor of our village magazine who is a retired RAF Wing Commander who has worked zealously making many enquires including to our regional radio station.

l am currently awaiting a reply to a letter l wrote to the Glasgow University Archives (Shipping), Scotland and will keep you informed. 

My memories of the ship, l do not recall any stripes on the smokestack, l know it had 4 holds and called a flush deck, the date of the plaque was 1893, l am sorry l printed 6 in error. Definitely a very old ship, very rusty and had engine problems as we approached Formosa.Obviously my visits allowed on deck were only to the toilet, to the stokehold and to carry the dead from the hold to be buried at sea, other than that we were confined to the hold ・・・・

Sincerely, Frank.」

 

 

 

 

 

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なぜ、復活の主を宣べ伝えるのか

2012-11-02 10:45:04 | ゴスペル

現在いイスラム教徒に復活の主が現われて回心する者が多くなっているそうです。

かつて厳格なユダヤ教徒で、キリスト教徒を激しく迫害していたパウロは真昼間太陽よりも明るい光の中で復活の主に出会い、宗教を越えた福音の使徒に変えられました。

復活の主との出会いの可能性はすべての人にあります。しかし復活について聞いたことがなければ、それを単なる超常現象や霊体験としてとらえてしまうことにもなりかねません。

例えば平安時代、阿弥陀如来が光の中である僧侶に現われたという話があります。もしその当時宣教がなされていたなら、それは復活の主であると認識されたかもしれません。

私たちは創造主の光を浴びてこそ、喜びと感謝と愛に満たされます。モ-セの時代、呪われた青銅のヘビを見上げた時に罪の毒が消え去りいやされました。十字架の主を見上げて私たちは日々清められ、復活の主との交わりの中で永遠のいのちを生きることができます。

太陽光は粒子でもあり、光を見る者にその一部が到達し、エネルギーとなります。神の光を仰ぐ時、同時にそのいのちの光は私たちの内側に宿り輝きます。

パウロは光である主との出会いと交わりの中から、力や知恵を与えられました。神の光のシャワーを浴びると人間は一変します。新鮮ないのちの息吹に満たされるからです。

朝の太陽光線がいのちあるものに活力を与えるように、被造物の光にまさる創造主ご自身の光が永遠のいのちをゆたかに育んでくださいます。

カールバルトは毎朝、モーツアルトの音楽に耳を傾けてから著作活動に入ったそうですが、聖霊と共に聖書のみことばに耳を傾け、聖霊と共に祈り、このお方からくる喜びと愛の中で一日の勤めを果たしたいと願わされます。

なぜなら生活の主は、被造物である私ではなく創造主であり、創造霊の働くところにこそ真のインスピレーションとクリエイティヴィティが現われるからです。

 

 

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