目に見える被造物としての人間が目に見えぬ創造主に結ばれるのは人となられた御子の十字架に依存する時です。創造主である神は霊(Spirit)ですが、肉体をもつ者としてイエスはこの世に来られました。
その罪なき体に創造霊(聖霊)を迎えられ、まことの人間性を示されました。十字架はその聖霊を罪人である人類に注がれるためでありました。
人間の幸いは神を心に迎え、神に働いていただくことだからです。神殿の至聖所に宿られた創造主が十字架の贖いを通して人間の霊の中に住まわれるようになったのです。
私たちが神の中に、神が私たちの中に住まわれる奇跡が十字架によって実現されました。
旧約聖書において至聖所に降臨され臨在された聖なる創造主が、御子の霊の中に鳩のように下られ御子の内にあって共に語り活動されました。現在、その創造霊は贖いを受け入れた者、信じた者の中に住まわれ働いておられます。
永遠が私たち有限の被造物のただ中に下り、神のいのち(ゾーエー)が朽ちるべき人のいのち(プシュケ―)に代わって芽生えたのです。
霊は目に見えませんから軽視されがちです。しかし目に見える3次元を支配するのは目に見えない4次元である霊(spirit)です。あらゆる文明の根底に宗教があるのです。問題はその霊が被造霊(spirits)か創造霊(Spirit)
であるかです。
創造主は聖なる永遠者ですから、罪の贖いと清めなしには、そのいのちにあずかることはできません。
創造主と結ばれるためには、聖いお方の十字架が不可欠でありました。それは罪に汚れた被造物としての人間の側からは不可能な道でありました。
創造主の受肉、すなわち神が人になられる上からの道しかありませんでした。
そして私たちも上から御霊によって神の子として生まれる以外に、永遠の世界を体験し理解できません。
動物が人間を理解しようとしても、その限界のなかでしか想定できません。人間を理解できるには人間の遺伝子を持ちそのいのちを生き体験する方法しかありません。
人間の目で見、人間の耳で聞きその脳裏で実感することによってこの3次元界を意識し己を知るのです。
霊である創造主とその多次元を知覚するのは、その次元のいのちを生きることによってです。
その永遠の次元に生まれるのは御子の十字架と復活に依るのです。
復活の世界は死で終結する被造物世界にはありえません。創造主の外側にありません。
それは至聖所であり、創造主なる神御自身の中にあります。
そして神は御子を与えられ御霊を私たちに住まわせることに依って、すなわち自己贈与の愛に依って
永遠のいのちの中に、御自身の中に私たちを迎え入れてくださいました。
私たちの霊と心と体が御子の血と御霊に守られて永遠のいのちの川が流れますように祈ります。
近現代の潮流はカルヴァンによるジュネーブの改革に起源を見ることができる。
それは中世の解体と聖霊に依るリフォーム運動であった。その影響はイギリスのオリバークロムウェルによる清教徒(ピューリタン)革命と説教運動、そしてメイフラアー号による新大陸アメリカへの移住にまで及んで行った。
イギリス産業革命がジョンウェスレーらによるリバイバル運動と同時期に起こっていることもマックスウェーバーが指摘するまでもなく内住の聖霊なる神による変革と考えられる。
我が国において同じカルヴァン派の影響下にあった改革派や長老派の宣教師ヘボン、ブラウンそしてモラビアンの教育を受けたフルベッキ(ヴァーベック)さらにはパティキュラーバプテストに近いゴーブルらによって幕末維新の精神的変革がなされていったことは看過できない。
ただし日本のその後の近代化はw・E・グリフィスが著書「ミカド」において解説している通り、上記の聖霊に依る創造主の側からの変革と被造物賛歌としての先祖崇拝に伴うナショナリズムとの軋轢を生み、後者がプロイセンの観念論に組して絶対君主制に移行していったといえる。
全被造物を被う闇の力に対して、果たして被造物がそれ自体の能力で太刀打ちが出来るだろうか。
恐らくニヒリズムのみが残るだろう。サタンの持つ死の力がやがて生ある者すべてを飲み込むからである。
至聖所、すなわち創造主のレベルのみが、天使やサタンをはるかに超えた永遠の領域である。
アダムは霊を失ったことによって心が萎え、そして体も死滅した。神は人になられることに依って真の人間性を回復された。すなわち第二のアダムであるイエスは聖霊を宿されることに依って永生を回復され、そのいのち(ゾーエー)がやがて肉体をも復活させたのである。
主イエスが十字架上で清い血潮を流された時、聖所と至聖所を分ける幕が真っ二つに裂かれた。
この瞬間から罪人である私たちの霊である至聖所にも聖霊なる創造主が住まわれる道が開かれたのである。それは創造者の内側に生きる道であり、永遠のレベルの生命である。
内側から根本的に変革され、神と最も深く交わり、そして創造主なる神御自身が私たちの生活を通して働かれる体験でもある。従ってその波及は教育や経済、政治経済芸術あらゆる分野を網羅してゆく。
これはジュネーブにおいてあるいは英米に起こったことである。
またかつて最貧国であった隣国の韓国や第三世界に起こりつつあることである。
レンガの解体以降、三か月間その仕分けや洗浄のボランティアを続けながら、英米の捕虜たちの苦悶を偲びつつ、一つ一つのレンガが再びモニュメントや新たな建造物にリフォームされてゆくことは中世的な岩盤が一たび崩されて、新たな世界が形成されて行く真の近代化のプロセスを体験させられているかのようである。
単なる近代化というよりも被造物依存から解放されて創造主依存とその永遠の生命へと飛躍するバプテスマによる水の沈めと新生(神生)を暗示しているかのようである。
私たちは霊のいのちを重視し、至聖所における神との交わりを生きることによって、心や体の問題そして生活全領域の課題を根本的に解決することができる。
なぜなら人生の究極の問題は死であり、至聖所こそがその死の力を持つ者を凌駕しているからである。