創造

創造主とセルフイメージの世界

ペンテコステ・聖霊の現われ

2023-05-29 19:50:52 | 福音

【使徒の働き2章】

雨を降り注ぎ

クリスマス         イースター        ペンテコステ

贖いの主           復活の主        栄光の主

モーセの幕屋      ソロモンによる神殿    エゼキエルの神殿(神の川が流れ出る)

主の血による清めと   復活主との交わり      栄光の主からの力の油注ぎ

新生(救い)       聖化           栄化

聖霊の霊への内住    心(思い)の清めと満たし  舌の清めと新しい言葉

霊  spirit          心  mind           体 body

神の子とされる     弟子とされて訓練をうける   働き人にされる

ペンテコステ(聖霊降臨日・五旬節)は、栄光の主からの聖霊の力の油注ぎと言えます。炎の舌は黙示録1:14「その頭と髪の毛は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。その足は炉で精錬された光り輝く真鍮のようでありその声は大水の音のようであった。」とありますように神の右におられる栄光の主の舌です。

バベルの塔は人間が高ぶって自分が被造物であることを忘れ、人間の力を絶対化して「神のようになろう」とした出来事でした。いのちの根源である創造霊を無視して、人間が自分の心(精神)から語り始めた結果混乱と分裂が生じました。神とのコミュニケーション抜きに人間の集団力または個人の能力に頼ろうとしたのです。それは被造物を絶対化し、偶像化する道であり、混沌の霊(サタン)の介入を招く道でした。

したがって混乱と意思疎通、分裂から憎しみ争いや殺害へと進みます。

聖書の源流は聖霊ですから、聖霊に立ち戻って読むことによって正しく理解できます。

人間の思いの表面的なレベルで読むと分派が生じます。

ペンテコステは聖霊が思いを満たして自ら語られたので、失われた言語の分裂が再び一致したのです。

新生と共に私たちの霊に住まわれた聖霊なる神が、私たちの思いを満たす聖化によって、ご自身の言葉を発せられる。ルーアッハは「息」という意味と「霊の」意味を持ちます。呼吸によってプットインされた息が舌から発せられて言葉になります。神のいのちの息である神が私たちの霊から語ってくださるのが聖霊の現われです。主の言葉に力があったのは聖霊が共に語られたからです。同じように、ヘリくだった者達から聖霊が語られる時、知恵の言葉や知識の言葉、あるいは癒しや奇跡が現れます。

40日間の復活の主との出会いと交わりにおいて、自分自身の姿を思い知らされて、弟子たちに出来ることはへりくだって祈ることでした。人間が自分を主として、自力という被造物の力に頼ることがバベルの塔を建てることでした。神を第一にし、主との交わりから始めず、祈らないことが罪だとサムエルが語りました。

 栄光に輝く主の舌は燃える火のようでした。その火が罪と偶像を焼き尽くします。

神は人となられて私たちの罪の呪いをご自分で受けてくださり、解放してくださいました。そして聖霊として私たちのうちにおられます。へりくだるということは神を主とすること、主格を神に明け渡してゆだねることです。

「主は天にも地にも満ちておられます。」(エレミヤ23:24)

遠い存在だったイエス様がだんだん身近になり、ついに燃えるような火の舌をもって語られるのを見ました。

水と血と御霊は一体とありますが、幕屋から神殿へそしてエゼキエルの神殿のように、主は幕屋となられ復活の体に化し、さらに栄光の体をとられました。その神殿から水が川となって流れ出たように、聖霊の火が昇天後の主から注がれました。源流は聖霊の火であります。私たちを愛してやまない御霊の燃える心が言葉と共に下りました。聖霊を宿す神殿とされた弟子たちの霊から心へそして舌へと聖霊が燃え広がるように注がれました。

聖霊なる神ご自身が彼らの中で語り始めたのです。多くの人々が誤った霊に支配されていますので、その思いや行為は容易には解放されません。聖霊の愛と力によってのみ、人は活ける主と出会い、永遠の命へ解放されます。ペテロが御霊に信頼して語った時に、3千人以上が救われるリバイバルが起こりました。

御霊は天より                                

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わたしを愛しますか

2023-05-08 09:49:55 | 福音

【ヨハネ福音書21章1-17節】

40日間の復活節の出来事、ガリラヤでの三度目の顕現について記されています。

弟子たちが夢中で漁をしている間、復活の主はずっと岸辺で見守っておられました。

主はいつも共におられるのに、我々の関心が自分のスキルや自分自身に向けられていると結果として、主を無視してしまいがちです。

無関心なことは無視することであり、愛さないということ、或いは主を頼らずに自分を頼るということです。

土の器の中に宝があっても、土にのみ関心を持つ。アダマー(土)はアダムの語源。

アダムが自分を神のようにみたてて罪を犯して以来、聖霊を失い、破滅の霊、サタンが侵入し支配しました。

聖霊を失って霊的に裸になった命をプシュケーと呼び、死の支配下にある。

 御霊に頼らなければ復活の主との交わりがおろそかにされ、その状態ではただ被造物の力で働くのみで実を結べません。

花の命は短くて苦しきことのみ多かりき。林芙美子

働けど働けど我が暮らし楽にならずじっと手を見る。いのちなき砂の悲しさよ、サラサラと握れば指の間より落つ。石川啄木。

主に目を向けて主の言葉に頼った時、驚くべき大漁をみました。

 自分の力で頑張っても徒労に終わりましたが、主が働かれた瞬間に奇跡が起こりました。

主に祈りつつ生活する時に、御霊が働かれます。

主は十字架前の最後の晩餐と同じように食事をともにされました。Haveには「食べる」という意味と「持つ」という意味があります。外にあったパンが食べることによって内側に取り込まれて血肉に化します。パン裂きは十字架上で御体を裂かれたことのひな型です。裂かれパンが食べられ、流され血が飲まれるという聖餐の式は、主ご自身を私たちの内に迎え入れることを指し示します。それは2千年前になされた客観的な贖いの業が、現在、聖霊によって自分のうちに主体的に実現することです。私たちを取り囲む大いなる神が信仰によって、私たちのうちにお入りになられ、私たちは聖霊なる神を持つ者とされるのです。

神の愛とは神ご自身を私たちに与えてくださることです。被造物としての土の器の中に創造主なる霊が住まわれるので、永遠のいのち(ゾーエー)を活きる者にされるのです。

つまり信じて頼ることは、用意されたごちそうを食べることであり、神ご自身をいただくことなのです。

復活の主が帰られた至聖所に私たちの霊も聖霊と共に挙げられて永遠のお交わりに入れられるのです。

やがて土の体も栄光の霊の体に変えられます。

そのような真理を語られた後に、主は「わたしを愛するか(アガパオ)」とペテロに問われました。アガペとは真実で絶対的な神的な愛のことです。詳訳聖書では「人が御父を愛する場合のように、理性的な、意志的な、霊的献身をもって愛するか」とあります。三度、主を否定し裏切ったことのあるペテロは「愛します(フィレオ)」と答えました。人間的友情のレベルの言葉です。聖霊でなければ、絶対的なアガペの領域には及びません。肉は主が近くにおられても認識できません。主を見ずに自力で一晩漁をしても、結果は失望と落胆だけでした。

土の器である自分を自覚して、宝である聖霊様に目を向けましょう。

その砕かれた心から、聖霊が目覚ましく活動されるペンテコステの出来事が始まります。

愛する主よ

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