【使徒の働き2章】
クリスマス イースター ペンテコステ
贖いの主 復活の主 栄光の主
モーセの幕屋 ソロモンによる神殿 エゼキエルの神殿(神の川が流れ出る)
主の血による清めと 復活主との交わり 栄光の主からの力の油注ぎ
新生(救い) 聖化 栄化
聖霊の霊への内住 心(思い)の清めと満たし 舌の清めと新しい言葉
霊 spirit 心 mind 体 body
神の子とされる 弟子とされて訓練をうける 働き人にされる
ペンテコステ(聖霊降臨日・五旬節)は、栄光の主からの聖霊の力の油注ぎと言えます。炎の舌は黙示録1:14「その頭と髪の毛は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。その足は炉で精錬された光り輝く真鍮のようでありその声は大水の音のようであった。」とありますように神の右におられる栄光の主の舌です。
バベルの塔は人間が高ぶって自分が被造物であることを忘れ、人間の力を絶対化して「神のようになろう」とした出来事でした。いのちの根源である創造霊を無視して、人間が自分の心(精神)から語り始めた結果混乱と分裂が生じました。神とのコミュニケーション抜きに人間の集団力または個人の能力に頼ろうとしたのです。それは被造物を絶対化し、偶像化する道であり、混沌の霊(サタン)の介入を招く道でした。
したがって混乱と意思疎通、分裂から憎しみ争いや殺害へと進みます。
聖書の源流は聖霊ですから、聖霊に立ち戻って読むことによって正しく理解できます。
人間の思いの表面的なレベルで読むと分派が生じます。
ペンテコステは聖霊が思いを満たして自ら語られたので、失われた言語の分裂が再び一致したのです。
新生と共に私たちの霊に住まわれた聖霊なる神が、私たちの思いを満たす聖化によって、ご自身の言葉を発せられる。ルーアッハは「息」という意味と「霊の」意味を持ちます。呼吸によってプットインされた息が舌から発せられて言葉になります。神のいのちの息である神が私たちの霊から語ってくださるのが聖霊の現われです。主の言葉に力があったのは聖霊が共に語られたからです。同じように、ヘリくだった者達から聖霊が語られる時、知恵の言葉や知識の言葉、あるいは癒しや奇跡が現れます。
40日間の復活の主との出会いと交わりにおいて、自分自身の姿を思い知らされて、弟子たちに出来ることはへりくだって祈ることでした。人間が自分を主として、自力という被造物の力に頼ることがバベルの塔を建てることでした。神を第一にし、主との交わりから始めず、祈らないことが罪だとサムエルが語りました。
栄光に輝く主の舌は燃える火のようでした。その火が罪と偶像を焼き尽くします。
神は人となられて私たちの罪の呪いをご自分で受けてくださり、解放してくださいました。そして聖霊として私たちのうちにおられます。へりくだるということは神を主とすること、主格を神に明け渡してゆだねることです。
「主は天にも地にも満ちておられます。」(エレミヤ23:24)
遠い存在だったイエス様がだんだん身近になり、ついに燃えるような火の舌をもって語られるのを見ました。
水と血と御霊は一体とありますが、幕屋から神殿へそしてエゼキエルの神殿のように、主は幕屋となられ復活の体に化し、さらに栄光の体をとられました。その神殿から水が川となって流れ出たように、聖霊の火が昇天後の主から注がれました。源流は聖霊の火であります。私たちを愛してやまない御霊の燃える心が言葉と共に下りました。聖霊を宿す神殿とされた弟子たちの霊から心へそして舌へと聖霊が燃え広がるように注がれました。
聖霊なる神ご自身が彼らの中で語り始めたのです。多くの人々が誤った霊に支配されていますので、その思いや行為は容易には解放されません。聖霊の愛と力によってのみ、人は活ける主と出会い、永遠の命へ解放されます。ペテロが御霊に信頼して語った時に、3千人以上が救われるリバイバルが起こりました。