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創造

創造主とセルフイメージの世界

ゴーブル

2008-10-07 17:27:09 | 旅行記
  1. ゴーブルGoble,Jonathan
    (1827.3.4-1896.5.1)

    引用文献「ジョナサン・ゴーブル
    『摩太福音書』の研究
    :川島第二郎著(明石書店)」

    『ジョナサン・ゴーブル研究』川島第二郎(新教出版)
    "JONATHAN GOBLE of JAPN
    -Marine,Mssionary,Maverick-"
    F.Calvin Parker

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    1827(文政10) ウエイン村キュウカで誕生、父ガーショム23歳、母エミイ22歳。長男としてその後5人の弟妹をもつ。
    1829 2・3父ガーショム、バプテスマを受ける。
    1830(文政13)
    1832(天保3)
    1833 2・3 母エミイ、バプテスマを受ける。
    1838(天保9) 7・28父ガーショム死去。34歳。
    1843

    「アメリカンバプテスト外国宣教総協議会」から奴隷解放を高調する群れが「アメリカンバプテスト自由宣教協会(ABFM)を形成。続いて、45年「南部バプテスト協議会(SBC)」、46年残された北部系が「アメリカンバプテスト宣教師同盟(ABMU)」を組織して三分裂する。

    1846(弘化3) 金銭強要の脅迫状をシラキュースの雑貨店主ブレに送り強盗未遂罪でオーバン刑務所に二年服役
    1847(弘化4) 10.2 獄中で回心、その体験を母教会へ書き送る
    1848(嘉永元)

    2.E・P・オルニー牧師着任。31歳。6・2 オーバン刑務所より出所。

    8.6バプテスマ

    1850(嘉永3)
    1851(嘉永4)

    12.22ペリー艦隊に応募海兵隊員となる

    1852(嘉永5) 9・11祖父ジョナサン死去
    1853(嘉永6) 6・10琉球那覇でベッテルハイムに会い、日本伝道、聖書翻訳について影響を受ける
    7・11ミシシッピ号乗員として来航、江戸湾の測量に参加、上陸
              
    1854(嘉永7)

    2・13(旧暦1・16)ペリー艦隊江戸湾に集結。2・24(1・27)江戸湾着。
    3・4ミシシッピー号で28回誕生日。
    3・8条約交渉のため上陸。
    31(3・3)日米和親条約締結。6、艦隊は那覇、香港、シンガポール、ケープタウンを経由して米国に向かう。

    1855(安政2) 4・23艦隊ブルクリン着。5月除隊。10・10エリザと婚約。
    11月マジソン大学予科コースに仙太郎と共に入学。23マジソン大学教授会、学生結婚を禁止する。
    1856(安政3) 4・14エリザと結婚。マジソン大学は退学決定。
    5月ウエイン村教会に伝道師として承認。6月聴講生として復学許可。
    12月聖書販売伝道でニューヨークにペリーを訪ね日本伝道の励ましを受ける
    1857(安政4) グラマースクールの学びを終える

    1858(安政5)

    3・4ペリー死去。
    10月マジソン大神学関係講座と哲学の演習聴講を許可さる。7・29日米修好通商条約締結。
    11月長女ドリンダ誕生。

    1859(安政6)

    2月ウエイン村教会ゴーブルを宣教師に任命.ABFM16回年会で日本伝道宣教師に任命。
    6月シカゴからニューヨークまで五州に渡る募金旅行。
    11・3ニューヨーク市レイトストリート教会で按手礼と宣教師任命式。仙太郎も挨拶し日本語賛美歌を歌う。

    1860(安政7)

    4・1バルチック号横浜着。成仏寺へ。日本人教師を雇うが役人の妨害に会う。

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    1861(万延2)
     (文久元)

    1月困窮始まる。エリザ病に倒れ5週間臥す。4・12南北戦争始まる。8・30二女メアリ・フランシス誕生。
    10月ブラウンの依頼により横浜の船員の礼拝で奉仕。
    11月青年武士と十戒、主の祈り、信仰告白など翻訳。

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    1862(文久2) 3月横浜居留地110番に家を建てて移転。4月ミションより帰国要請。エリザ英語塾。
     8月4歳のドリンダコレラで死去。日本残留の決意をミッションにつたえる。
    阿波藩にウォルッシュ商会よりセントルイス号(乾元丸)を斡旋。居留地商人に頼まれて靴修繕を専業化。
    1863(文久3) 聖書翻訳を進める。靴直しをしながら漢訳聖書の書き下し文を日本人助手に作らせる。(マタイ、マルコ、ヨハネ)
    1864(文久4) 6月居留地150番に家を建築するが資金不足で中断。
    7月三女エニー・オーセリア誕生。この年よりABUの方針に従った聖書翻訳に着手。  
    1865(慶応元) 4月南北戦争終結。
    5月150番の家完成。四福音書を訳了.ABSに出版援助申請。
    1866(慶応2) 2月、ABS、ヘボンにゴーブルの聖書翻訳を援助すべきか尋ねる。  
      5・30ABFM23回年会に四福音書訳了を報告。この年、エリザの健康すぐれず転地を勧められる。
    1867(慶応3) 1・13阿波、土佐藩との沿岸貿易をグラバー商会のダン船長に頼まれリジーアレン号で両藩士と共に出帆、家族同伴。16阿波着。31長崎帰着。
    2月後藤象二郎と会い3月より「土佐商会」の教師となり、南山手B28番地に住む。
    6月10日後藤、坂本竜馬と夕顔丸で上京。ゴーブルは学生と対立する。
    8・13中国宣教師インスリー夫妻とエリザを連れ浦上キリシタン集落訪問.民家の教会堂で奨励。   
     26日、学生らと談判決裂、解雇される。
    11・27米砲艦モノカシーの通訳となり長崎出帆。平戸、呼子、唐津、下関などの各地測量しながら兵庫へ向かう。
    12・26兵庫着,旗艦ハートフォードに移り、ベル監督付き通訳となる。
    1868(明治元) 2・12長崎の印刷技術の発達に刺激される。長崎を出帆して
    3・2横浜着。ヘボン辞書による聖書翻訳に本腰を入れる。
    4月バラより居留地167番に小会堂と山手48番に居宅の建築依頼を受ける。
    10月バイブルクラスを自宅で行う。午後は被差別でもローマ字による聖書講義を行う。ABUは資金不足のため英国バプテスト聖書翻訳協会にゴーブルの援助依頼。
    1869(明治2) 2月政府より東京に創設する大学の英語科の総主任,県からも公務の要請を受けたが両方断ったとミッションへ報告。
    6月159番地に小屋を立て活字鋳造の機会を試作。BBTS(英国バプテスト聖書翻訳協会)150ポンド援助決定。ゴーブル人力車の発明。
    1870(明治3) 3月エリザの病状悪化。山手75Aに家を新築9月移転。BBTSより印刷機とローマ字活字3種到着。
    5月政府の神道政策である伊勢神宮遷祀に怒りエペソ書翻訳を考える。
    住居のないバラ夫妻のため75Aの新築の家を提供。12・23エリザ二人の娘と帰国。
    1871(明治4) 10・1バラと自分の1501番の店子日本人のことで争い裁判となる。
    10日BBTSより100ポンド届く。
    1月「摩太福音書」完成。
    12・5バラとの裁判判決、勝訴143ドル入手。23日岩倉使節団と同船して米国へ向かう。
    1872(明治5) 1月太平洋上アメリカ号甲板で岩倉にキリスト教政策を進言。団員二名にキリスト教講義。15日サンフランシスコ着。19日「イヴニングブリティン」紙に使節団対応について意見書を投書。
    3・13ウェイン村教会を家族で訪問。『摩太』を贈呈。各地で講演。
    7・11イギリスへ.23頃、スポルジョン神学校で講演。イングランド、スコットランドを廻り日本伝道への関心を訴える
    9・4。リヴァプール出帆、米国へ。
    10月ABMU日本伝道区主任宣教師にN・ブラウンを任命、聖書翻訳事業を継続させる。
    11月ABMU中国宣教師M・ノールトン、日本に立ち寄りゴーブルの悪評を聞く。
    1873(明治6) 1・6 サンフランシスコよりチャイナ号でN・ブラウンの家族と共に家族ともども日本に向け出航。
    2・7横浜到着。9山手居留地203番に二家族で住む。
    2・24キリシタン禁制高札撤廃。3・2高札撤廃後の第一主日「横浜第一バプテスト(浸礼)教会設立。ゴーブル書記となる。
    7・13筆工石川寿一郎に本牧海岸でバプテスマを授く。国内最初のバプテスト入信者。
    9・13岩倉使節団帰国。 ゴーブルの評判N・ブラウン、ABMUと対立。
    12・5ゴーブル石川寿一郎とのことで教会を脱会。     
    1874(明治7) 1月独立バプテスト教会設立。目を患い、水腫に悩む。「真道館」で説教、関東北部の者多く訪れ十数名の入信者生まれる。ゴーブルの購入していた山手75BをABMUに移譲。眼病悪化し、視力を失い翌年まで及ぶ。
    1875(明治8) 3月「真道館」未完成のままメソジスト宣教師マクレーに譲渡。
    翌年にかけて元村日本人宅で英語を教えたが中断。
    7・10日本基督横浜公会海岸教会会堂建つ。
    1876(明治9) 8・14札幌農学校創立。W・S・クラーク来日。
    11月点字による盲人教育が東京に結成される。
    1877(明治10) 1・30西南戦争始まる。
    9・3東京一致神学校設立。
    1878(明治11) 5月東京築地での宣教師大会に
    おいて聖書翻訳常置委員会の委員に選ばれる。
    11月「東京日々」「読売」「伊勢」の各新聞に」自分の発明になる
    人力車税の幾分かを下符するよう」東京府に願いを出したと報道される。目的は計画中の訓盲院
    の資金のため。
    エリザ婦人病のため病臥。
    1879(明治12) 3月エリザ半年の闘病生活後回復。
    秋、ギューリックに雇われ聖書販売伝道者となり茨城房総地方を巡回(日当2ドル)
    1880(明治13) <1・31埼玉県熊谷、千年亭,幻燈
    伝道集会千名
    3-5月水戸房総巡回伝道
    7・2S・Rブラウン死去
    11‐12月中仙道17日走破、琵琶湖まで平均100冊以上、続いて大阪京都で販売伝道。
    1881(明治14) 京都、取手、木更津、長崎、佐賀、鹿児島、国分、福山他
    10・11明治14年の政変
    1882(明治15) 1・3岡山から神戸へ。7広島丸で横浜へ帰港。エリザ病気悪化。
    5・1エリザ46才で死去。
    1883 (明治16 1月肝臓腫傷のため九死に一生を得る.24N・ブラウン宛教会への再入会願いを出し許可さる。
    12・19英国船レディ・ボーウェン号で全家族とカナダ・ヴィクトリアに向け出帆。23年間の在日生活に別れを告げる。
    1884(明治17) 1月ワイントン州ピアス郡タコマの三女エニ-の婚約者(スウェーデン移民)宅に一時落ち着く。
    ウェイン村訪問、母教会で「日本の風俗と習慣」の講演。
    11・1エニーとボーマンの結婚式の司式。
    1886(明治19) 1・1N・ブラウン死去
    1892(明治25) 4・日本バプテスト教会機関紙「おだやか」創刊号に本多庸一、ゴーブル夫妻の思い出寄稿。
    同月バプテスト神学校 第一回卒業式。
    5・31フィラデルフィア・ジャーマンタウンのバプテスト退職牧師施設「ニュージェントホーム」に8才年上のキャサリンとシアトルより来て入所。
    10・22へボン帰国
    1893(明治26) 9・10ベンネットより日本の初期賛美歌についての質問に対してニュージェントホームから返事を書く
    1895(明治28) ベンネットの求めに応じ,新訳ギリシャ語コンコーダンスと英文聖書全註解書をバプテスト神学校へ寄贈。
    1896(明治29) 1・17ニュージェントホームより退去させられる。
    2月ミズーリ州セントルイスのバプテスト療養所に入る。
    5・1エリザと同じ日に老衰で死去
    69才。3日セントルイスのベルフォンテン墓地に埋葬。
    キャサリンのその後の消息不明
コメント (3)
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