創造

創造主とセルフイメージの世界

父の涙

2013-07-27 21:49:33 | ゴスペル

http://www.youtube.com/watch?v=vp0dIg8i_7o

 

 主の愛が今

http://www.youtube.com/watch?v=UmvpECC3mao

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十字架の愛と力

2013-07-26 17:24:50 | 福音

http://www.youtube.com/watch?v=Ga6Qtxzd6vk

アインシュタインは問題は一段上のレベル[次元]から解決されると語りました。

一次元である線は二次元である面に包括され支配されます。三次元界に住む我々は4次元界に影響され支配されます。

聖書は人類と被造物は罪によって死の力を持つサタンの奴隷となり支配下に落ちたと語ります。

奴隷は身代金という代価を支払わずに自由となりえません。

御子の十字架の死と流された血こそが永遠の代価であります。この事実に立脚して神の赦しを素直に受け入れる時、贖罪の力が注がれ、その効力が発揮されます。主が私たちに変わり死の裁きを受けられ、神の血潮を注いでくださいましたので、罪の債務証書が棄却無効にされるのです。

その結果、悪の4次元であるサタンは告訴権と支配権を失います。そして永遠の解放が起こり、聖霊なる神の直接の御支配下に移されます。呪いとはサタンの支配下に陥ることですが、祝福とは聖霊のご支配に移されることです。4次元をさらに超えた創造主のいのちの次元に高められることです。

そこでエジプトの呪術者のヘビになった杖が、モ-セのヘビになった杖に飲み込まれたように、死の力が神のいのちの力に飲み込まれます。

復活の世界です。被造物最大の問題はここで解決されます。

生活のなかで襲ってくる健康の問題、経済の問題、人間関係、仕事あらゆる分野にも十字架の贖罪の力をいただけます。

問題を主に申し上げて、そこに十字架に依る罪の清めをいただき、悪しき力の介入を断ち切っていただきましょう。聖霊にすべてをゆだねて祝福していただきましょう。

闇は光に飲み込まれるでしょう。

 

 

 

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父と子と聖霊の同時協働

2013-07-25 09:54:23 | ゴスペル

単音的文化は単神的信仰世界から生まれると思います。創造神(エロヒ-ム)は唯一ですが単独神でなく、複数形で表現されます。我々というファミリ-系です。

ソプラノやアルトというメロディは分析的には別の旋律ですが常に同時的にかなでられます。かつては光は波動説と粒子説で論争されたましたが相補正という概念で決着したそうです。電磁波という電磁相互作用であることが実証されました。

私たちの信仰もあれかこれかという単一思考によるのでなく同時協働的に働かれる神のみ業を知る必要があります。共観福音書とヨハネ福音書は同じではありませんが相互補正的に真実を語ります。聖霊を宿す唯一のお方、受肉された神である御子ですが、受肉された以上まことの人であります。創造主にして被造物であることがこの世界にただ一度起こりました。

それは被造物を創造主のもとに引き上げて下さるためでした。人になられた御子が、聖霊を心に迎え、神の力を示されただけでなく、その聖霊を私たちに住まわせるために十字架で血による贖罪を成し遂げられました。

このようにして神は人類に御自身の永遠のいのちを分与されるのです。

罪の赦しと除去は霊的次元から見るとサタンの支配から聖霊のご支配への解放であり、同時的になされます。

「血と聖霊と水は一つである」とヨハネが語るように、永遠の神の血の贖罪の力は信仰を呼び起こす神の御霊と共に働きます。「真の信仰とは人間の信仰でなく神の信仰であり奇跡である」とカ-ルバルトが述べたように、超越者とそのみ業への依存自体が信仰の霊である聖霊の働きであります。

創造主は歴史のただ中に自らを投じられてその偉大な犠牲と痛みによって、私たちを罪と死と滅びから解放されました。経綸的帰納的三位一体の働きとも表現されます。そして私たちに永遠のいのちを与え天の高いところ(至聖所)に引き上げて永遠の父と子と聖霊の交わりに加えてくださいました。本質的演繹的三位一体論です。

初代教会の中から多くの霊的運動がおこり、同時にカルト的問題も生じたようです。自らが霊能者となり、時には不思議なしるしを現わしました。聖霊が御子の血の贖いの範囲で働かれる事を忘れ、異なる霊に惑わされていったのです。西方教会は「フェリオケ」(父と子からの聖霊の注ぎ)を加えることに依って逸脱から守ろうとしたのだと思います。それは聖霊を注がれた人としての御子の人性を危うくするという東方教会の反発を買い、東西大分裂が生じました。

西と東のはざまに位置する東洋の一国において、二つの潮流に遭遇させられています。

まことの人となられた、まことの神である主を思います。主の流された永遠の血は今も私たちの日々犯す罪を洗いきよめておられます。同時に私たちの内側に住まわれて共に祈り共に働いておられる聖霊なる神を思います。二つの働きは神御自身のなかの協働的同時的新創造の業です。

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神から造られたこと、神から生まれたこと

2013-07-24 11:19:57 | ゴスペル

私たちは創造主Creatorであり、霊Spiritである神の被造物creatureです。しかし神は私たちに御自身の永遠のいのちをお与えになるために御子を送ってくださいました。

御子の十字架の贖いに依って、罪によってサタンの支配下で死んでいた私たちの霊を、聖霊の支配下に解放されました。霊が新生(神生)すると神との永遠の交わりに入れられます。神によって造られただけでなく神によって生まれるという奇跡が起こったのです。

「誰でも神から生まれた者は、悪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人の内にとどまっているからです。その人は神から生まれたので罪のうちを歩むことが出来ないのです。」(ヨハネ第一の手紙3:9)

ヨハネ福音書やヨハネの手紙は「永遠のいのち」をもつこととその自覚を促すために書かれましたから、いわば至聖所の領域に集中しています。そして旧約のユダヤ教世界を超克することになります。神のDNAが御子の受肉と贖罪を通して私たちに与えられた訳です。

聖なる神と結ばれるために聖い血による贖いが必要であると聖書は証言します。そしていのちは血の中にあると書かれていますから、御子イエスが十字架上で神の血を流された時、神の永遠のいのちもこの世に注がれたのです。

ところでマタイ、マルコ、ルカに見られる悪霊払い(エクソシズム)にヨハネは全く触れません。肉体あるいは精神に害をもたらす悪霊との戦いよりも、永遠的な霊の救いの分野におけるサタンとの戦いに焦点を絞っているかのようです。

原罪からの解放とは十字架を通して私たちは神のいのちを受け、神から生まれることです。それでは私たちは全く罪を犯さないでしょうか、ヨハネの手紙では「御子イエスの血がすべての罪から私たちを清めます。もし罪はないというなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(1:8)とも語ります。

この世に生きる限り、神の子も日々の悔い改めと主の血に依る罪の清めが必要であるというのです。共観福音書的にいうならば悪霊払いを要するということです。救いのためというよりは神の子の肉体的精神的分野での健康維持のためというべきでしょうか。

誕生の後に養育と成長があるように、義認ののちに聖化が始まります。この局面でも主の血の力と御霊に頼らなければ勝利できません。神の前で罪を告発し公訴するサタンにたいして、主の義のみが弁護し対抗できるからです。そういう意味で、悪霊払いは御霊に依る贖いの適応であり、ヨハネ福音書も共観福音書も本質的には同じことが語られています。

十字架の真理が御霊に依って語られる時、それ自体の中に深い次元でのエクソシズムが行われます。いつでも、エクソシズムが力をもつのは主の字架の血の贖いに依存している時だということです。

 霊が永遠の贖いを受けて救われたように、心と体は日々の主の血に依る清めと聖霊の覆いを受けて神のいのちの泉が人々に注がれてゆくように努めたいです。

 

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普通の人、ガジマ牧師にみるいのちの流れ

2013-07-23 17:48:54 | ゴスペル

http://www.youtube.com/watch?v=xI7c5YLq_pc

福音が道徳的倫理的なものを超えた創造主のいのちの授与と活動であることがわかります。

凍結された永遠のみ言葉が解凍されて流れ込んできます。

この牧師さんが100人以上の死人を、よみがえらせているという事実が納得されました。

 

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復活の法則

2013-07-19 15:17:07 | 福音

キリスト教世界でのみ科学技術が進歩した理由は、創造についての規律と秩序の確信があったからだと思います。被造物が存在するということは、創造主の存在があるからだという大前提があります。そして目に見える世界は見えない創造霊に依って造られ支えられていますから、目に見える現象は結果であって、根本原因は4次元的な霊にある考えられます。その原因と結果を結ぶ原則、あるいは法則が聖書にかかれていますから、自然科学あるいは歴史学を含む社会科学はその法則を探求し、発見された原則を適用することに努めました。

問題は対象をどれだけ客観視できるかということです。被造物がそれ自体の中で自己を探求したとすると、その限界のなかでしか究明できません。自己の内に自己を超えた超越を持たない限り、不可能であります。

キリスト教、特に新約聖書で説かれるのは、聖霊なる神の内住という奇跡であります。創造主が人間の内に宿られて活動するという人生は主イエスに依って始めて実現されたのであって、旧約時代にもどのような宗教にもありえませんでした。汎神論はすべてに神が宿るといいますが、その場合の神とは諸霊(被造霊)であって、真の超越主、創造主ではありません。ですから例えば万物流転、あるいは永劫回帰というように、被造物の世界を超えることは不可能でありました。

創造霊が罪なき神の御子に内住され、協働されることによって、死を克服する復活が実現されました。

復活とは単にラザロが生き返ったように再び被造物の世界に再生したことでなく、創造主の世界に帰還されることです。生き返ったラザロや会堂司の子供は肉眼で誰でも目撃できましたが、神の光の中によみがえられた主のみ体はパウロに現われたときのように、霊界さえも超えた創造主の次元におられます。

それは旧約時代に聖所までは入ることが出来ましたが神の臨在の中、至聖所に入ることが出来なかった事と対照されます。

創造主は至聖所に降りられましたが、いかに偉大な祭司といえども、その霊に内住されることはなかったのです。聖霊の内住が人を天使よりもサタンよりも高い次元、すなわち神御自身の内側に引き上げるのです。

永遠も復活も神のいのち(ゾ-エ-)の属するもので、それは御子の受肉と十字架の贖罪によって私たちにもたらされるのです。処女降誕や復活という聖書の証言の信憑性をどのようにして確信できるのか。

それは上記のように結果のみに着目するのでなく、そのような出来ごとの背後にある目に見えない根本原因、聖霊の働きを知ることに依るのです。

その法則は歴史や日々の自己の体験によって確認されます。前述のように真の科学精神は自己さえも客観視できる御霊に依る観察。十字架通して見える赦された自己や他者の発見。そこから生まれる新たな共同体の形成。そのようにして今日も神の復活のいのちは歴史を貫いて働いております。

創造主御自身が破壊の力と戦われ、新たな永遠的再創造を始められています。どこかかなたからではありません。私たちの最も深い内面である霊(至聖所)の内に宿られ、聖所という心から生活の中に川のような流れとなって現われてくださいます。

自然法則を究明してそれを適用することに依って飛躍的な生活の改善を可能にしてきたように、復活の事実とその原則を知ってそれを生活に適用することは計り知れない恵みをもたらします。

復活の主は自然のみならずその法則さえも創造されたお方だからです。

 

 

 

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7月17日ノアの箱舟を想う

2013-07-17 17:37:53 | 歴史

今日はノアの箱舟がアララテの山の上にとどまった日です。[創世記8の4]京都では祇園祭ハイライト山鉾巡行、

ここ徳島では神輿を剣山山頂にかつぎ上げる本宮 祭りが行われます。イスラエルの考古学者が契約の箱に関することなどを調べるためこの地を訪れたのはほんとうです。

彼らは「野外科学者」(川喜多二郎著:「発想法」)といえるかもしれません。書斎科学や実験科学と違って常に現場を重視することです。川喜多氏に依れば書斎科学が依存する対象は、誰かの頭脳のフィルタ-をとおして体系ずけられた情報の文献とのこと。実験科学は仮説を検証する科学です。

トリノの聖骸布の信憑性を実証したのは微生物博士のレオンシオ・ガルツアルデスですが、著書「イエスのDNA」

(林陽訳・成甲書房刊2000年)は上記の3方法を見事に統合しています。

聖書考古学者で野外的手法に徹したのはロン・ワイアットという方でした。アララテ山に上ってノアの箱舟の痕跡を捜索し、ゴルゴダの丘の下の洞窟を調査して契約の箱を発見したと報じられました。その実証性について確認できた訳ではありませんが下記のように支持されていることも事実です。少なくとも剣山洞窟説よりははるかに真実性を感じます。

http://www.fgtc777.com/kategori/siraberu/denwa-chou.htm

私自身不思議なことですが、ちょうどこの話を聴いたころ、向島教会の玄関に雨漏りがあって、その原因を調べてもらったところ、真上に位置する十字架の付根部に亀裂があってそこから4メ-タ-近い真下の玄関に滴り落ちていることが分かったことでした。啓示と言っては言い過ぎかもしれませんが忘れられない体験でした。

新会堂建築と共に、この会堂は姿を消しますが、高くそびえる十字架の下の支柱には3本の川がデザインされていました。前任者の牧師先生の発案とのことで、十字架から聖霊の神の川が流れ、私たちを救い、いやし、祝福してくださるというメッセージが語られていたと思います。

新会堂になって、主の十字架の恵みがさらに深く広く宣べ伝えられますよう祈らずにはおれません。

 

 

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亜麻布の聖骸布(せいがいふ)

2013-07-13 14:48:36 | 歴史

http://www2.ocn.ne.jp/~g-compri/page1.html

アロンと祭司の衣服は亜麻布(リンネン)で作られた。

出エジプト28:39「亜麻の長い服を格子縞に織り、亜麻のタ-バンを作り、またつづれ織りをした飾り帯をつくりなさい。」”Weave Aaron's shirt of fine linen and make a torban of fine linen and also a sash decorated with embrroidery"

ところで創世記8:4に「第七の月の十七日に箱舟はアララテ山の上に止まった。」とある。

京都祇園祭の山鉾(やまほこ)巡行と徳島剣山の神輿祭りが7月17日に行われる不思議を思う。

イスラエル大使館が徳島の調査をされたのは失われた10支族の痕跡を見出そうとしたからなのか。

紀元前586年に国が滅び紀元後1948年奇跡的に復興して65年が経過した。

この間、世界中に散らされた同胞を捜し続けている。

同じ徳島の吉野川流域、美馬市木屋平貢の阿波忌部末裔,三木家は大嘗祭に木綿・麻布など種々の物を献上されている。

http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1319.html

亜麻と麻の違いについて以下に記されている。

http://www.amanosato.jp/study/faq.html

以上から次のような仮説が立てられるかもしれない。

ユダヤをル-ツにもつ渡来人が亜麻の代用品に、日本古来品種の麻を祭儀の衣装に用いたのではないか。

これは羊の代わりに鹿が徴用されたことと似ている。

 

 

 

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重荷の負い方

2013-07-05 09:42:55 | 神学

人類史上、最も重い荷を負われたのは十字架上の主イエスであったに違いありません。

すべての罪の責任をご自分一人で負われたのですから。

その主は「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたも

私のくびきを負って、私に学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます。

私のくびきは負いやすく、私に荷は軽いからです。」と語られます。

主のくびきとは、聖霊と共に、その全能の力にゆだねつつ歩む生き方といえましょう。

自分が主人公になって責任を取ろうとすれば、その重荷はすべて自分の肩にかかってきます。

主は私という被造物ではなく、私を創造された神であります。

ですから究極的に人生の責任は創造主がとってくださります。

私たちのすべきことは日々の問題や重荷を主におゆだねすることです。

そして創造主がどのように対処して下さるか期待しつつ歩むことです。

へりくだるとは、自分を主(あるじ)とすることをやめて創造霊を主とし、仰ぐことです。

かつて日本では、家を守るため、城を守るため、あるいは国を守るため自害することを

美徳としました。それを他国にも要求した結果多くの虐待が生まれました。

今日でも多くの方が自死という方法で責任をとろうとします。

それはさらに大きな重荷を親しい者に残す結果を生みます。

私たちの罪の重荷はすでに主が負ってくださり清算されました。

生活上のすべての重荷は内住の聖霊が負って下さっています。

そのことを認めるだけで、私たちの荷は軽くなります。

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根本的解決

2013-07-01 10:10:20 | ゴスペル

聖霊は慰め主(カウンセラ-)とも呼ばれます。人間関係を始め、あらゆる問題の根源源は創造者である神との

関係の破れにあります。造られた世界での横の人間関係は、造り主との垂直的関係を反映していることがあります。

目に見える世界が目に見えない霊的関係に連結しているのです。

人間が負っている神との関係における原罪が死をもたらしました。罪の支払う代価が死だからです。

御子イエスは十字架上において、自らその代価を支払われました。そして「父よ彼らを赦して下さい」という最も大切な祈りをささげられました。

罪は簡単に赦されるものではありません。その代償がなされて始めて清算されます。御子は汚れなき血の代価と祈りをもってこれを実現されました。

聖霊はこの事実を私たちに成就してくださいます。十字架を見上げて、これに頼らせるのです。その瞬間に神の赦しの力が注がれてきます。赦しとは和解であり、失われていた神との通路が開かれることです。

赦しのあるところにしばしば奇跡が起こるのは、それが根源的な神との交わりが回復されるからです。

宗教は霊的世界のことであり、したがって祈りの世界に関わるものです。そして祈りとは見えざる4次元の霊的世界に通路を開くことです。

しかし、霊には創造霊と諸霊(天使レベル)の存在があります。天使レベルの聖さと交わりには羊の血の代価で十分でした。しかし至高の聖さを帯びた神御自身との和解と交わりのためには、聖なる神の御子の死と血の代価が必要でした。

しばしばベタ-がベストであることを妨げることがあります。神は至聖所を開かれましたがいまだに天使のレベル、聖所のレベルを固守して、永遠の恵みを拒むケ-スがみられます。根本的解決の一歩手前でとどめられるのです。ユダヤ教徒徒時代のパウロのように。奇跡があっても一時的なもの、体的外的な祝福でした。

偉大なるカウンセラ-であられる聖霊様は、私たちを十字架のもとに導き、完全な赦しのもとに置いて下さります。そして2000年前の歴史になされた創造主が被造物となられてこの世に来られ、血の贖いを実現された客観的奇跡が、現在、私達の内側に主体的奇跡となって成就するのです。

創造霊である聖霊が私たちの霊に住まわれて、神のいのちを育まれ永遠の神の父と子の交わりの中に迎えいれてくださっているとういう奇跡です。

神との関係の修復こそが人生の根本的解決であります。

人間的知恵や経験に依存してヨブをカンセリングした友人たちは、かえってクライアントを怒らせ傷つけました。

ただエリフだけが御霊に依る対話を試みました。それはヨブを神御自身の直接対話へと導きました。

神との通路が回復され、友人を赦し、友人のための祈ったヨブ自身へ圧倒的な祝福が注がれました。

主の十字架にこそすべての問題の解決と祝福の鍵が秘められています。

 

 

 

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