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実務家弁護士の法解釈のギモン

弁護士としての立場から法解釈のギモン,その他もろもろのことを書いていきます

判例は形式的表示説?(6)

2016-07-19 10:09:00 | 民事訴訟法
 あえていえば、当事者確定の問題は、実質的表示説といっても、訴え提起当初は、当事者が誰なのかは確たる人物と判断しないまま、形式的に原告や被告と表示された者を含めた、その周辺人物のうちの誰かという形で漠然とした当事者像の中でスタートせざるを得ず、ただ、通常は形式的に表示された当事者がそのまま真の当事者であることが圧倒的大多数であるし、形式的表示に従って訴訟を進行させるしか進行のしようがない。そのため、スタート時点では形式的な表示に従うが、その形式的表示で当事者が「確定」されるわけではなく、「一応」の当事者であり、真の当事者として有力な候補者の一人でしかない。このようなスタート状態における当事者の形式的な取り扱いを、行為規範といってもいいのかもしれない。
 しかし、一定程度訴訟が進行した後、いざ当事者確定の問題が生じた場合は、当事者候補たるその周辺人物の中から紛争解決にふさわしい者は誰なのか、その者が実質的に訴状に当事者として表示されていたといえるか否か、その者に対する手続保障は満たされていると言えるか否か、といったことを考慮しながら、最終的に誰が当事者であったかを判断せざるを得ない、ということではないのだろうか。そして、紛争解決にふさわしい人物が、実質的に訴状に当事者として表示されていると判断でき、手続保障も満たされているならば、その者が実は当初から当事者だったのだと評価できることになる。これを評価規範といってもいいのかもしれない。

 ただし、私の理解では、スタート時点の当事者が、事後評価の上での真の当事者に「入れ替わる」のではなく、遡って当初から実質的当事者が真の当事者だったといえる状況がなければならないと思っており、事後評価としての真の当事者として評価可能な範囲が、訴状の実質的記載という枠でくくられるというイメージを持っている。この枠に収まらなければ、事後評価上の真の当事者が当初から当事者として扱われていたと評価することは不可能だからである。
 そうだとすると、当事者確定の問題として典型的に問題とされる氏名冒用訴訟では、冒用者が訴状に当事者として実質的に記載されていると言えるかというと、おそらくそのようには言えないのが通常であろう。従って、私の理解ではやはり訴状に当事者として記載された被冒用者が当事者だといわざるを得ないだろうと思っている。被冒用者にとって不都合は大きいが、被冒用者の救済は別に考えるべきだろう。

判例は形式的表示説?(5)

2016-07-08 10:27:58 | 民事訴訟法
 以上のように考えて見ると、これから訴訟を進行させる上で誰を当事者とすべきかという行為規範と、一定程度訴訟が進行した後に遡って当該訴訟の真の当事者は誰だったかという評価規範を分けて考えるという規範分類説のいうことにも、意味があるようにも思うのである。
 ただ、規範分類説を唱えている学者の考え方は、例えば氏名冒用訴訟における評価規範としては冒用者を当事者と見て冒用者と相手方との間で判決主文の効力を生じさせるなど、あまりにもドラスティックに見える。そのため、なかなか実務では取り入れにくいのであろう。

 しかし、実質的表示説も、結局のところは、訴訟進行中や判決確定後に当事者確定の問題が生じた時に、これまで進行してきた訴訟状態を踏まえた上でもう一回訴状を見直して、実は真の当事者は形式的に当事者と記載されたものではなく請求の趣旨、原因も踏まえた場合には別人と理解することも可能な訴状であって、そのような人物を当初から訴訟当事者だったとみなして扱うことが、これまでの訴訟進行状態(特に手続保障の観点)からして妥当か否かということを考え、妥当であれば、当初からその別人を訴訟当事者だったと扱ってしまうという、事後評価を行うことを当然の前提にしているのではないだろうか。

判例は形式的表示説?(4)

2016-06-29 15:03:18 | 民事訴訟法
 そもそも、当事者確定の問題は、私には理解しにくい部分がある。なぜなら、果たして当事者を誰と見るべきかが具体的に問題となる場面は、常に一定程度訴訟が進行した後に発生する問題であり、場合によっては、訴訟が終了した後の既判力が及ぶ当事者の問題として現れると思われ、教科書を書く学者もそのことは当然の前提としているとは思うのだが、実際に教科書を読んだだけでは、そのあたりが必ずしもはっきりと伝わらないような気がしてならないからである。
 それとも、私の教科書の読み方が甘いのだろうか。

 いずれにしても、実務では、訴え提起時(裁判所の目から見れば、訴状の受理時)は当事者が明確か否か(すなわち特定性)だけが問題になるだけだと思われ、そこで特定された当事者が誰かは、とりあえずは形式的な処理をするしかないと思われるのである。

 つまり、実務を行っている者の感覚として、訴え提起当時は当事者欄に原告・被告と記載された者を一応の当事者として扱わざるを得ないと思われ、例え実質的表示説と言ってみても、訴状を受理した裁判所が、訴状の当事者欄のみならず、請求の趣旨・原因を眺めたところで、この訴状における実質的当事者は形式的に当事者欄に記載された原告や被告とは異なると判断できることなど、まず皆無だと思われる。
 もし裁判所が当事者欄の表示と実質的当事者に食い違いがあることを見破ったならば、そもそも当事者の表示について補正命令がなされるはずである。
 なので、訴状の記載の当事者について、形式的に表示されている当事者と請求の趣旨や原因も踏まえて考慮した実質的な当事者が食い違っていることを認識したまま訴訟が進行するという事態は、実務上はまず想定し得ない。
 ところが、訴訟が一定程度進行したところで、何らかの当事者の食い違いが判明し、そこではじめて、では本当の当事者は誰なのかが問題となる、というのが常だと思うのである。

判例は形式的表示説?(3)

2016-06-22 11:34:19 | 民事訴訟法
 しかし、本当にそうだろうか。実務をしている私の目からは、昭和48年の判例は全く別の理解をしているように映って見える。

 つまり、昭和48年判例の事案は、実は訴え提起当初から被告は新会社なのである。私にはそう見える。なぜなら、訴え提起時の「N」という商号の会社は新会社しか存在しないし、「N」という会社の代表権を証明する、法務局が発行する資格証明書も、新会社のそれを発行しているはずだからである。
 もちろん、原告の意図としては、旧会社を訴えたつもりだったかもしれないのだが、図らずも新会社を訴えていたことになる。しかも、現に明け渡しを求めている物件を占有しているのが新会社であったとすれば、実は新会社を被告とすることで事足りている、というより、新会社こそを被告とする必要のある事案だったのである。

 これを、当事者確定の問題として理論的に説明するならば、単純に昭和48年判例は形式的表示説を前提にしていたということである。あるいは仮に実質的表示説を前提としても、訴状では現に占有している者に対して明け渡しを求めていて、その現に占有している新会社を被告としていた、ということにはならないだろうか。

判例は形式的表示説?(2)

2016-06-15 11:03:57 | 民事訴訟法
 当事者確定の問題に絡んだ判例として、よく昭和48年の判例が引用される。簡単に事案を説明すれば、賃料不払いを理由に契約を解除したとして、賃借人であったというNという会社を相手に明け渡しを求めて訴えを提起した事案であるが、実は、契約解除された後訴え提起時までに、N社(旧会社)は商号をすでに別の商号に変えていて、あらたにNという商号の別会社(新会社)を設立していた事案であって、新会社の商号、代表者、本店所在地等は、すべて旧会社と同じだったという。このような状態で「N」という会社を被告として訴えを提起した事案である。

 さて、この事案で、被告は旧会社か新会社か?
 最高裁の結論は、新会社が被告であることを前提に、実体法上の法人格否認の法理を背景として原告勝訴判決を是認している。

 ところが、学者がこの判例の事案を整理すると、一般に訴え提起時の被告は旧会社と考えざるを得ないと理解しているようである。なぜなら、意思説を採れば、旧会社を被告とする意思であったといえるし、行動説を採れば、被告側はあたかも旧会社の代表者であるかの如くに行動していたからであり、実質的表示説を採れば、請求の趣旨、原因まで考慮して考えると、原告が明け渡しを求めている当該物件を賃借し賃料不払いをした会社であり、その当時の「N」という商号社であった旧会社こそ被告であると理解できるからである。
 通常の学者の理解では、どの説を採っても訴え提起時の被告は旧会社で、旧会社を相手取って訴えを提起したにもかかわらず、最高裁は意識的にかあるいは無意識的にか、上告審の判決においては新会社を被告として判決をしたと考えるらしいのである。