ネコのミモロのJAPAN TRAVEL (Mimoro the cat:JAPAN TRAVEL)

「京都観光おもてなし大使」のライターとネコのミモロが、京都の情報や暮らし、グルメなどをご紹介。心和む雑誌のようなブログ

幕末に生まれた剣聖 内藤髙治先生の菩提寺「金戒光明寺」の塔頭「榮攝院」へ

2022-04-02 | 寺社仏閣

剣道を学ぶ人なら知っているはず…。それが近代日本武道の礎にご尽力されたのが、京都にもゆかりの深い剣聖と言われる内藤髙治先生です。

「どういう方なの?」とミモロ。

では、まず生い立ちから…文久2年(1862)10月25日に水戸藩の弓術師範の家の六男として誕生。父は、弓術師範、母は、北辰一刀流剣術師範の娘という、まさに武道家の血筋。

このころの日本は、尊皇攘夷の機運が高まり、坂下門外の変、寺田屋騒動、生麦事件など、世情不安定な時代。

「へ~まさに幕末に生まれたんだ~」とミモロ。

幼い頃から、かなり腕白少年で、手を焼いた両親は、北辰一刀流の道場に12歳の彼を入れます。そこでの厳しい修業に耐えるうちに、髙治少年は、すっかり変貌。剣道家として身を立てることを決意します。

慶応3年に水戸藩を揺るがせた天狗党事件。穏健派の筆頭の当主内藤儀左衛門が倒れ、その跡継ぎも切腹を仰せつかり、内藤家は断家状態。剣道家として身を立てる決心をした彼は、内藤家に入り、そこを十余年後に復興させることに。髙治22歳のときでした。そして故郷、水戸に別れを告げ、東京に活躍の場を求めます。

「水戸藩って、いろいろあったよね~幕末…」とミモロ。

さまざまな剣術道場で稽古を重ね、修業の場は、東京に留まらず、群馬、長野、愛知、岐阜、京都、大阪など、広範囲に及ぶことに。
修練を重ねた彼は、この時代、実力および荒稽古で知られた警視庁剣道に挑みます。警視庁は、幕末の生き残りの剣客を集めた場所。そこでも彼の腕前は、群を抜き、武術世話係となります。明治20年髙治26歳のことです。

生活安定の目途が付いた翌年、紀州藩の家老の娘で、美人として評判の秋と結婚。東京で剣道家として過ごしていた彼のもとに、明治32年1本の電報が届きます。
「ミチノタメキタレ」と書かれた電文。それは、京都、武徳会で常議員を務める楠正位からのもの。剣道の発展に尽力してほしいとの要請でした。

その熱意に応えるため、彼は、すべての職を辞して、京都へと向かいます。
お給料もガクッと減少。それでも剣道のために…。
「すごいね~生活の安定より、剣道の未来のために決心したんだ~」とミモロ。

武徳会に入った年に、武徳殿が落成。髙治は、武徳会本部教授になります。明治32年38歳のこと。
「武道家は、欲を捨てろ、金とか名誉が欲しい人は武道家にならず、今すぐ出ていけ」というのが、武徳会で教える武道家の精神。まさに髙治はそのもの。
武徳会の稽古は厳しく、剣技と共に、武道家としての精神を叩きこまれます。

ところで京都暮らしを始めた高治は、京都に過ごす三十余年で、10か所の借家に住まいます。
「え~お引越し好きだったの?生涯借家で過ごしたんだ~」

すべて武徳殿のそばで、毎朝4時起床し、掃除、水まき、犬の散歩などをして朝食。午前中は、事務系の仕事をして、午後に武徳殿への稽古に出かけました。

武徳会の稽古では、直接手をとって教えた剣道家は、2000人に及びます。
稽古帰りに、弟子たちとうどんやそばを食べたり、また、骨董品を見たりするのが好きだったよう。
「お金、貯まらないタイプだね~奥さんも偉いね~」と変なことに感心するミモロです。

内藤先生の偉業はというと、侍が帯刀していた江戸時代から廃刀となる明治時代、従来の剣道から近代剣道への道を開き、確立したこと。柔道と同じく、近代学校制度の体育の中に、危険度を取り除き、武道を残したことで、現代にまで日本の武の心を伝えることになったのでした。


「内藤先生って、すごく体でかいね~お相撲さんみたい~」と失礼なミモロ。
でも甥には、名横綱の常陸山がいます。血筋でしょうか…。大きな体で他を圧倒する気迫を醸し出しながら、機敏に動く、まさに向かうところ敵なしだったそう。
「すごい剣道家だね~」と、達磨にも称される風貌は、迫力満点。でも反面、ユーモアをも兼ね備え、その人柄は、多くの人を魅了したのだそう。

昭和4年4月9日、脳卒中のため急逝。享年68歳。お墓は「金戒光明寺」の墓所で、菩提寺は、塔頭の「榮攝院」です。

「あ、ミモロ、榮攝院行ったことある~秋の紅葉で有名なところだよね~」と。そこでお彼岸の頃、ミモロは、内藤髙治先生のお墓参りに行くことに。


「武徳殿」から丸太町通を東に進み、岡崎道との交差点を北へ入ります。
その突き当りを東へ「こっちだよ~」

通りの先には、「金戒光明寺」の門が見えます。


門を過ぎ、石段を登ります。「う~ちょっと大変…」

「もう少し~ふ~」桜の花がミモロを励ましてくれるよう。


本堂の前に出たら、本堂に向かって左へ。

「こっち、こっち~」

朱塗りの門の前に…

「ここだよ~」

門から奥へと進みましょう。


その先には、秋の紅葉の時、美しいお庭が。


ミモロ、ご住職にご挨拶して…「は~い」
「こんにちは~内藤髙治先生のお墓参りに来ました」とミモロ。

「ようこそ~」とご住職。
さて、「榮攝院」は、天正17年(1589)徳川家康の家臣、木俣守勝が松誉琴察上人を開基として創建。ご本尊は、鎌倉時代前半、慶派の流れをくむ仏師の作と伝えられます。


「ここに内藤先生のご位牌があるんですよ~ぜひお参りなさってください」と言われ、ミモロは、ご位牌の前へ。
「初めまして~」戒名の中には、剣の文字が…。
浄土宗のお寺ですから、「南無阿弥陀仏」と唱えます。

ご住職に特別に、非公開のお庭を見せていただきました。

「え~こんなに広いお庭があったんだ~」と驚くミモロ。紅葉の時期にも見ることができないお庭です。
「さぁ、お墓にお参りしてきま~す」とミモロは、墓所へと向かいました。


*尚「榮攝院」は、通常非公開です。

剣聖 内藤髙治先生を顕彰する会」の活動はホームページで

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