徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

ドイツ統一記念日~シュタインマイヤー大統領のスピーチ~「歴史に対する責任が啓蒙的愛国精神」

2017年10月04日 | 社会

ドイツ統一記念式典におけるシュタインマイヤー独大統領のスピーチがその立場としては珍しく具体的な政治的内容に立ち入ったものであったと話題になっています。

私は特にドイツ人であるとはどういうことかを説明するくだりに感銘を受けました。ドイツの歴史認識を受け入れることがドイツ人であることに含まれているというのです。

「後の世代にとっては個人的な罪ではないにせよ、変わらぬ責任を意味する歴史に対する認識です。二つの世界大戦の教訓、ホロコーストの教訓、いかなる民族的思想や人種差別または反ユダヤ主義の拒絶、イスラエルの安全に対する責任、これらすべてがドイツ人であることに含まれているのです。」

また、この「歴史に対する責任に終止符が打たれることはないと彼は断言しています。

日本の歴史的責任をろくに認めないまま、終止符を勝手に打とうとしている安倍首相以下同じ穴の狢的政治家たちのスタンスとは真逆ですね。

また彼は「変わらない歴史に対する責任を共有することが啓蒙的愛国精神に含まれている」とも言っています。

日本の暗い過去をただ言及するだけで「反日」と揶揄するようなネトウヨ的脊髄反応とは真逆です。国の良い所だけではなく、深い影の部分も含めての愛国心こそ真の愛国心だと言うことでしょう。

 

シュタインマイヤー独大統領のスピーチ全文は大統領府のホームページから閲覧できます。ビデオはこちら

少し長いですが、全文日本語訳してみました。

ドイツ統一記念式典におけるシュタインマイヤー独大統領のスピーチ~マインツ、2017年10月3日

「昔を懐かしむ気持ちはない
昔の心配事を

ドイツよ、ドイツはまた一つになり
自分だけがまだ千々に乱れてる」

私たちは毎年のようにドイツ統一記念日を祝います。そしてそれを、このドイツの東と西が再び一つになった10月3日を祝うのは正しいことです。

それでも今年は少し意味合いが違っています。冒頭に引用したヴォルフ・ビアマンばかりでなく、他の多くの人が疑念や心配や不安な気持ちでわが国の内側の統一を見ています。これが今日という日の一側面です。今年はそれがはっきりと感じられます。

しかしながらまた別の側面もあるのです。それを私は今このホールに集まっている若い人たち、16州の生徒たちに見ています。あなたたちを特に心より歓迎いたします。

「ドイツ統一の日?」とあなたたちは疑問に思うかもしれません。「そもそもなんで年1回なのか?ドイツ統一は毎日のことではないか。」と。27年前から年365日ずっと。違う状況など全くの知ることがなかったでしょう。再統一されたドイツで生まれ育った非常に若く生き生きとした世代がすでにあるのです。

親愛なる青少年少女の皆さん、あなたたちにこの国の未来が託されているのです!そして私たち父母・祖父母の世代は、27年前に獲得されたもの、すなわち自由で平和なドイツをあなたたちに引き渡す義務があります。今日の気持ちが喜びであれ複雑な心境であれ失望あるいはまた希望であれ、どんな気持であるかにかかわらず、統一ドイツ、自由で民主的なドイツ、心配ではなく希望を持って未来を見ることができるドイツ、このようなドイツを私たちは子どもたちに渡す義務があるのです。

親愛なる青少年少女の皆さん、そうです、ドイツ統一は毎日のことです。それはすなわち、私たちは今日、日常的なものを祝うということです。でもそれは自明のことではないのです。統一後生まれで以前がどうだったか知り得ない人たちに助言します。それを体験した人たちに質問してください。

東欧から来た来賓の方々に質問してください。自由と民主主義を求める意思が東欧ブロックを揺るがせ、ベルリンの壁に最初のひびを入れたポーランドやハンガリー出身の人たちに今こそ質問してください。

この壁をさらに崩壊させた東ドイツの人たちに質問してください。彼らはその時憎しみや暴力等なしに、平和的な抵抗と大いなる勇気でそれを成し遂げたのです。

政治家たちに直接聞くのは非現実的なので、グーグルで西と東の、統一ドイツが平和なドイツであると私たちを信じてくれた政治家たちを検索してみてください。

そして特に今年は、ここラインラント・プファルツ州出身のドイツのヨーロッパ人であり、歴史的な機会を掴んで統一の偉業を政治的に成し遂げた政治家、3か月前に亡くなったヘルムート・コールについて調べてみてください。

これがあなたが生まれてきたドイツです。それは。ヨーロッパに戦争と荒廃をもたらした暴走したナショナリズムから冷戦中の分断された国家を経てヨーロッパの中心の民主的で強い国となるまでの長い道のりを歩んできたドイツです。

皆さん、私たちの道はヨーロッパの隣国との平和と友情の中の道であり続けなければなりません。そして二度とナショナリズムに戻る道に行かないように!

ドイツ統一は毎日のことです。けれど、それを私たちは毎日感じているでしょうか?日常生活の中で一体いつ私たちが8000万人の共同体の一部であることを自覚するでしょうか?

多くの人にとっては9日前の9月24日だったでしょう。自由で平等な選挙権が私たちを結びつけているのです。それを隣人と共に投票箱の前に並んでいる時に毎回感じるのです。9月24日

は前回およびその前の連邦議会選挙の時よりもずっと多くの人がこの誇らしい権利を行使しました。それ自体はいい知らせです。

それでもその日の夜に支配的だったのは統一の安心感ではなく、むしろ見逃すことのできない大小のひびが入った国を見る気持ちでした。

私は陰鬱な衰退シナリオなどにはなんの価値も見出しませんが、それでも、たとえ祭日であっても、何事もなかったかのように「チェックをして、はい次!」みたいな振る舞いはしてはいけないと思っています。特に選挙結果を政党や議員団又は連立交渉に丸投げしてはいけないのです。確かに彼らは今大きな責任を担っています。しかし、その選挙結果のメッセージは私たち全員に向けられたもので、私たちが、私たちドイツ人が答えを見つけなければならないのです。

それは次の質問から始まります。そもそもいったい誰が – 「私たちドイツ人」なのか。本日10月3日に私たちは確認します。確かにドイツ統一は政治的日常となりました。我が国を分断する大きな壁はなくなりました。しかし9月24日に明らかになったのは、別の、より見えにくい、有刺鉄線やデッドゾーンのない壁、

でも私たち共通の 「私たち」という感覚を阻害する壁があるということです。

 

私たちの生活の世界の間にある壁、都市と田舎、オンラインとオフライン、貧困と豊かさ、老いと若さなど、一方が他方のことをほとんど知り得ないような壁のことを私は言っています。

インターネットのエコー室を囲む壁-そこでは音がどんどん大きく派手になっていくのに、私たちがもう同じニュースを聞いたり、新聞を読んだり、放送を見たりすることがほとんどないために絶句するしかないのです。

また疎外感や失望あるいは怒りといった感情が一部の人たちの間で深く刻まれ、議論が不可能になるような壁もあります。こうした壁の背後で民主主義とその代弁者、いわゆる「エスタブリッシュメント」に対する深い不信感が焚きつけられています。その「エスタブリッシュメント」には自称反エスタブリッシュメント戦闘員以外の全ての人が含まれることもあります。

どうか誤解しないでください。背を向ける人が全て民主主義の敵だと言っているのではありません。しかし彼ら全員が民主主義に欠けているのです。だからこそ10月3日に9月24日のことを黙っていてはいけないのです。

もちろんそれは議論を呼びます。意見の相違は私たちの一部です。私たちは多様な国です。重要なのは、意見の相違から敵対関係にならないことです。違いが相容れないものとならないように。

それが政治的な現実でないことはこの時代の政治の課題であり、そのために議会ほど重要な場所はありません。今年の10月3日は過渡期にあたります。旧連邦議会は開会されなくなり、新しい議会はまだありません。しかし確かなのは、9日前に選ばれたドイツ連邦議会が違うものになるということです。より鋭い対立、また社会にある不満も反映されることになります。議論はより荒れたものとなり、政治文化が変わることでしょう。

しかしながら、今日こちらにいらっしゃっている議員の皆様、あなた方は今民主主義に大きく貢献することができます。民主主義者が、民主主義を誹謗する人たちよりも良い解決策を持っていることを示すことができます。怒りが最終的に責任を取ることの代用にならないことを証明することができます。タブー破りが次のトークショーの出番をもたらすことはあっても、問題が一つも解決されないということを証明することができます。私は確信しています。正論が憤りのパロールよりも遠くへ響き渡ることをあなた方は証明するでしょう。

憤りの代わりに正論が必要なのは、まさにこの2年間にこれ以上ないくらいに我が国を揺るがせた問題、難民と移民の問題においてもです。これほど意見が相容れずに対立している問題はありません。家族内でも、夜の食卓でも。一方にとっては定言的「人道的命法」 であることが、他方からはいわゆる「自国民に対する裏切り と非難されます。この問題が両極の間の倫理的戦闘領域である限り、世界の現実とわが国に可能なことを融合させるという本来の課題にあたることができません。

人の危機に私たちは決して無関心であってはいけません。わが国の基本法は、忘れてはならないドイツの正当かつ歴史的な理由から政治的弾圧からの保護を保証しています。しかしながら政治的弾圧を受けている人たちを将来もきちんと保護できるようにするには、誰が政治的に弾圧され、誰が貧困から逃げて来たのかという区別を取り戻す必要があります。

私たちは二つの意味で正直にならないといけません。まず、両方の避難理由の裏には人々の運命が隠されているにせよ、同じでものではなく、同様の無制限の請求権を正当化するものではないということです。次に私たちがどのような移民をどのくらい希望し、場合によっては必要としているかという問題においても正直になる必要があります。私見では、それには移民を単に受け付けないということではなく、亡命権やヨーロッパの努力の範囲を超えて法に則ったドイツへの入国を定義し、移民を私たちの基準で制御しコントロールすることが含まれると思います。この二つの問題で私たちが正直になった場合のみ、議論の二極分化を克服できるでしょう。政治がこの課題にあたる時、我が国にできてしまった相容れない敵対の壁を崩すチャンスがあると私は確信しています。

避難と移民に関する議論はドイツを搔き乱しました。しかしそれは搔き乱された世界の結果であり投影でもあるのです。社会の変動や多くの国際的な危機・紛争を見て、私は多くの市民からここ数年次の言葉を聞きました。「もう世界が理解できない」– 正直に申しますと、私もこの言葉がよく分かります。

今年、私の新たな大統領の立場ではまた違う言葉も耳にしました。「もう自分の国が理解できない。」この言葉はもっと悩ましいことです。

G20サミット反対運動の後にハンブルクの城砦区域の店主たちが「全く普通の通行人が野次馬や強盗に変身するのを見てる以外なかった」と口々に言うのを聞きました。

ビッターフェルトの女性は、「本当は選挙演説を聞きに来たのに、同じ市民が、お隣さんが憎しみのこもった顔をしていて、本当に怖かったんですよ」と話してくださいました。

シュトゥットガルトでは自動車産業で働くトルコ労働移民の息子が「俺は何年もずっとドイツを代表する産業で働いていることを誇りに思っていた。でも今はみんなが、俺も一緒になって騙していたのかと聞くんだ。」と語ってました。

そして東ドイツで一度ならず聞いた言葉は、「うちの会社は倒産、村は空っぽ。あんたらがヨーロッパのことやるのはいいけど、でも誰が俺らの心配してくれるんだい?」ということでした。

そんなことは祭日には聞きたくないものですが、もし誰かが「自分の国で疎外感を感じる」と言ったら、誰も「まあね、時代が変わったのさ」などと答えてはいけないと思います。もし誰かが「もう自分の国が理解できない。」と言ったら、それはドイツでは経済成長率や頭頚のいい数字以上にやるべき課題があるということです。

なぜなら、理解し理解されることは誰もが望むことで、誰もが自分の人生を自信をもって送るために必要とすることだからです。理解し理解されること。それが故郷です。

故郷に憧れを抱く人は過去の人ではないと私は確信しています。むしろその反対です。世界が目まぐるしく変わるほど、故郷への憧憬は大きくなるものです。自分が良く知るところ、見当がつけられるところ、自分の判断に自信を持てるところ。それが変化の流れの中で多くの人にとって難しくなってきているのです。

こうした故郷への憧憬を私たちは、「我々対その他」的感情あるいはまた血と土地等のバカげたことや存在したことのないような美しきドイツの過去を呼び起こすことによって故郷を定義する人たちに独占させてはいけません。故郷、安全、ペースダウン、結束そして承認への憧憬。これらものをナショナリストたちに独占させておいてはいけません。

故郷は過去にではなく未来に向かっていると私は思います。故郷とは私たちが社会として創造する場所のことです。故郷とは「私たち」が意味を得る場所です。私たちの生活世界の壁を超えて私たちを結びつける場所。そのような場所を民主的な公共体は必要としており、またドイツもそれを必要としています。

ドイツ国内を巡回するする過程で私は素晴らしい体験をしました。どこが故郷なのかということに関しては語ることがたくさんあります。ゼンケ・ヴォルトマンの新しい映画「夏祭り」はルール地方のふるさと映画で、その中で生粋のボッフム人が「なあ、ストーリーは道端のあちこちに落ちてるぜ。そいつらを拾うだけでいいんだ。」と言うところがあります。

私はそれが始まりだと思います。お互いに無視し合うのではなく、私たちの物語を読み上げましょう。9月24日の後に誰もが自分の社会的立ち位置から呆れて首を左右に振り、お互いに他方について話し、あるいはまた無視しているところで、私たちは再びお互いに相手の話を聞くことを学ぶべきです。私たちがどこから来て、どこに行こうとして、そして何が重要なのか。

東ドイツの人がDDR(ドイツ民主主義共和国)の故郷が統一後にどのように根本的に変わったか、 新しい自由が憧憬の対象であるばかりでなく、理不尽な要求でもあったこと、変革の中で維持したいと思っていた多くのものが失われたことなどを語る時、それらも我が国の歴史の一部なのです。統一の達成は巨大事業でした。もちろん1990年以降間違ったこともされました。それについて沈黙する理由はありません。東ドイツの人たちは再統一後に西側の私たちの世代が聞いたこともないような断絶を体験しました。にもかかわらずこの東ドイツの歴史は、西側のそれのようには「私たち」の欠かせない一部とはなっていません。それを今正す時だと私は思います。

勇敢な弁護士で作家であるセイラン・アテシュが最近私に言いました。「イスタンブールでボスポラス海峡を見ると、胸が躍ります。そしてベルリンに戻ってくる途中であのテレビ塔を見ると、やはり胸が躍ります。」彼女の物語にはシンプルでかつ重要なことが含まれています。それは故郷が複数でもあるということです。一人の人間が一つ以上の故郷を持ち、また新しい故郷を見つけることもできるのです。そのことをすでに何百万人の人がドイツで証明しました。この人たちみんなが「私たち」の一部となったのです。移民の全世代が今日誇らしげに「ドイツは私の故郷だ」と言います。そのことが私たちを豊かにしたのです。

それは私たちが直面している大きな統合の課題に希望を与えることでしょう。私たちはこうも言います。「故郷は開かれているけれど、無制限ではない」と。

来たばかりの人にとってそれはまず私たちの言葉・ドイツ語を習うことを意味します。それがなければ、理解し理解されることもありません。しかしそれはそれ以上のことも意味しています。ドイツに故郷を求める人は、ドイツ基本法の秩序と共通の信念に貫かれた共同体の中に入ることになります。それは法治国家、憲法順守、男女平等という信念です。これらは全て法文であるばかりでなく、ドイツにおける共存の成功に不可欠のものです。

また、あらゆる議論やあらゆる違いがあっても、このドイツの民主主義において交渉不可であることが一つあります。それは我が国の歴史に対する認識です。後の世代にとっては個人的な罪ではないにせよ、変わらぬ責任を意味する歴史に対する認識です。二つの世界大戦の教訓、ホロコーストの教訓、いかなる民族的思想や人種差別または反ユダヤ主義の拒絶、イスラエルの安全に対する責任、これらすべてがドイツ人であることに含まれているのです。

また、ドイツ人になることには、我が国の歴史を認めて受容することも含まれます。このことを私は東欧やアフリカあるいは中東のイスラム圏から我が国に来た人たちにも言います。ドイツに故郷を求める人は、「それはあなたたちの歴史で、私のではない」と言い逃れすることはできないのです。

しかしながら、もしそれが我が国の民主主義において反論の余地のないものであり続けないのなら、どうしてこうした認識を移民に要求することができるでしょうか?我が国の歴史に対する責任には終止符が打たれることがありません。ましてやドイツ連邦議会の議員たちにとってはそれこそあり得ないことであると私は付け加えたいと思います(訳注:一部 AfD 党員の歴史責任否定やホロコースト否定論に対する批判・釘刺しです)。

この国に属しているということは、その大きな長所もまたその類稀な歴史的責任も共有するということを意味しています。私にとってはこれこそがドイツの啓蒙的愛国精神に含まれていると思っています。もしドイツで私たちを表彰するものがあるなら、それは長く続く、難しく、痛みの伴う我が国の歴史の再評価であり、たくさんの明るい側面と同様にドイツの一部である深い影に特別に目を向けることです。私たちはそのことを誇りに思っていいと思います。

連邦議会選挙の後にあまりにも頻繁に「多くの人がドイツに、民主主義とその執行機関に失望している」というようなことを読みました。連邦共和国に失望したという人は、かつてそれに何かを期待したということなのです。

私は固く信じています。この国には多くのことを期待できます。いくつかの危機を脱した国。未解決の問題をなきが如く扱うのではなく、未来に向けた政治で。こうしてドイツ人の大多数が望むドイツを、つまり民主的な国、

世界に開かれたヨーロッパの国、結束する国を作っていくことができるのです。この国はそうであり続けるでしょう!

 

もし知ったかぶりや不平屋あるいは永遠に憤然としている人たちや、全てのことや全ての人に対する怒りを日々抱えている人たち、そういう人たちが我が国を形成するのでなければ、この国の理念は変わらないでしょう。

行動を起こし、我が国における成功と公共心のために日々努力している何百万人もの人たちがいることに私は希望を持っています。

義務で話に病気になった隣人の様子を見たり、老人ホームで朗読したり、難民の人たちを到着の際に助けたりする、そういう人たちです。またシングルマザーに午後の自由をプレゼントする人たち、数えきれない協会で我が国の文化的豊かさを提供し、村での生活を生きる価値のあるものにしている人たち、仕事の後に町内会で図書館やプールの世話をする人たち、死にゆく人たちの人生の最後の時間を共に過ごす人たち。自分だけではなく、他の人たちの世話をするすべての人たち。

皆さん、こういう人たちこそがあらゆる知ったかぶり屋が言っていることとは違って我が国を結束させているのです。彼らが毎日新たに統一に貢献しているのです。


ドイツ統一27周年

ドイツ:2017年連邦議会選挙結果