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懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

茅葺き民家 反り棟

2012年07月18日 | 茅葺き民家
撮影場所 島根県松江市郊外

宍道湖に沿って島根半島を走る国道、それから幾筋も小さな川に沿って集落がある。
そんな集落を一つ一つ茅葺きを探して入っていった。

海も近いし飲み水の川もあり薪のとれる山もある。北風をさえぎる山もある。
縄文人や弥生人はいち早くこんな土地に住み集落を作ったと思われる。
洪積平野はいつ水害に襲われるかもしれない。また薪や飲み水が得られなかった。
田も潮が奥深くまで入るので農耕地には適さない。

かえってこんな谷筋の小さな平野の方が住みやすかったのではと思い巡らせ集落を訪れる。
島根県出雲地方の茅葺き民家は反り棟がほとんどである。反り棟は棟が反り両端があがっている。
出雲大社の社殿の影響を受けているともいわれている。

女性二人が会話しているところを民家とともに撮らせてもらった。


昭和の古い町並み写真展 その45 「茅葺き民家 3」 岡山県船穂町(現在は倉敷市)

2012年07月17日 | 昭和の古い町並み写真展
昭和の古い町並み写真展 その45 「茅葺き民家 3」 岡山県船穂町(現在は倉敷市)

県道沿いに茅葺き民家があった。岡山県南部の形の特徴がでている。
棟仕舞はがんぶり瓦を乗せている、下屋は本瓦葺きである。
明治初めの街道筋の民家の写真を見るとプライバシーにも防犯面でも問題のある家が多い。
昭和20年、30年代の庶民の民家はみんなこのレベルだったように思う。
門や塀のある家金持ちの家だった。

日本の家屋は木と紙でできていると欧米から訪れた文化人が日本を紹介している。
第二次世界大戦での本土爆撃は木と紙の民家を燃やすくするために焼夷弾がつくられた。

どこにでもあった道沿いにあった庶民の民家、フィルムを使ってまで事細かくは撮らないものだ。
写真家の木村伊兵衛氏がよく言っていた言葉に「50年後、100年後に役立つ記録写真を撮れ」
軍の報道カメラ集団の部長をしていた木村氏は軍の写真の傍ら空襲時の庶民の生活も記録している。
米軍から戦争犯罪を問われるため全部焼き払ったのだが庶民生活を撮影した1500枚が屋根裏に隠してあった。
その写真から東京大空襲の実態が明らかになった。
カメラマンでなくても我々もしっかりテーマを持ち何年も投げ出すことなく継続する事はできる。


ボンネット特急電車

2012年07月16日 | 鉄道
撮影 山陽線岡山駅 クハ481系 特急つばめ

クハ481系は1964年に製造された交流直流電車、60HZ区間で運用された。
1986年に全機廃止となっている。
モーターは直流モーターのため交流区間は直流に変換して使っていた。
山陽線の特急は新幹線博多開業まで数多くの列車が走っていた。
交流電化の九州まで乗り入れるため交直電車が必要であった。
山陽線の特急電車は新幹線博多開業で姿を消した。

「つばめ」や「はと」の名前を記録するために撮影した。
電車の写真をモノクロで撮影しても意味はなかったが自分の楽しみで撮影した。

東海道線を最初に走った「こだま」形のように前に突き出た電車はボンネット電車と呼ばれている。
最後まで運行されていたボンネット電車485系の急行能登は2010年3月で姿を消した。


茅葺き民家 千種町の民家

2012年07月15日 | 茅葺き民家
撮影場所 兵庫県千種町(ちぐさ) 現在は宍粟市(しそう)

千種町は千種川の上流、源流部の町で岡山県の東粟倉村、西粟倉村に接している。
北は鳥取県の若桜町に接している。
千種町は何度も足を運んだ。
東粟倉村から国道429号線で峠を越えてまず入った。
この国道429号線は倉敷市玉島が始発で岡山県を斜めに縦断し東粟倉村から千種町に入り国道29号に至り更に京都府福知山市にいたる国道である。途中で何度も消えたと思うとまた出てくる不思議な道路である。この国道がどう走っているのかも楽しみのひとつであった。

初めて千種町に行った時は茅葺き民家も残っていた。入母屋造りであるが篠山地方のようなはっきりした入母屋はすくない。
岡山県の美作地方の民家のほうがより入母屋らしい気がする。
ここも四方は山に囲まれ山間部の集落にみられる石垣で整地された家並みだった。

国道2号線から千種川に沿って千種町まで登った事もある。
アユ釣りシーズンには大勢のアユ釣りファンが川に入っていた。
何か撮影の対象になる建物や光景に出合わないか探す目的もない旅でもある。








蒸気機関車 C57とDD54

2012年07月14日 | 蒸気機関車
撮影場所 山陰線和田山駅

C57形蒸気機関車とDD54形ディゼル機関車が並んだ光景です。
DD54は福知山や米子に配属され山陰線や播但線を走った。

蒸気機関車を撮影していた人はディゼル機関車を嫌って撮影しなかった。
私もほとんど残っていない。

今となってはなんでも毛嫌いせず撮っておくべきだった。
DD54形ディゼル機関車は1966年から1970年に40両製造されている。
日本には大型ディゼル機関や流体変則機制御に技術がなく西ドイツからの技術と部品が使われている。
しかし、部品の落下による脱線事故や相次ぐ故障やメンテナンスの難しさにより1978年に全期廃止されてしまう。耐用年数には程遠い短命機関車だった。
外観だけ見るとDD51などよりはるかにかっこよく見えた。

昭和40年代は高度成長期を迎えるが技術力は低かった。技術のいるものは外国製が多かった。
導入をしたものの故障が多く改造するにもライセンスの関係で外国本社の了解が必要で時間と手間が掛かった。いつの時代でも国内で技術開発し製造する技術、メンテナンスする技術を残さないといい製品はできない。

昭和の古い町並み写真展 その44 「茅葺き民家 2」 倉敷市児島由加

2012年07月13日 | 昭和の古い町並み写真展
昭和の古い町並み写真展 その44 「茅葺き民家 2」 倉敷市児島由加

由加大権現の参道にある「あんころ屋」撮影した頃は茅葺き民家だった。
その後、屋根はトタンで覆ったが現在はどうなっているか知らない。
あんころは一口サイズの餅をこし餡で絡めたもの。
寺院の売店などにも同様のあんころを売っている、児島の町の菓子屋が製造しているが、ここのあんころを買い求める人が多い。
売り切れるまで店は開いている、客が多く昼までに売れれば店を閉める。
年寄り夫婦がやっていたので売切れ御免の商売である。

店先に腰にタオルをぶら下げた男性があんこみろを買いにきている。腰タオルの人も見掛けなくなった。労働で汗をかく事が多かったので手拭き汗拭きのタオルを腰につける人が多かったのだろう。



茅葺き民家 青田のある風景

2012年07月12日 | 茅葺き民家
撮影場所 兵庫県三木市

青い田のある風景はまさしく日本の風景である。
ジョニー ハイマスというイギリスの写真家が「たんぼ」という本をだした。
日本の女性と結婚して新潟県松之山を中心に活動していた。新潟の美しい棚田を紹介する写真集でもあった。
日本人にはごく当たり前の光景であった水田が麦畑しか知らないイギリス人には感激の風景に写ったのであろう。
多くの日本人が水田の美しさに外人教えられた写真集でもあった。
水田と茅葺き民家も残しておきたい日本の風景のひとつである。


蒸気機関車  C612号機 宮崎駅

2012年07月11日 | 蒸気機関車
撮影場所 日豊線宮崎駅

C612号機は現在、京都梅小路に保存されている。

夜汽車を三脚を使って撮影した。露出時間は山勘で適当、何枚か露出時間を変えて撮影。
夜のホームの写真もいいものだ。
この歳になると駅のホームで停車している写真が懐かしく思える。
蒸気機関車に乗って各駅を撮っておく置くべきだったと思う。
当時の人々の服装や客車、駅の風景が判り時代の風俗がわかって面白い。
蒸気機関車が驀進する写真より時代背景がわかる。
しかし、蒸気機関車に乗ってもすぐに寝ていたように思う、列車の走行音を聞くとすぐに眠くなる。これでは撮影できない。

蒸気機関車には蒸気タービン発電機を持っている。前照灯や室内灯に使われた。電球のため薄暗い、木の椅子とあの薄暗い電灯、蒸気機関車の煙、これだけでなんかしんみりしてくる。
これから都落ちするような寂しい気分になる。
バッテリーに充電するため直流発電機だった。
タービンのように回転して発電するには三相交流発電機が構造も簡単で造りやすい。
蒸気機関車のできた当時は交流から直流に変換する整流器が無かった。
昭和40年代になりダイオードが色々開発され交流直流の相互変換が可能になった。
蒸気機関車や旧型客車は蛍光灯や水銀灯への切り替えもせず終焉を迎えた。


後ろにC56形蒸気機関車が見える。

昭和の古い町並み写真展 その43 「茅葺き民家 1」 倉敷市玉島長尾

2012年07月10日 | 昭和の古い町並み写真展
昭和の古い町並み写真展 その43 「茅葺き民家 1」 倉敷市玉島長尾

古い町並みの中にあった茅葺き民家を投稿します。
この当時であればまだ茅葺き民家も町並みの中にあったと思う。

玉島長尾の県道沿いにこの家はある。
かってこの地域の大地主で大庄屋をつとめていた。
岡山県の豪邸や庄屋をつとめた民家の本がある。それによると江戸時代に頼山陽が何日か宿泊し書を残しているそうだ。
千坪を超える敷地は土塀で囲まれている。
ナマコ壁の長屋門と蔵は見事である。10年ほど前に前を走ったら残っていたので現在もあるとおもう。しかし、茅葺き民家はトタンを被っている。

何度か撮影に来たがいつも長屋門が閉まっていた。
この日は幸い開いていたので撮影させてもらった。
お孫さんが帰省していたのかアイスクリームをたべていた。
この子供も今は四十歳になっているだろう。



茅葺き民家 鳥取県若桜町の茅葺き民家

2012年07月09日 | 茅葺き民家
鳥取県若桜町は兵庫県に接した山間地、人口3700人、1970年に比べると半減している。

これはどこの過疎地にも見られる現象であるが中国山地に面した所は人口減少が大きい。
その理由は雪の多さ、収入の少なさ。山陽側に行けば工場が立ち並び働き場所が沢山あった。
故郷を捨てる人が多くなった。


私も健康であれば過疎、限界集落を巡り写真に記録したかった。各地へ訪れれば過疎の暮らしの実態や地元の人の意識も聞くことができる。マスコミで報じられた事と違う事が聞きだせるかもしれない。何事も自分で行き見て聞いて判断することが肝心だとおもう。

若桜(かさ)の山筋の集落を訪ね歩き茅葺き民家を撮影した。

若桜町も展示していたC12形蒸気機関車を補修復元して若桜鉄道を走らせる計画がある。
若桜鉄道はJR因美線から若桜を結ぶ第三セクターの路線、電化していないのでうるさい電柱もなく鉄道ファンが撮影に来ることであろう。

東日本大震災後、被災地の被害の凄さを迷惑も顧みず撮影に行った人は多いが震災前の三陸の港町をくまなく歩き記録した人はほとんどいない。
高田の松原が健全だったころの写真さえほとんどでてこない。
それでもホームページを見ると誰もやっていない事をコツコツやっている人が世の中にはいるものだ。人のやっている事ならばすぐに真似をして始める人はいるが自分で道を開くのは難しい。
やりだしたら半年やそこらで投げ出しては何にもならない。
最低10年は継続させたい。私は10年も生きられないと思うので「今更やっても仕方がない」の諦めが強く何も新しい事に挑戦しない。