懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

茅葺民家  セイタカアワダチソウ

2011年11月19日 | 茅葺き民家
セイタカアワダチソウが茅葺民家の裏に咲いていた。あの嫌われ者も美しく輝く一瞬があるものだ。
セイタカアワダチソウは咲き始めは美しい。いまは全国のどこまで勢力を伸ばしているのだろう。
過疎化が進んでいる休耕田などこれに占領されている。
今や日本の秋の花になってしまった。秋の黄色の花といえばつわぶき、金木犀、菊、アキノキリンソウなどがある。

日本の風景は外来種の黄花ですっかりかわってしまった。
春の西洋からしな、初夏の大金鶏菊、秋のセイタカアワダチソウ我々の子供の頃に無かった風景である。

この厄介物が畑にはびこり除草に苦労していた。掘っても地下茎が長く伸びるし少し種が飛ぶとそこから生える。地下茎と種の双方で繁殖する植物はつよい。
粒状の除草剤をまいても完全に駆除できない。それを液体の除草剤を電動噴霧器で散布したら効果てきめん。三リットルの水に125CCの薬剤をいれ散布したところ70坪の雑草が全滅。周囲の果物の木は影響なし。チガヤやススキもあったので効き目は半信半疑だったがこんなに効果があるとはおもわなかった。
粒状の除草剤をあれだけ撒いても駆除できなったのに、一回200円位の薬剤で駆除できたのは驚きである。粒状の除草剤より毒性が強いと思ったがそうでもない。なぜ地下茎が枯れるのか疑問だった。
今の除草剤は植物の成長や組織をよく研究している。20センチ程度に伸びた草に薬剤を散布して光合成をさせないようにする。光合成ができないと草は一週間で弱り枯れ、地下茎にも栄養が行かず地下茎も枯れるのだそうだ。春5月20日頃になると新芽が伸び15センチ程度に伸びてくるのでので散布すると効果がある。


撮影 広島県

駅舎とセーラー服

2011年11月18日 | 鉄道
木造の駅舎とセーラー服の写真を投稿します。
山陽本線、玉島駅(現在の新倉敷駅)と西阿知駅の夕方の風景
学校帰りの生徒も一緒にとりました。

倉敷市の児島は学生服の町です。全国の学生服を作っていました。菅公や楠公学生服です。
菅公は菅原道真公、楠公は楠正成公、なんとも名前が古いですね。

20年程まえですか、女子高校の制服が私立高校からDCブランドの制服を採用して、やがて公立高校もセーラー服をDCブランドものに切り替えてきました。
ファッションに敏感な女性は制服のダサイ高校には行かないといいだした。
いままでセーラー服を作ってきた児島は大ピンチと新聞の片隅に載っていました。
これを見て定年後のライフワークに全国の女子高生のセーラー服を無くなる前に撮るぞと思ったものでした。
定年になった頃はセーラー服は消え、しかも身体が不自由になりこんな思いは断念。

デジカメになり鉄道ファンが急増、鉄女や鉄子まで現れる始末
木造の駅舎も人気、肥薩線の嘉例川駅(かれがわ)は乗降客は40人程度なのに休日になると800人が押しかけるそうです。
ネットの時代になりウィキペディアの検索は鉄道の記事を書くのは便利です。
鉄道は筋金入りのマニア、オタクが大勢いるので駅から機関車、電車までウィキペディアに投稿するのでしょうジャンルの中で一番充実しています。
全国の駅と切符をホームページにしている人がいますが、文明の利器があるからできる事でしよう。
これは乗用車、デジカメ、パソコンがなければできません。
一日何便かの鉄道に乗っては駅巡りはできません。デジカメでないとフィルムをケチって撮影していてはとれません。
しかし、私が撮って頃は駅前にはダルマポストとベンチ公衆電話BOXがあり絵にならない不法進入の車が全くいない良き時代でした。




茅葺民家  柿のある風景

2011年11月17日 | 茅葺き民家
柿の木は日本の秋の風景です。
農家の家にはどこかに植えてあるように思う。農家で柿のない家は少ないように思う。
庭に庭園のある家は果物を植える家は少ないですが、畑の端や田圃の法面、家の裏に必ず植えてあるように思う。柿はネットで調べると沖縄と北海道以外にあるそうです。
私が見た限りでは雪の多い地域はほとんどないように思う。新潟など茅葺民家の脇に柿を見る事はないように思う。
青森の茅葺民家を撮影している人にメールで東北には柿は植えてあるか確認したところ、普通に植えてあるとの答え、ホームページの写真にも雪のふる風景にたわわに実った柿と茅葺民家の写真が何枚かあった。
東北はリンゴだらけのため西日本のように柿にはこだわらないのでしょうか

柿の生産の多いのは1.和歌山、2.奈良、3.福岡だそうです。
和歌山のかつらぎ町は生産量日本一、柿畑は圧巻です。急な斜面の段々畑が柿畑、
高齢化した人にとっては厳しい地形です。
和歌山も四国と同様に山は急峻です。四国と和歌山は紀伊水道で海でへだてられているが中央構造線でつながっているし地形が同じように形成されたのではないかと思う。
このかつらぎ町に干し柿のシーズンになると京阪神からカメラマンが大勢押し寄せるそうです。
大阪府には隣接しているし峠を越えればすぐの距離
かつらぎ町は干し柿でも正月用の串柿の産地、ずらっと干された光景は素晴らしい。
車を置くスペースもない山の上の集落、地元の人とトラブルはないのでしょうか
植えられたいる柿は平核無(へらたねなし)の突然変異種の刀根早生、形は富有柿のように平たく種がないが渋柿、新潟ではあんぽ柿にされる。これが大変甘くおいしい。渋抜きしてあるのを無人販売で一袋100円で売られていた。一袋だけ買って帰って食べたら大変美味しかった。死ぬまでにもう一度かつらぎ町に行ってみたい。
串柿にする柿は小ぶりな柿で作る。串柿の数は10個です。地元の人は10個の意味をこう教えてくれた。両サイドの二個づつを「夫婦」、なかの六つを「仲睦まじく」だそうです。

奈良の五条も柿の生産量は多い。柿の葉寿司が生まれる背景も判る気がする。

撮影場所 上から岡山県、和歌山県、島根県、兵庫県二枚












古い町並み  ちちもみ看板

2011年11月16日 | 古い町並み
倉敷の町の路地をカメラを持ってあちらこちら随分歩いた。
それもレンズは標準レンズでけ。路地を撮るには標準レンズでは撮るものも撮れない。
今のようなカメラがうらやましい。路地を歩いていたら、マッサージ、ちちもみの看板が見えたので懐かしくなり撮影する。
私の子供の頃もこんな看板をよく見かけた。
その頃はマッサージの言葉はなく按摩(あんま)だった。按摩、ちちもみと書いてあった。
その当時でもちちもみの看板もほとんど見掛けなかった。
しかも、樋口一葉のたけくらべにでてくるような長屋もいまではめずらしくなった。
今の人は「ちちもみ」ってなにをすることも知らない人が多いとおもう。
子供を産み母乳の出が悪いのは乳児にとっても母親にとっても粉ミルクの時代になっても
深刻な問題です。今は乳ので出が悪い時は産院で処方してもらうのでしょうか

くれぐれもネットでちちもみを検索しないでくださいアダルトサイトにつながるでしよう。






蒸気機関車  筑豊線若松機関区

2011年11月15日 | 蒸気機関車
筑豊線若松駅は筑豊炭田で採掘された石炭を若松港から積み出していた。
折尾と若松の鉄道開通が明治24年、複線化されたのが明治29年といかに石炭の積み出しが多かったかがうかがえる。
しかし、それでも川船での輸送の方が倍あった。
川船での運搬風景は世界記憶遺産に登録された山本作兵衛氏の絵にも描かれている。
NHKのアーカイブ、新日本紀行ふたたびで鉄道による若松の石炭の積み出し風景が放映された。
撮影されたのは昭和47年、「ごんそう」と呼ばれる沖仲仕が石炭の運搬をやっていた。しかし、モッコを担いでの時代ではなかった。かなり機械化が進んでいた。
そんな風景や蒸気機関車も映像にはでてきた。

私が撮影したのはそれより少し前であろうか。
機関区にいた蒸気機関車も客車用のC55形、客車、貨物に使われたD50形、8620形 貨物用の9600形が見える。
D50140は京都梅小路の鉄道記念館で保存されている。
鉄道写真も一か所に半日も滞在する事なく次へと移動する。週休一日制の頃、有給休暇も少なく厳しいスケジュールだった。

一日時間があればもっと違った角度の写真が撮れたかと思うが、時間があっても大した写真は撮れなかったと思う。写真は本人の思考レベルの写真しか撮れない。知識も経験も先を見通す事も出来ない若輩者には難しいものだとおもう。

8620形蒸気機関車


9600形蒸気機関車


C55形蒸気機関車と給水槽、石炭ホッパー


D50蒸気機関車 梅小路で保存


D50蒸気機関車


C55形蒸気機関車と機関庫、横まではレンガ積み、上は木造、こんな黒くくすぶった風景が懐かしく好き

茅葺民家  ススキのある風景

2011年11月14日 | 茅葺き民家
茅葺民家とススキのある風景をおおくりします。

ススキのある風景は秋そのものです。葦とともに茅葺民家の屋根材に昔からつかわれています。
どこにでもあり繁殖力も強いし藁などに比べて耐久性があるため茅材に使われてきた。
かっては茅場を地域ごとに持っていたそうですが今は杉林になっているところが多い。
奈良県の曽爾(そに)高原は一面ススキの原ですが伊勢神宮の茅場になっています。
神社は檜皮葺きがほとんどですが、伊勢神宮の建物は茅葺です。
天皇の大嘗祭などの儀式の建物も茅葺です。

茅がなくなったと聞きますが茅はいくらでもあります。
しかし、毎年刈り取らないと雑草や古い茅が残り使い物にならない。
茅葺民家の脇でもススキはよく眼にします。

ススキは薄、芒と書きます。ススキのつく地名人名は札幌の繁華街ススキノ(薄野)が有名です。人名では薄田泣菫(すすきだ きゅうきん)倉敷市出身の浪漫派詩人でしょうか
ススキはかって尾花と呼ばれ秋の七草のひとつです。尾花はキツネの尾に似ているからその名が付いたようです。春の七草は食べられる野草ですが秋の七草は生活に必要な選ばれているように思う。ススキは屋根材、葛はでんぷんを取ったし桔梗は漢方薬に使われた。

撮影場所は上から山形県、新潟県、兵庫県、広島県、岡山県










塩田 倉敷市児島

2011年11月12日 | 日記

この流下式塩田は倉敷市児島の塩田跡です。
倉敷市児島の塩田は塩田王と呼ばれる野崎家が所有していた。この跡地は埋め立てられJR瀬戸大橋線の児島駅及びショッピングセンターになっている。
私が岡山に転勤してきたときには流下式(枝条架式)の塩田は機能していた。
昭和47年ごろから流下式はイオン交換膜に取って代わっていった。
いつか機能している時に撮影しようと思いながら月日は流れ撤去する前にやっと撮影に行った。
なんでもやろうとすることは「早くやる」が肝心だ。それとやりはじけたら「必ずやる」「粘り強くやる」ことに尽きる。この歳になりあのときにもっと早く行動をとらなかったのかと悔やまれる事が多い。
行動するには今からでも遅くにないが昭和の時代に失くしたものが余りにも多すぎる。

塩は太古の昔から火を使い料理をする人間には欠かせない。これは人間だけではなく動物すべてに言える。
海の無い地域の塩は生命線で長野の山奥では冬場雪に閉ざされると囲炉裏の周りのムシロに染み込んだ塩分を煮出して使ったと聞く。
昔の塩作りは海草に付着させて煮詰めたり土器で煮詰めて作っていた。
しかし、海水の塩分濃度は3.5パーセント、96.5パーセントの水を蒸発させないと塩にならない。

「塩分濃度を上げるために塩田が開発された」
・塩の満ち引きを利用して塩田に塩水を引き入れる揚げ浜式塩田。

・海水を汲み上げて塩田の砂に撒く入り浜式塩田

・昭和20年後半から始まった流下式塩田がある。
流下式は枝条架式とも呼ばれる。竹箒を何段にも重ねたところへ海水を上からゆっくり流し海水を蒸発させ濃縮していく方法である。従来からなぜ出来なかったかと疑問に思うが塩の腐食に耐える材料が無かった事であろう。今ならばプラスチック樹脂やセラミック、耐蝕金属があるのでポンプも配管も容易に敷設できる。

・昭和47年頃から天候に左右されず工場で塩が作れるイオン交換膜式に代わって行った。イオン交換膜も海水の濃度を高くする装置である。。濃い液を抜き出し煮詰めて塩にする。
イオン交換膜でも18パーセントの塩分しか得られない。あとは蒸発させて水分を飛ばす必要がある。これにエネルギーがいる。今は真空蒸発にして40℃で沸騰させて蒸発させている。
どの方法も3.5パーセントの海水を濃縮する技術である。

・乾燥した地域では天日乾燥で塩を作る。NHKの「茶馬古道」と言う番組でチベットの峡谷を茶や塩をラバに乗せて運搬商いをする商隊の放送があった。妻たちはチベットの奥地で天日干しの塩をつくる。ヒマラヤ山脈は海底が隆起したので岩石が塩を含んでいる。塩を含ん水の井戸から塩水を運んでは天日場の屋根に塩水を掛ける。乾燥地帯なので乾きは速いが出来る塩は僅かである。男は鳥鼠道(ちょうそどう)と呼ばれる狭い断崖絶壁の道を運ぶのである。千年以上に亘り続けられた塩の歴史を見た思いがした。

国内で海水から作られる塩の量は消費量の15パーセントであとの85パーセントは海外から岩塩、製塩を輸入している。海水から塩を作らなくても岩塩を輸入したほうがコストも安いし効率的と思うが、専売公社で販売していたしがらみもあるのと輸入が全面停止したときのリスクもあるので国内生産を残しているのであろう。岩塩は限りある資源のため現在は降雨量の少ない乾燥地で天日干しで製塩されているそうだ。

写真は野崎家塩田の船の出入り口の灯台、今はこの水路は埋め立てられている。ここはJR児島駅の東になる。

塩は人類にはとって貴重なものであったのでことわざや用語にもなっている。西欧では塩を支配し大富豪になった名家もある。
給料のサラーリーも塩(ラテン語でサラ)を賃金として与えたことに由来する。
サラダも野菜に塩をして食べた事に由来する。

JR児島駅東側 野崎灯台





JR児島駅前 天満屋ハピーマート付近


わさお

2011年11月11日 | 旅行
東北旅行で青森の鰺ヶ沢のイカ焼き屋の看板犬「わさお」を見てきた。
地元に人に場所を聞いた。国道沿いで鰺ヶ沢の入り口のためすぐわかると教えてもらった。
しかし、わさおはスターだからいない事もあるとおそわった。
ラッキーな事にいた。寝ていたのでしばらく待った。

今でも次々と見学の人が来る。夏休みは車が1000台も狭い駐車場に来たので交通整理の人がついたといわれていた。商品化もされるし捨て犬からスターになるし青森の顔である。

イカ屋も繁盛して四人を雇っていた。
帰りによく見たら並びにイカ焼き屋はもう一軒あった。むそこは暇そうにおばちゃんが立っていた。
客はわさおの店ばかりで全く寄らなかった。
コバンザメ商法にもなっていない。
あれでは妬みも抱くであろう。
売れない店も瓜坊とサルでも飼って対抗するしかない。
ええ鰺ヶ沢は寒過ぎてイノシシもサルも棲んでいないと、そうなるとジッペイを飼うしかない。
あれはわさおより可愛いしおとなしい癒される。

情報化時代である何で人気が出るか判らない。しかし、人気の出たものに集中するところがある。
人気のあるものランキングには敏感だかそれ以外は興味を抱かないのが情報化の落とし穴でもある。

男はややもすると「わさお」の話題など見もしないで頭から興味を示さないものだ。
その点、女性はフットワークが軽い、話題になるものにはすぐに乗る。
私も家内から腰が重いといわれる(体重はそれ以上に重いが)
歳をとり身体が動かないとおっくうになるが心だけは軽くありたい。

しかし、人気のある物や人のやる事ばかりを追いかけるのはつまらない、自分の確固たるライフワークになるテーマを持たないと面白くない。








茅葺民家 メキシカンセージの咲いた家

2011年11月10日 | 茅葺き民家
以前に訪れた茅葺民家にメキシカンセージが勢いよく咲いていた。
シソ科のサルビアの仲間だそうだ。セージの名が付くようにシソ科の植物であることが想像できる。
この地域を通ったので以前撮影した場所を訪れた。
もうすっかり茅葺民家は残っていないと思ったらどっこい残っていた。
しかし、雨戸は閉められ空き家になっていた。
地元の人に聞いたら時々、子供さんが畑を作りに来ているといっていた。

以前見た時は昔ながらの家で味のある家だとおもった。
私は民家を撮影しているが民家でいいのは立派な家や豪邸でもなく、昔の姿を残した生活感のある家に心が動く。
石の基礎に縁側があり障子に洗濯物を干してある。
土の道路に木の物干し台、昭和の匂いが漂う家だった。
現在は土の道路もアスファルトに変っていた。
写真はカラーが現在、白黒が以前撮影したもの。

撮影場所 島根県安来市










蒸気機関車  五稜郭機関区

2011年11月09日 | 蒸気機関車
函館本線 五稜郭機関区は大型蒸気機関車のメッカであった。
かって東海道や山陽線で特急、急行を牽引したC62形蒸気機関車や大型貨物機のD52形蒸気機関車が配属されていた。
こんな大型蒸気機関車は荷重が重いのでどこでも走る訳に行かない。
幹線仕様の線路規格の路線に限られている。
非電化区間の電柱のない線路をC62蒸気機関車が復活するのをみんな望んでいるところであろう。

五稜郭の名前につられてどうしても立ち寄りたかった。
五稜郭は蝦夷地を治める松前藩の城で五角形をしていたのでこの名がついた。
明治維新後、政府軍と旧幕府軍の最後の戦いとなった、箱館戦争の戦地のひとつでもある。
この地で戊辰戦争は終結した。

蒸気機関車に興味のない人にはなんとも面白味のない機関車の写真であるがファンにとってはたまらない写真に感じられる。