堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

東洋のポルトガル、それも悪くない

2011-04-10 10:30:40 | 東北関東大震災

4月7日の朝日新聞のオピニオンに載っている

歴史家、大阪大名誉教授 川北稔さんへのインタビュー記事

歴史のいま  

  「3.11に砕かれた近代の成長信仰 もやっとした不安

  復興は必ずできる 東洋のポルトガル それも悪くない」

を読んだ。



川北稔さんはイギリス近代史が専門であるという。

近代の世界を一つのシステムとして見る考え方があるそうです。

その「世界システム」は16世紀の西ヨーロッパを中心にうまれ、

その後大西洋をわたってアメリカに重心が移っていく。

そして21世紀は東アジアの世紀といわれる。

全盛期だったポルトガルやスペインはイギリスやオランダに抜かれ、

大地震と津波でポルトガルは没落していった。


東アジアの先頭をはしっている日本がこうした災害に見舞われた。

これから日本は東洋のポルトガルになるのかもしれない。

世界のトップやアジアのトップではなくなる。

しかし、それが一概に不幸ともいえないのではないか。

現在のポルトガルはある意味で安定し、人々は幸せな人生を送っているのではないか。

それには我々がそれを「安定」と受け止める価値観とメンタルな部分変わる必要がある、と語っている。

最後に取材者は我々は「次の時代に入ったのでは」と感じたと書いている。



ずっと自分のなかでこの大震災をどう捉えたらいいのだろう、ともやもやしていたものが、

これを読んでスッとした。

ゆったりとした史観に基づく語り口に、納得できて安心した。

今、歴史の転換点にいるのかもしれない、という気がした。


私は科学のことも、日本の経済のことも、エネルギー政策のことも詳しくはわからない。

どれがいい、どうしたらいいとは、軽々しくいえない。

しかし着実に自分達に突きつけられている問題だ、とだけは感じている。


自分がすこしだけ近代の日本の歩みを勉強していて、

なにかそこから考えることができないだろうか、とここのところあがいていた。

その答えをもらった気がした。

歴史に学ぶことはおおいにあり、そのために歴史は学ばなくてはいけない、とおもった。


節電! 節電!

2011-04-08 18:53:57 | 東北関東大震災

4月1日、自宅に帰ってきました。

すぐに後片付けやら、掃除やら、買出しやらに大忙し。

地震で瓦をやられたお宅がおおいらしく、ブルーシートに覆われた屋根が目立つ。


そんななか親戚の方が、亡くなられた。

直接震災とは関係がないというが、ご高齢の方なので、あの地震に少なからず

ショックをうけたことも遠因ではないかという声もお聞きした。

健康な人でさえ気が滅入るのに、病気をかかえている方はなおさらではないかとおもった。



さて、こちらは相変わらず余震が多く、再度大きな揺れがくるという割合が低くなっても

現実味を帯びて警戒している。


そして我が家も節電! ということで、

コンセントはほとんど抜いた。

もちろん以前は入れっぱなしだったパソコンも毎回抜いている。

夜になっても玄関や廊下の照明はつけないでいる。

寒くても一枚余計に着たり、レッグウォーマーを履いたり。

24時間風呂もやめたので、シャワーばっかり。

ウォシュレットも最低限の設定にする等々。


慣れればどうってことはない。

あまりに便利になりすぎていたのかもしれない、と今までの生活を反省する。

ここのところ買った節電と停電に備えた備品の写真です。

(ブログのデザインも今年はあまり見られない夜桜にしてみました)


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東日本の復興を祈る

2011-03-31 13:48:15 | 東北関東大震災

Photo  ホテルの募金箱の「ガンバレ東日本」



大震災から3週間が経ち、

横浜にきてから半月が過ぎた。

被災者の救援はようやく軌道にのりはじめたようだ。

長い道のりになる復興へ、皆で力をあわせていかなくてはいけないと強くおもう。


一方、原子力発電所の問題は全く収束の方向へむかわず、こちらも長期の覚悟。

放射線の被害に対してなんとか自分の気持ちに折り合いをつけて、自宅へ戻ろうとおもう。

安全をもとめて避難してきたけれど、結局事態の推移を見つめているだけで、

前へ進むことを何もしていない自分がいやになる。



たくさんの仏像をみてきた。

長い日本の歴史をふりかえれば、いつの時代も人々は仏像に祈りをささげ、

国の平安のために大仏を建造してきた。

現代のような科学が発達していなかった時代は、真に自然の脅威に畏敬の念をもって

おおきな見えざる神仏の世界に帰依する敬虔な気持ちをもっていたのだとおもう。

すべてが人間の力でコントロールできるという

科学万能の世界につかっていたことへの警鐘とおもえてならない。

自然の威厳の前で人間の小ささを感じる事もなくなっていたのではないだろうか。


たくさんの仏像に祈りをささげながら、そんなことを考えていた。


名取市閖上地区

2011-03-24 00:22:08 | 東北関東大震災

Img_0971 朝日新聞3月14日一面にのった閖上地区の写真


今度の大震災で親戚や友人で被害にあった人はいなかったのだが、

唯一大津波に呑まれた宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区に知人がいる。


それはもう6,7年前になるけれど、先祖調べで宮城県の岩沼あたりに行ったことがあった。

堅曹さんの孫の結婚相手がその地の出身者だったので、戸籍謄本の住所をたよりに尋ねていった。

探している人物は晩年が不明で、いつ亡くなったのか、お墓はどこにあるのかさえもわからなかった。


岩沼市役所に行って何か手がかりをとおもい、その人物の兄妹たちの戸籍をみたいと聞いてみたが、

直系でなければ戸籍等は教えられない、と断られて途方にくれていた。

役所の人も気の毒におもったのか、戸籍謄本に書いてある住所の現在地を教えてくれ、

そこは古くから続いている旅館だから、行ってみたら何かわかるかもしれない、と言った。

早速向かったのが、閖上地区であった。



漁港の目の前にある小さな旅館だった。

見知らぬ者が突然、このような人物は知りませんかと尋ねてこられて、むこうも驚いたようだったが、

そこの女将さんは、私は嫁だから古いことはわからないけれどちょっと待って、と言って

奥にいるお年寄りの女性に聞きにいってくれた。

義理の姉になるらしい。


そのおばあちゃんが、そういえばその人の名前は聞いたことがある、と言った。

そしてその人の姪が私の友達で、たしかその息子が近くに住んでいるから電話してみよう、と。

わたしはその話に心臓がドキドキするほど驚いたが、

すぐにあがってといって私を炬燵のある居間に連れて行ってくれて、そこで電話をかけてくれた。


電話はつながり、私の探していた人物の消息を聞くことができた。

それは本当に驚愕の内容で、いろんな想像をはるかに超える話だった。

メモをとる手が震えていたのを今でもおもいだす。


女将さんとおばあちゃんは私のそんな様子を温かく見守ってくれて、

電話がおわると、よかったね、といってお茶やお菓子をだしてくれた。

その温かいもてなしに幾重にも幾重にもお礼をいい、閖上地区を後にした。



帰宅後お礼の手紙をだしたところ、名物の笹かまぼこをたくさん送ってきてくれた。

その返信の最後には、

「閖上にはいつでも私達がいるから忘れないで。ご先祖のことを探してくださいね。」

と書かれていた。


あの閖上の女将さんやおばあちゃんは逃げることができたのだろうか、

お嫁さんやその子供たちも見かけたが、皆大丈夫だったのだろうか。

瓦礫と化した閖上の写真を見て愕然とするばかりである。


避難生活

2011-03-23 09:47:26 | 東北関東大震災

Photo 全店18時閉店を知らせる張り紙


14日に横浜にきて、避難生活も9日目です。と言っても、避難というのもおこがましいようなただのホテル暮らしです。


もちろん水もお湯もでるし、全部ではないがレストランもやっている。数日前からこのホテルは計画停電から外されて電気も止まることはないという。併設されているショッピングモールには、食料品、衣類、靴屋、本屋、コンビニからユニクロ、100円ショップまで揃っていて、全く困ることはない。かえって自宅あたりより便利なくらいだ。 ただ節電のためこのショッピングモールはじめ、新横浜の駅のまわりの店すべてが18時閉店にしているのがまだ正常ではないと感じさせる。


昨日あたりはずっとなかったお米も入荷していたし、ガソリンスタンドに車が並ばずに給油していたのを見た時は驚いてしまった。大型電気店では携帯ラジオが入荷しましたとアナウンスしても誰も集まってこなかった。勿論懐中電灯も電池もたくさんおいてあった。 たった10日ほど前に慌ててあちこちで買いまわっていた自分の姿がなんだか幻のようにさえ感じられる。


ここにきて当初の混乱した気持ちから、ようやく自分自身も落ち着いてきたような気がする。


福島原発に少し収束の兆しが見えてきたからかもしれない。しかし、放射線の体内被曝の恐ろしさはじわじわとせまってきていると感じるし、その対策は考えなくてはならない。 まだしばらくここにいそうだ。

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