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川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』その11

2018-11-10 05:33:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 ウィステリアは英語塾を閉め、誰にも会わず、家の中で一日のほとんどを過ごすようになる。(中略)ウィステリアは(中略)来る日も来る日も家の中を掃除しつづけた。でもそれも、体に自由がきいているあいだのことだった。数年が過ぎると、週に一度、食料品の買い出しを頼んでいた女性には二日に一度、様子を見に来てもらわなければならなくなった。(中略)ときおり、ウィステリアの部屋にどこからか一匹の黒猫が入ってくることがあった。その大きな黒猫は彼女を気にかけることもなく、ゆっくりとした足取りで部屋を横切り、それからどこかへ消えていった。最初に猫が現れたとき、ウィステリアは自分が夢を見ているのかと思った。けれどもすぐに、どちらでもかまわないと思うようになった。巡ってくる春の数日間だけは、藤の花びらを集めるためになんとか外に出ることもできたけれど、起き上がることが億劫になり、しだいに体をうまく動かせなくなっていった。眠っているとき、起きているとき、ウィステリアの意識はまだらに色づくようになり、変形し、かつてそれらを束ねていたちからはどんどん失われ、自分が今どこで何をしている誰なのか━━世界を映しだすことのできるたったひとつの映写機のレンズに彼女はそっと布をかけ、何もない、誰もいない場所へひとり歩いていくことが多くなった。(中略)そしてまた、暗闇はウィステリアを苦しめる。あの日、外国人教師の死の知らせを受け取った日が、ほとんど無限にくりかえされる。(中略)彼女の赤ん坊。生まれてすぐに死んでしまった、彼女の小さな赤ん坊。彼女の赤ん坊が死んだのは、死んでしまったのは、わたしが彼女との赤ん坊を望んだからだ。(中略)風が吹き荒れる。まるで世界中の風がウィステリアをめがけてやってくるみたいに、強く、鋭く吹きつける。(中略)何も見えない。息ができない。暗闇の中、息を引き取る瞬間に彼女は思う。(中略)わたしは最初からここにいたのだ。こんなふうに、ずっと、ここに。
 目を開けて、ゆっくりと瞬きをくりかえした。そして何秒間かをかけて胸の中にある息をすべて吐ききると、さらに時間をかけて息を深く吸いこんだ。体は重く、手足にちからが入らなかった。こめかみが疼いて腰にははっきりとした痛みがあった。(中略)発熱する直前の特徴的な痛みだ。(中略)けれどわたしの意識は奇妙なほど冴えわたっていた。それは初めての感覚だった。(中略)ゆっくりと体を起こし絨毯に座り直して肩をさすっていると、わたしはあることに気がついた。暗闇の質が変化していたのだ。(中略)とこからか、光がやってきたのだ。
 どんなふうに家屋を出て、瓦礫が積みあがるぬかるんだ敷地を歩いて家に着いたのかわからない。(中略)大きな無数の雨粒がわたしの体を打ちつづけた。(中略)体の震えが止まらなかった。悪寒はさらにひどくなっていた。手足の関節と全身の筋肉が鳴るように痛み、震えの中でわたしは自分自身を抱えるようにひたすら肘をさすりつづけた。「こんなに遅くまでどこにいたんだよ」夫の声だった。(中略)わたしは暗闇にぼんやりと浮かびあがる夫の影を見つめていた。「答えられないの」夫が立ちあがる気配がして、影がゆっくりとこちらに近づいてくるのがわかった。影はドアのほうへゆっくりと移動し、次の瞬間、照明がつけられた。(中略)眩しさが容赦なく目を刺し、しばらくそのままの姿勢で動けなかった。「なんだよ、それ」夫の視線を追ってわたしは自分の体を見下した。雨に濡れたわたしの体には、無数の白いものがひしめいていた。(中略)それは藤の花びらだった。「何があったんだよ」夫は見たこともないものを見るような目でわたしを見ていた。(中略)「おまえ、誰なんだよ」「知らない」わたしは答えた。「もう、あなたとは関係がない」そのままリビングを出て、階段を降りて寝室に入った。(中略)まだ震えている肩をつかむように抱き、わたしはベッドのうえに仰向けになった。(中略)さっきよりもさらに強く外壁や
窓を雨粒が激しく打ちつけ、強い風にしなる木々が葉をぶつける音が聞こえてきた。やがて、そこに別の何かが混じっているのに気がついた。それはかすかな音だった。けれどもその音はわたしを求めていた。細い糸のように震えながら、途切れながらまっすぐにわたしを求めているそれは、どこか遠くにありながら、しかしすぐそばから聞こえてくる音かもしれなかった。瓦礫のすきまから、粉々に砕けたガラスの破片から、切り倒される木の裂け目から、あるいはわたし自身の中から。

4編ともに味わいの違う作品で、大いに楽しめました。

 →サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto