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川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』その8

2018-11-07 05:15:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 「お向かいのおばあちゃん、亡くなったのかな」夕食のときに、わたしは言ってみた。夫はテレビの画面に目をやったまま、しばらくしてから曖昧な返事をした。「工事してるの。毎日ものすごい音」「ああ解体工事ね」(中略)
 三歳年上の夫と結婚して、九年になる。わたしが二十九歳で、夫が三十二歳のときだ。その三年後に、この家を買った。(中略)
 家を買うと同時に、そろそろ子どもを作ってもいいんじゃないかという雰囲気になって、しばらく試してみたことがあった。しかしわたしはなかなか妊娠しなかった。(中略)それまでわたしは自分が妊娠しないかもしれないなんてことを真剣に考えたことはなかった。(中略)ネットで調べてみると、わたしたちはすでに専門のクリニックを受診してきちんと検査をし、しかるべき治療を開始する段階にいるのだということがわかった。(中略)ただひとつだけ確実だったのは、もし子どもを持ちたいのであれば一時間でも早く治療を開始すること。それには夫の理解と協力が不可欠だということだった。ある夜、近いうちにクリニックを一緒に受診してみないかと夫に持ちかけてみた。(中略)それから(中略)二週間が経ったある日の夜、(中略)夫が突然口を開いた。「まえに言ってたクリニックのことだけどさ」夫は言った。「おれはさ、自然でいいと思うんだよ」(中略)「だって本来、子どもっていうのは授かりものだろ。それに不妊治療って本当にきりがないみたいだよ。(中略)」それからわたしたちのあいだで子どもの話題が出ることはなかった。そして夫はわたしをセックスに誘わなくなった。気がつけばわたしは三十八歳になり、夫は四十一歳になった。
 工事の音が聞こえなくなったことに気がついたのは、三月の最後の週だった。(中略)ここから見る限り、解体作業は全体の三分の一ほど進んでいるという印象だった。(中略)
 ふと気配がして目を上げると、女が立っているのが見えた。(中略)「雨、降らないですね」女が言った。「ええ」わたしは返事をした。それから彼女はゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。(中略)「ここを見てるんですか?」女がわたしに訊ねた。「ええ」「わたしも、解体工事が始まってからときどきこうして見るんです。(中略)」「あんまり気にならないですね」少ししてから、わたしは答えた。「へえ、わたしだったら気になってしょうがないかも。ほら、物が壊されるときって独特の音がするじゃないですか」「独特の音?」「ええ」(中略)「(前略)壊されるときにしか聴こえない音の成分みたいなのがあるんです」(中略)「それが壊す側のものなのか、壊されるほうのものなのかはわからないけど。とにかくそこにはつもりのようなものがあって、それが聴こえるわけです。ただ壊れていくことと、壊されるということは、別のことなんです。今度、注意して聴いてみてください。きっとわかりますから」曖昧に肯いてみせたけれど、当然のことながらわたしには女が何を言っているのかよくわからないままだった。(中略)「じつは、昼間にこの家にくるのは初めてなんです」しばらくして女が言った。「昼間?」「はい。このまえ来たのは夜でした。真夜中です。一時とか二時とか」(中略)「じつはわたし、ときどき空き家に入るんですよ」(中略)「ブレーカーは落ちてますし、真っ暗なままです。それで、真っ暗なリビングで、ワンルームならその部屋の真ん中で、じっと座ってみるんです。それから仰向けになって、ゆっくりと瞬きをしてみるんです。するとだんだん目が慣れてきて、いろいろなものが見てるようになります。家には窓があります。どんな夜にも光はあるし、どんな小さな窓からでも、その光は入ってきます」(中略)「不動産のサイトで賃貸物件のページを見るんですよ」(中略)「鍵はたいてい郵便受けの上面か、玄関の横の配管や計測器があるところの側面に磁石でくっつけられています。(中略)でも三軒に一軒は、だいたいうまくいきますよ」(中略)「ここにも入ったんですか」「いいえ。間に合わなかったんです。家屋つきの土地が売りに出たと知って、わりとすぐに来てみたんですが、すでに解体工事は始まっていました。こんなに大きな空き家に出くわすのってあまりないことだし、楽しみにしていたんですけれどね」(中略)
 「今週末、接待だよ」(中略)泊りがけの出張だ」。(中略)
 土曜日の早朝、ゴルフセットを車に積んだ夫が出て行くと、わたしはいつものように家事を済ませ、夜になるのを待った。(中略)そして午前一時になったことを確認して、家を出た。かつて庭だった場所には、小さな水たまりがいくつか残っていた。(中略)わたしは少しずつ前進した。(中略)
(また明日へ続きます……)

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