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川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』その4

2018-11-03 06:28:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 それから老婆とわたしは何となく一緒にドルチェ&ガッバーナを出て、同じフロアにある店をひとつずつ覗いて、どうでもいい話をした。(中略)それは素敵ねえ、と言いながら老婆はミュウミュウに入って店員と雑談をし、わたしもそれに合わせて笑った。そしてどこにつけていくのか見当もつかないティアラを買って、リボンのついたバレエシューズを買って、それからラルフ・ローレンに入ってドレスを試着し、フリルのワンピースを買った。(中略)バッグ売り場にはフェンディの新作が並べられていて、老婆はファーのチャームを手に取った。「これ、可愛らしいと思わない?」「カールさまですよね。可愛い」「こちらプレゼントするわ」わたしはぜんぜん驚きもしなかったけれど、口に手をあてて首を振った。「とんでもありません」「いえいえ、こんなことってなかなかないし。今日の記念に、ね」(中略)老婆のフェンディの靴のヒールは当然のことながら傷ひとつなく、なんだったら地面から数ミリ浮いているんじゃないかとさえ思うほどに浮世離れしてみえた。
 「楽しかったわ。素敵なお母さまによろしくね」わたしは一歩足を前に出して、タクシーの後部座席に座った老婆に顔を近づけて、そしてにっこり笑ってこう言った。「よろしくってなんですか?」老婆は一瞬わけがわからないというような顔をしてわたしの目を見た。「だから、よろしくってなんなんですか? 何をよろしく言うんですか?」老婆はきょとんとした顔をして、何度か瞬きをくりかえした。「死にぞこないの、くそばばあ」わたしは言葉を覚え始めたばかりの子どもに新しい単語でも教えるみたいに、一言一言をはっきり区切って、そして満面の笑みで老婆の目をしっかりと見つめたまま、そう言った。出してくださいと運転手に小さく声をかけると、バタンと大きな音を立ててドアが閉まり、老婆を乗せたタクシーはそのまま走り去っていった。
 そのつぎにやってきたタクシーにわたしは乗り、後部座席でしばらく泣いた。でもそれは泣くというよりもいつものようにただ涙が目から出てくるだけのことで、暑ければ汗が出るのとおなじだし、寒ければ鳥肌がたつのとおなじで、こんなのはなんの意味もない、ただの身体の機能だった。(中略)運転者は女で、(中略)それもかなり若い女の子で、十代だと言われても不思議じゃないようなあどけない顔つきをしていた。(中略)「あの、よかったら使ってください」わたしは少し迷ったけれど手を伸ばしてハンカチを受けとって、それを目にあてた。(中略)会計を済ませて出るときに、わたしは財布と電話と取りだしてバッグを空っぽにした。腕時計を外してそのなかに入れ、さっき買ったハンドクリームとアイシャドウと美容液を小さな紙袋のままなかに入れ、それから老婆のプレゼントもそこに入れた。そして腕を伸ばしてバッグを助手席に置いた。「ハンカチ返せないからこれ、代わりに」えっ、と声を出して驚いてあっけにとられている女の子に小さく手を振ってタクシーを降りた。買い物袋を抱えたままいつも立ち寄る公園の、いつものベンチに座って、しばらく夕焼けを眺めていた。べつに何を見ているわけでもないけれど、おなじ場所で、おなじところをこうして辛抱強く見つめていれば、向こうから懐かしい誰かが、そのままの姿で、わたしがよく知っている姿でやってくるんじゃないかという気がして、そう思ってしまったときからわたしはもう目をそらせない。(中略)それでも何かを思いだせそうな夕焼けの最後のきれはしが、かすかに降りかかっていた。

『マリーの愛の証明』
 死ね、という言葉を人にむかって決して言ってはならないという教育のおかげで、マリーはこれまで一度も人にむかってそう言ったことはなかったし、また、内心でもそんなふうに思ったことはなかった。(中略)けれども、死ね、なんて言葉は当然のことながら、マリーのまわりでは誰でもが笑いながら普通に使っていた。(中略)死ねと言われてそのとおりに死ぬ人間なんてほとんどいない代わりに、死ねなんて言われなくても死んでしまう人間のほうがうんと多い。(中略)けれど、誰かがふざけてその言葉を口にするのを見聞きするたびに、マリーの体は硬くなった。どこかから父親が(中略)飛んでくるんじゃないかとマリーはいちいち真剣に身がまえた。けれどもちろん、音楽室や共同リビングや、通信室や、くすの木の生えた中庭に父親は現れなかった。そう、ここはもう家ではない。ミア寮なのだ。(中略)
 ある日、マリーは思いがけず湖のほとりに出た。(中略)それにしても、この水はどこからやってきたのだろう? どうしてこんなふうに、溢れもせず涸れもせず、ちょうどいい水位を保っていられるのだろう?(中略)マリーはそんなことを考える。(また明日へ続きます……)

 →サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto