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三崎亜記『ミサキア記のタダシガ記』

2013-11-04 10:11:00 | ノンジャンル
 昨日と一昨日の土日、自宅の近くの東京工芸大学の大学祭にジャズ研究会の演奏を聞きに行ってきました。昨年も驚きましたが、今年2年になる芸術学部の岩田くんのピアノがプロ顔負けのすごさでした。

 さて、三崎亜記さんの'13年作品『ミサキア記のタダシガ記』を読みました。三崎さんのエッセイに、そのエッセイのお題に即したマンガをべつやくれいさんが書いてできた本です。
 各エッセイでは、三崎さんが「ちょっと気になること」を書いていて、例えば、ホームレス生活を覚悟していた人が幸い住み込みアパートつきの飲食店に雇われることに決まった時、その人がまず買ったものが便座カバーだったこと、ひと昔には一切使われていなかった「携帯」とか「検索」とかいう言葉が使われる世の中なので、次に使われるようになるのは「蹲踞」(そんきょ)なんじゃないかと考えたこと、自分の小説はよく、「ありえない」設定と言われるが、ちょっと立ち止まって考えると、私たちが暮らしているこの日常生活の方がよっぽど「ありえない」設定に満ち溢れていて、その最たる物が「花粉症」であること、最近蜂が激減していて受粉を蜂に頼っている農作物に深刻な影響が出始めていること、「クールビズ需要で、衣料業界が活気付く」というニュースは、「クールビズで活気付いた衣料工場が普段より余計に操業してCO2を排出する」ということに誰も矛盾を思わないようであること、街灯の明かりのせいなのか、公園の街路樹では、夜になっても蝉が賑やかに鳴いているが、誰もそのことに苦情は言わず「騒音」とは認識されていないようなので、静かすぎて危険なハイブリッドカーに付ける騒音発生装置を蝉の声にすればいいんじゃないかという考え、我々は「放題!」に惹かれ、幻想を抱いてしまうものだが、実際の「放題」の場面では、その意味する自由性よりも、それに伴う制約の方が、却って我々を縛りがちなこと、最近テレビで映像にやたらにモザイクが入っているようになってるんじゃないかということ、慢性的な水不足に悩む某市では、市民への節水の呼びかけが功を奏し、水道使用量を大幅に減らすことができたのですが、当然の帰結として水道収入が激減し、水道料金を値上げせざるを得なくなったという、ということで、「もったいない」ということも収入不足に陥らない程度の需要の確保が必要とされていること、「国際流行色委員会」という組織が「2年先に流行(はや)る色」を決定し、それに従ってデザイナーはその色の服を作るということ、子供を花粉症にしないためには「手を洗う回数を減らす」「早くから保育園等に預け、細菌感染の機会を増やす」「犬や猫を家の中で飼育する」など、マスクや空気清浄機で花粉を「遠ざける」のではなく、花粉が体内に入ってもアレルギー反応が起きないように免疫力を高める方法があるということ、「誰もが好きな○○」や「日本中が感動した○○」という言質で、少数派を故意にしろ無意識にしろ切り捨てる「みんな」という視点は「どうかなあ」ということ、「若者の○○離れ」と言う時、その現象自体を一方的な若者への責任転嫁にしていないか、また個々の事情を捨象して単純化させて語ろうとしていないか、ということが問題であり、この不況の世の中で「明るい未来の若者離れ」こそ議論するべきなのではないか、ということ、賃金を払わずに仕事をさせることを「サービス残業」などと表現することこそに、この国における「サービス」のゆがみが象徴されているじゃないか、はっきりと「奴隷残業」と呼ぶべきだということ、努力してこその「オンリーワン」であること、自分がインタビューを受けると、そうは言ってないのに一人称が6割方「僕」になっていること、「最高!」という言葉が作られ、演出された言質である今、敢えて「普通」と言われた方が信頼できること、震災前と震災後では、我々の生きていく上での価値観そのものが、否応なく揺らいだこと(しかし、この揺らぎは震災から2年を経た今、一体どこへ行ってしまったんでしょう?)、などなど。
 49編の短編エッセイと、数行の日記からなる「ミサキア記のツブヤ記」と居酒屋選手権の体験記である「ミサキア記のケンブツ記」からなっている本です。宮田珠己さんが「三崎さんはギャグとして小説を書いている」というのは、まさにその通りであったことが分かり、三崎さんのエッセイでの突っ込み所も当を得たものばかりで楽しく読めました。三崎さんの意外な一面を知りたい方にもオススメです。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto