うれし涙を見るために・・・芽育学院

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仕切りのプチ哲学

2021-02-13 00:20:00 | 講師から
どうも、八木校のとうねです。

わたしは、はっきりいって勉強が苦手です。でも、考えるのは好きです。得意ではありませんが。世間では、勉強と考えることは無条件に同じとされている場合がありますが、全く異なると思います。

むしろ、勉強と考えることは時として対立します。勉強は、偉い人が生み出した知識を吸収することですね。一方考えることは、偉い人の知識やあらゆることに、疑いをもつことです。
でも、お互いに絡み合っていることは間違いないのです。今日は、勉強よりも、考えたことを書かせてもらおうと思います。


コロナが蔓延する中で、飲食店に置かれているアクリルの仕切りが目に付くようになりましたね。取るにたらない変化ともいえますが、あるきっかけで、仕切りとは何かを考えるようになりました。

大学の食堂でひとり、偉そうにすわっていたときのことです。突然、私の目の前に女性が座ったのです。つまり、私と同じ机の真向かいの席です。「ん?知り合いかな」と思ってさりげなく見るも、見知らぬ人でした。

なぜ知らない人が正面に座るのだろう。私は結構、驚いたのです。しかし考えてみれば、見知らぬ彼女はアクリルの間仕切りがあるため、気にせず私の正面に座ったわけです。

このような現象は、コロナが蔓延する以前、すなわち仕切りがなかったころには、ほとんどありえなかったはずです。間仕切りの存在は、私たちの社会感覚に若干の影響を与えているのではと考えさせられたのです。

仕切りは透明であって、人々が対面で会話する前提で作られています。しかし、我々の意識の中では、遮断されている感覚を覚えるのです。逆に、見知らぬ人が正面にいて接近していても、仕切りがあるから別にかまわないかとも思わされるのです。すなわち仕切りは、人間同士の心理的な距離を遠ざけると同時に、物理的な距離を近づける役割を果たす、といえるでしょう。

世界は物理的に有限です。ひとりひとりが広大な土地を所有することはできません。また、人間は一人では弱いです。そのため、集住しなければならないのです。しかし、プライベートな領域がなければ、人間の自由は確保できません。人間は、豊かな可能性にあふれていますが、矛盾の中にいるのですね。人間であることの矛盾の結晶が、仕切りではないでしょうか。

煎じ詰めて考えてみると、我々人間はあらゆるところに仕切りを置きたがるのです。例えば家や建物も、一種の仕切りといえましょう。なんの仕切りのない世界に、己の空間とそれ以外の世界を仕切るものが、家や建物といえそうです。実はこの仕切りによって、外から家を眺めれば、外から眺める者は家のなかに居る人とは心理的に離れていると感じます。しかし、家の中に入れてもらえれば、特別の親近感を覚えるはずです。また、家の隣に別の建物を建てたところで、物理的に仕切られているわけですから、問題ないわけです。

衣服も、同様に仕切りの役割を果たしているのではないでしょうか。衣服を着ないでもいいという関係は、親密さを意味するでしょう。逆に衣服を着た関係は、心理的に距離を置きながらも、仮に不快な相手でも、服を着ているなら近づいてもある程度良い、となるはずです。不快な人間の裸など、見たくはないでしょう。いずれにせよ、仕切りによる心理的な疎遠と物理的な接近は、人間の社会生活を円滑にする役割を果たしているのではないでしょうか。

人間は、ありとあらゆるところに仕切りを置きます。こうした仕切りの豊かさが、社会のなかでの人間の自由を確保しているのです。そして、仕切りによって確保された個々の人間の空間=世界が、全体としての世界の豊かさに直結するのです。仕切りの歴史は、人間の自由の歴史と分かちがたく結びついているのではないでしょうか。また、自由は単に肯定的に扱われるだけではありません。自由は孤独であることとも関わり、場合によって差別や排除とも結びつきます。

従って、仕切りは、人間の自由と抑圧が刻まれているのです。また、仕切りは沈黙していません。わたしたちの生命の結晶であり、わたしたちがいかにいきるべきかを、問いかけているのです。









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