まだ「青柳」には少し時期が早いですが、枝垂れ柳の芽が伸びてきていました。春風が春の女神の髪に譬えられる青柳の糸をくしけずる風情は、春の水辺の楽しみの一つです。「水辺」と言いましたが、柳は湿気のある土地でも根腐れしないで繁茂するため、堤防や湖畔によく植えられたものです。「水に強い柳」から思い起こされるのは、何と言っても「銀座の柳」でしょう。銀座は今でこそ地価日本一の繁華街ですが、江戸時代には「江戸前島」と呼ばれた低湿地で、もともと地下水位の高いところです。そこに銀貨の鋳造所である銀座がおかれたことからそう呼ばれるようになったことは、承知のことと思います。
この銀座は明治維新早々の1869年(明治2)と1872年(明治5)に大火に見舞われました。特に二度目の火事は「銀座大火」と呼ばれ、和田倉門内旧会津藩邸から出火し、丸の内・銀座・築地一帯が焼失しました。この時、東京府知事由利公正の進言により、政府は銀座を西洋風の耐火建築よる近代的都市に改造するために、消失地域の新築を控えるように布告。一帯を買い上げて、イギリス人の建築家トーマス.J.ウォートルスの指導により、早速街づくりが始まったのです。その際に街路樹として桜・松・楓が植えられたのですが、もともと湿気のある土地であったため、せっかく植えた松や桜が枯れてしまいました。そこで1884年(明治17)頃には、銀座の街路樹は水を好む柳に替えられてしまいました。ところがその柳も関東大震災で壊滅し、新たにプラタナスに替えられていました。「東京行進曲」(作詞:西条八十、作曲:中山晋平)に「昔恋しい銀座の柳」と歌われているのは、この関東大震災前の柳が懐かしいという意味です。これは昭和4年の歌ですから、懐かしい記憶を持っている人はたくさんいたわけです。そしてそのプラタナスも空襲で焼けてしまうと、さらに昔の柳が恋しくなり、現在、銀座の象徴であった柳を復活させる運動が始まっていて、毎年5月5日に銀座柳祭が行われています。
湖畔の柳を見ながら、ふとこんな事を思ったわけです。
この銀座は明治維新早々の1869年(明治2)と1872年(明治5)に大火に見舞われました。特に二度目の火事は「銀座大火」と呼ばれ、和田倉門内旧会津藩邸から出火し、丸の内・銀座・築地一帯が焼失しました。この時、東京府知事由利公正の進言により、政府は銀座を西洋風の耐火建築よる近代的都市に改造するために、消失地域の新築を控えるように布告。一帯を買い上げて、イギリス人の建築家トーマス.J.ウォートルスの指導により、早速街づくりが始まったのです。その際に街路樹として桜・松・楓が植えられたのですが、もともと湿気のある土地であったため、せっかく植えた松や桜が枯れてしまいました。そこで1884年(明治17)頃には、銀座の街路樹は水を好む柳に替えられてしまいました。ところがその柳も関東大震災で壊滅し、新たにプラタナスに替えられていました。「東京行進曲」(作詞:西条八十、作曲:中山晋平)に「昔恋しい銀座の柳」と歌われているのは、この関東大震災前の柳が懐かしいという意味です。これは昭和4年の歌ですから、懐かしい記憶を持っている人はたくさんいたわけです。そしてそのプラタナスも空襲で焼けてしまうと、さらに昔の柳が恋しくなり、現在、銀座の象徴であった柳を復活させる運動が始まっていて、毎年5月5日に銀座柳祭が行われています。
湖畔の柳を見ながら、ふとこんな事を思ったわけです。