うたことば歳時記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

卒業生に贈る言葉(高校で学ぶ目的)

2016-02-03 10:15:42 | 学校
 今日が授業で皆さんに接する最後になりますので、何か記念になる激励の言葉を贈りたいので、少しお話しをしましょう。皆さんは3年から4年間、この学校で学んできたわけですが、夜の授業によくまあ通ったなあと、本当に感心します。私などは雨が降っても寒くても、車で来られますから通うことはそれ程苦にしないのですが、雪の夜に自転車や徒歩でここまで来るのは、さぞかし大変だったことでしょう。成績以前の問題として、通ったということ自体が、立派なことと思います。
 そこでまず私がお話ししたいのは、皆さんは高校で何を学んだのかということです。それは何のために高校で学ぶのか、何を高校で学ぶのかという、本質的なことに関わることです。私はよく「何のために高校に入ったの?」と尋ねました。皆さんの答えは、だいたい同じようなもので、「高校卒業の資格のため」「高校くらい卒業しておかないと」「将来の夢を実現するために必要だから」などと答えたものでした。もちろんそれでよいのですが、私はもっともっと大切なことを学んだと思っています。それは、社会人として生きてゆくために必要な力を、まだ少しだけですが身に付けたことと思います。ピンと来ないかもしれませんが、まずはお聞き下さい。
 中学校までは義務教育ですから、否応なしに中学校は卒業しなければなりません。その後、就職をして、未成年でありながらも社会人として生きる道を選択することもできます。確かに私が中学校を卒業した頃には、そのような道を選択した人も少なくはありませんでした。しかしその後、社会情勢が高度化することによって、社会人として生きてゆくためには、高校を卒業する方がよいという考えが一般的になってきました。そういう風潮に乗って、皆さんも高校に入学したのだと思います。
 現在では多くの場合、20歳前後から社会人と見なされます。まあ選挙権は18歳まで引き下げられましたが。社会人と呼ばれるためには、社会で自立できる力が要求されます。もちろんある事情があって、自立したくとも出来ない人もいるでしょうから、あくまでも一般論としての話です。経済的に、体力的にも、精神的に、常識的に社会人として要求されるレベルというものがあります。しかし中学校を卒業して、そのレベルにまで達している人はほとんどいません。いきなり「社会」に放り出されては、生きてゆくことが困難です。そこで、高校で数年間学ぶことによって、「社会」で生きてゆける力を身に付ける必要があるのです。
 運転免許に譬えるとわかりやすいでしょう。高校は言わば「社会人免許」の教習所というわけです。交通法規・自動車の基本的構造・運転操作の基本を学習し、卒業検定に合格して、ようやく運転免許証が交付されます。どれ一つを欠いても、免許証はもらえません。高校も同じことです。数年間、高校で生活することによって、知識・技術・体力・一般常識・社会性・協調性などを総合的に身に着けることができ、社会で生きてゆく基礎が形作られるのです。
 知識や技術や体力を身に付けることは、多くの場合は日常の授業や部活動によります。しかし「社会で必要な知識と言うなら、何であんなに難しいこと、役に立ちそうもないことを勉強しなくてもいいのに」と思ったことでしょう。私は日本史の先生ですから日本史の例をあげますが、律令制で成人男子がどのくらいの水田を支給されたかなどということを、社会では知っておく必要はありません。特殊な専門知識を必要とする職業に就く人にはともかくとして、知らないからと言って、実生活には何の不自由もありません。
 それならなぜ役にも立ちそうもないことを学んだのでしょうか。私自身を例にすれば、高校時代には理系科目は苦手でした。当時学んだことは、ほとんど覚えていません。しかしよい成績をとろうと思って、というより赤点を取らないようにという方が正確ですが、テスト前は必死で頑張りました。結果的には高校を卒業してから直接に役立った数学や物理の知識はほとんどありませんでしたが、その時、考査という目の前の課題を乗り越えるために、一生懸命に頑張ったという経験をしました。この「課題と取り組む」という経験自体が将来役に立つのです。
 世の中に「課題」を与えられない仕事というものはありません。いついつまでに、これだけの内容をやり遂げなければならない。あすまでにこれを全部売り切らないといけない。今日中にこの書類を完成しなければならない。今年中にこの建築を完成させなければならない。仕事というものは、期限と内容を課題として与えられ、それをやり遂げることによって正当な報酬を得ることができるのです。その仕事は得意なことばかりとは限りません。むしろ苦痛や困難を伴うことの方が多いものです。そのような仕事と取り組むとき、困難な課題と取り組んで、それを乗り越えるという経験をたくさんしている人は、そのような経験を繰り返しているうちに、課題を乗り越える心の筋力が着いてくるのです。筋肉というものは、負荷を掛けるトレーニングの積み重ねでしか成長しないのです。高校で学ぶ知識が直接に役に立つ科目もあったでしょうが、しかし直接に役に立ちそうもない場合でも、与えられた課題と取り組んだことによって、あなたの心の筋肉は、徐々に成長して来たのです。長い目で見れば、役に立たない授業や部活動はありません。
 また文化祭や体育祭や修学旅行などのような、授業以外の活動はどうなのでしょうか。楽しい思い出作りになるという点で、大いに存在意義はあったでしょう。しかし私はもっと大きな意義を感じています。社会というものは、共通の目的を持った人が複数集まって共同体を形成し、その目的達成のために協力し合う性格を持っています。企業ならば、去年より売り上げを伸ばそうとか、自治会ならば、定例のごみ掃除はどうするかとか、家族ならば、楽しいピクニックをしようとか、それぞれに目的や目標を持って行動します。その際、その構成メンバーは、各自の立場・役割・能力に応じ、目標達成のために協力し合います。もし自分勝手な行動をすれば、良い人間関係を作れず、ぎくしゃくすることになります。
 例えば文化祭でクラスで何かイベントを企画したとしましょう。事前準備や当日の役割分担、また後片付けなど、協力しないで出来ることは何一つありません。もちろん本人達にとっては、楽しい思い出作りの一場面として終わることでしょう。しかしそれでよいのです。本人の自覚はなくとも、確実にこれらのことをやり遂げるという経験を通して、社会的協調性・責任感・計画性などが、知らず知らずのうちに身に付いたのです。
 また学校には規則というものがあります。生徒にとってはあまり嬉しくない内容もありますが、それを守らなければ、厳しく指導されたことでしょう。まあこの学校は他所の学校よりは校則が緩やかでしたがね。中にはなぜこれ程に厳しいのか、納得できないと思ったこともあったでしょう。自分は悪くないのに、なぜ他人のせいで僕が怒られなければならないのか、納得できなかった経験もあるでしょう。しかしこれとても、社会人になるためには必要なことなのです。世の中にある組織で、独自の規則を持っていない組織はありません。制服着用や勤務時間も規則の一つです。組織を維持し、効率的に組織を運用するために、それぞれ独自の規則が定められています。たとえ個人的に納得出来ない規則であっても、その組織に属している以上は、それに従うことが要求されるのです。何でもかんでも逆らわず、従順になれというつもりはありません。時には敢えて異議をとなえることもよいでしょう。しかし単なるわがままで従わないということは、絶対に許されないのです。ですからたとえ個人的には納得できない校則であっても、それを尊重するということは、社会人となってから理不尽なことにぶつかったときに、それを耐えて乗り越える心の力を養う訓練になっているのです。先生に厳しく叱られることすら無駄ではありません。誤解のないように付け加えますが、もちろん納得できないことがあれば、正当な方法で異議を申し立てることは許されるでしょうし、そのような勇気は大いに評価されるべきであります。
 日常的なことでも、学ぶことはたくさんありました。正しい言葉遣いも社会人として欠くことができません。職員室に入るときの態度、ごみの分別、欠席連絡の方法、履歴書の書き方等々、探せばいくらでもあるでしょう。学校で経験するあらゆることが、社会人として生きてゆくのに必要な訓練になっていたのです。
 さあ如何ですか。高校の目的は、高校卒業資格を取得するためや何となくという程度のことでなかったことが、少しはわかったことと思います。直接には役立たないと思われる科目の授業も、学校行事も、部活動も、みなあなたを鍛えるまたとない機会になっていたのです。
 しかし一つ付け加えるならば、これで社会人の免許皆伝というわけではありません。あくまでも社会人のスタートラインに立つだけのこと。思い上がってはなりません。社会の荒波にもまれて、次から次に問題と直面することでしょう。しかしその時、高校で鍛えられた体力・知力・精神力が、きっとあなたを助けることになると思います。