うたことば歳時記

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揚げ雲雀

2016-02-22 14:18:01 | うたことば歳時記
先日、鶯の初音を聞きましたので、そろそろ雲雀の声も聞かれることでしょう。我が家の周囲にもたくさんいて、いつもその鳴き声を楽しんでいます。旅行に行くお金も、美味しい物を食べる余裕は全くありませんが、私にとっては雲雀の声を聞きながら蓬を摘み、草餅を作り、誰かに差し上げて共に春を味わう方が、余程に楽しいことです。
 空に舞い上がり滞空しながら鳴いているヒバリを揚げ雲雀と言います。どれくらい高く上がるものか、大きな分度器を二つ作り、二人で同時に角度と二人の距離を測定して、計算したことがあります。まあ大雑把なことですが、100mくらいはあったように記憶しています。滞空時間は短くて3分、長くて8分くらい。平均すると数分でした。学校から家まで片道20数㎞の土手の道を、自転車で通っていた頃、土手に寝転がって観察したものです。立ったまま見ていると首が疲れて、すぐに見失ってしまいますから、寝転がって見るに限ります。
 空に雲雀が上るのは雄が縄張りを宣言しているためで、繁殖期にしか見られない生態です。数分間しきりに鳴いたあと、鳴き止んだかと思うと、急降下してしまいます。これを和歌では「雲雀落つ」と言います。下りた場所を見計らって、巣のありかを探そうとしたのですが、なかなか見つかりません。それもそのはず、わざわざ巣から離れたところに着陸して、卵や雛を狙う外敵に巣のありかをさとられないようにしているそうです。
 雲雀を詠んだ古歌といえば、誰もがこの歌を思い起こすことでしょう。
  ①うらうらに照れる春日に雲雀上がり心悲しも独りし思へば  (万葉集 4292)
のどかな春の日ざしの中を雲雀は無心に空に舞い上がっているが、私は独り哀しく物思いすることだ、という意味です。ここには「上がる雲雀と下がる私の心」という対比が意図して詠まれているのですが、このような詠み方は、その後の雲雀の歌にも受け継がれてゆきます。人口に膾炙するということでは、次の②の歌がよく知られています。
 ②汝や知る都は野辺の夕雲雀上がるを見ても落つる涙は   (応仁記)
この歌は、応仁の乱によって一面の焼け野原となった京の都の荒廃を嘆いて詠まれた歌なのですが、上がる夕雲雀に落ちる涙という対比が効果的に詠まれていますね。授業では飯尾彦六左衞門尉という管領細川氏の家臣が詠んだと教えるのですが、雲雀の歌の常套的詠み方をしっかりと踏まえているので、余程に古典的な教養のある人物だと感心していたのですが、よくよく調べてみると、将軍足利義政の右筆を勤めたこともあるとか。それでようやく納得しました。

 試しに近世の俳句の中にそのような詠み方が残っているか斜め読みしたところ、次の句が見つかりました。
  ○あがりては下を見て鳴く雲雀かな   加賀千代女
  ○草麦や雲雀があがるあれ下がる    上島鬼貫
どうも意図して和歌の常套的な詠み方にならったものではなさそうですが、やはり雲雀を見ると、上がったり下がったりということに関心が向くようですね。雲雀が囀りながら上がってゆく姿は多くの人が見ていると思いますが、数分で必ず落ちるように下りてきますから、まだ見たことがない方は、じっと我慢して探してみて下さい。                平成28年2月22日

鶯の初音

2016-02-20 19:12:41 | うたことば歳時記
 今日2月20日、散歩道の途中で鶯の初音を聞きました。毎年2月下旬に聞いていますから、いつもどうりです。でも少しぎこちないような鳴き方でしたね。その年最初に聞く鳥の鳴き声は「初音」とか「初声」と言われますが、それを期待される鳥は、古歌の世界では春の鶯と夏の郭公(古歌では「郭公」と書いて、カッコウではなくホトトギスと読みます)で、わずかに秋の雁が見られます。季節性があるからこそ初音が期待されるわけですから、一年中声を聞くことのできる鳥には、初音も何もありませんね。それなら雲雀や百舌鳥の初音もあってよさそうなのですが、これまで見たことがありません。鳥ではありませんが、松虫の初音ならばありますが。
 私の手許にある古歌のデータの中から、鶯の初音の歌をいくつか探してみました。
  ①松の上に鳴く鶯の声をこそ初ねの日とは言ふべかりけれ      (拾遺集 春 22)
    正月二日逢坂にて鶯の声を聞きてよみ侍りける   
  ②ふるさとへゆく人あらば言つてむ今日うぐひすの初音聞きつと   (後拾遺 春 20)
    初めてうぐひすの声を聞きてよめる
  ③たまさかにわが待ちえたる鶯の初音をあやな人や聞くらむ     (詞花集 春 4)
  ④いつしかと異里人に言問はん初鶯の声は聞くやと         (堀河院百首 51)
  

 ①には長い詞書きがあるのですが、それによれば、小松引きの行われる初子(はつね)の日に、醍醐天皇の前で、五葉の松の枝に鶯が初めて鳴いたことを詠んだものです。小松引きとは王朝時代に行われた習俗で、その年最初の子(ね)の日に、野に出て芽生えて間もない松の苗を根ごと引き抜き、持ち帰って植えたりする早春の野遊びの一種で、「小松引き」とか「子の日の遊び」「初子」と呼ばれました。その松が大きく育つことは長寿を意味しますから、長寿を願う呪術的な意味もあったわけです。ですから①の意味は、初子の日に初音を聞いた面白さを詠んでいるわけです。ギャグのようなものですから、優れた歌というわけではないのですが、古人にとっては、「初音」と聞くと「初子」を連想するものであったことは確認しておきましょう。
 ②はわかりやすい歌ですね。古歌で「ふるさと」とは、現代人の理解している生まれ故郷ではなく、以前に住んでいた所を意味しています。ですからこの場合のふるさとは、おそらく都ということでしょう。逢坂とは山科から大津に抜ける途中の関所のある山で、これより東が東国ということになります。東国の入り口と言ってもよいでしょう。東に旅立つ人が有れば、近親縁者はこの逢坂まで見送りに来ました。ですから別れの場所でもあったのです。そういうわけで、古来、逢坂で詠まれた歌は枚挙に暇がありません。都の方に行く人に言づてしたいのですから、②の歌人はこれから東国へ旅に出るのでしょう。そうまでしても鶯の初音を聞いたことは喜びであったのでしょうが、無事に関を越えて、いよいよ遠くに行きますよ、お元気で、という心も合わせて伝えて欲しいという心を読み取ることができます。
 ③は、待ちに待ってようやく聞けた鶯の初音を、筋が通らないことに、他の人も聞いているのだろうか、という意味です。要するに、鶯の初音を独占したいわけですね。何と御器量の狭いと思わなくもないですが、善意に解釈すれば、それだけ待ち焦がれていたことの裏返しなのでしょう。
 ④は、ほかの里の人に早く聞いてみよう。私と同じように、初鶯の声をお聞きになりましたかと、という意味。「いつしか」はこの場合は「早く」という意味です。表面的には聞いてみたいと言っているのですが、本心はまだあなたは聞いていないでしょうと、先に聞いたことを自慢したいわけですね。このように如何にして他人より早く聞くかということに心を砕いたわけです。このような歌は郭公の歌には顕著に見られます。それは郭公は夜にも鳴くため、徹夜して声を待つことができるからです。床に横になったまま待てばよいのですから。しかし鶯は昼間しか鳴きませんから、いつ鳴くかと日長一日ぼーっとしているわけにはいかなかったのでしょう。とにかく初子の日聞くことは、人に羨ましがられることであり、自慢できることであったのです。
 私の家の近所では、これから8月の上旬まで、鶯の声を聞くことができます。都会の人にとっては羨ましいでしょうか。不便な田舎ですが、ちょっぴり自慢させて下さいな。

昔恋しい銀座の柳

2016-02-19 09:57:06 | 唱歌
まだ「青柳」には少し時期が早いですが、枝垂れ柳の芽が伸びてきていました。春風が春の女神の髪に譬えられる青柳の糸をくしけずる風情は、春の水辺の楽しみの一つです。「水辺」と言いましたが、柳は湿気のある土地でも根腐れしないで繁茂するため、堤防や湖畔によく植えられたものです。「水に強い柳」から思い起こされるのは、何と言っても「銀座の柳」でしょう。銀座は今でこそ地価日本一の繁華街ですが、江戸時代には「江戸前島」と呼ばれた低湿地で、もともと地下水位の高いところです。そこに銀貨の鋳造所である銀座がおかれたことからそう呼ばれるようになったことは、承知のことと思います。
 この銀座は明治維新早々の1869年(明治2)と1872年(明治5)に大火に見舞われました。特に二度目の火事は「銀座大火」と呼ばれ、和田倉門内旧会津藩邸から出火し、丸の内・銀座・築地一帯が焼失しました。この時、東京府知事由利公正の進言により、政府は銀座を西洋風の耐火建築よる近代的都市に改造するために、消失地域の新築を控えるように布告。一帯を買い上げて、イギリス人の建築家トーマス.J.ウォートルスの指導により、早速街づくりが始まったのです。その際に街路樹として桜・松・楓が植えられたのですが、もともと湿気のある土地であったため、せっかく植えた松や桜が枯れてしまいました。そこで1884年(明治17)頃には、銀座の街路樹は水を好む柳に替えられてしまいました。ところがその柳も関東大震災で壊滅し、新たにプラタナスに替えられていました。「東京行進曲」(作詞:西条八十、作曲:中山晋平)に「昔恋しい銀座の柳」と歌われているのは、この関東大震災前の柳が懐かしいという意味です。これは昭和4年の歌ですから、懐かしい記憶を持っている人はたくさんいたわけです。そしてそのプラタナスも空襲で焼けてしまうと、さらに昔の柳が恋しくなり、現在、銀座の象徴であった柳を復活させる運動が始まっていて、毎年5月5日に銀座柳祭が行われています。
 湖畔の柳を見ながら、ふとこんな事を思ったわけです。

日本史上最強の内閣

2016-02-17 08:31:18 | 学校
 一年間日本史を学習したあとの最後の考査には、よく「日本史上の人物のなかから史上最強の内閣に相応しい人物を選びか、歴史事実に基づいて、大臣就任の挨拶を述べさせなさい」という問題を出したものです。ただし実際にその職にあった人物は除かせます。伊藤博文を首相に選んだのでは、せっかくのユーモアがなくなってしまうからです。半分は遊びのようなものなのですが、適当に応えたのでは点はもらえません。生徒の学力にもよりますが、とにかく傑作な答えが多いので、考査終了後に私が独自にベストテンを発表すると、これが大人気でした。答案を保存しているわけではないのですが、記憶に残っているものをいくつか上げてみましょう。

 卑弥呼首相「何ごとも神の思し召しによりますが、議会には出席するつもりはありません。弟を官房長官に任命し何ごとも指示をしておきますから、細かいことは弟の言うとおりになさい」。これは卑弥呼の姿を見るものはなく、弟が居所に出入りしていたことや、「鬼道」と言われる呪術によってまつりごとを行っていたという魏志倭人伝の記録に拠った表現ですね。ここまで答えてくれれば十分に2点はやっても良いでしょう。その他に首相には何でもできそうな聖徳太子や空海、先見性のある坂本竜馬、力尽くで改革を実行しそうな織田信長などが人気でした。日蓮防衛庁長官「近年我が国を取り巻く国際環境は悪化の一途を辿りつつあります。そう遠くない時期に、異国が攻めてくる可能性が高く、それに備えなければなりません。そのためには国民がみな法華経に帰依して、毎日題目を唱えるようにしましょう」。これは『立正安国論』で他国の侵攻を預言したことと法華経をの題目に帰依することを説いたことに拠っていることは明かですが、もう一押しほしいところなので、これだけなら1点でしょうか。例えば建白書を前首相に提出したとか(『立正安国論』は前執権の北条時頼に献呈)、以前もこのような主張をしたことがあったが首になった(佐渡に流罪になった)とかという言葉があれば、2点にしてもよいでしょう。その他には海防論を主張した林子平は多くの生徒が上げていました。光明厚生大臣「何ごとも慈悲の心によって、病気の人には薬代を無料にし、保護者のいない児童を養育する施設を作ろうと思います。現在は自由な時間のない難しい環境で生活していますが、民間にいた頃にもどって庶民の心のわかる大臣になろうと思います」。光明皇后が皇族出身ではなく、人臣の藤原氏であること、施薬院や悲田院を作ったこと、仏教に篤く帰依したことなどに触れているので、このくらい書いてくれると3点はやりたいところです。その他には、ハンセン病患者の治療に当たった忍性がいました。、空海文部大臣「庶民のための初等教育機関の充実を推進します。そのための国語の教科書は私が自ら編纂します」。これは庶民教育のための綜芸種智院を作り、いろは歌を作ったことに拠っています。これくらいだと量的に少ないので1点くらいでしょうか。文部大臣には学者の菅原道真や新井白石、英語教育をしてくれるからとクラークがいました。生徒の発想は我々よりも自由ですから、もっといろいろな答えがあったと思うのですが、よくは覚えていません。とにかく採点しながら楽しかったことはよく覚えています。やったことはありませんが、最悪の内閣もやってみると傑作な答案が飛び出すことでしょう。最悪の蔵相には荻原重秀あたりが出て来そうです。ああ今はもう蔵相という呼称ははないのでしたね。
 

沈丁花

2016-02-14 08:30:06 | 植物
 本格的にはまだ香りませんが、沈丁花の蕾が色付いています。私の誕生日のころにはいつも馥郁と香ってくれるので、我が家では「私の花」ということになっています。家内の誕生日のころに咲くのは梔子なので、家内は梔子を「私の花」と認識しています。私の古歌のリストの中には、沈丁花は登場しませんが、それもそのはず、中国から渡来したのは室町時代の頃だそうです。室町時代の大学者である一条兼良の『尺素往来』という書物に、「沈丁華」という記載があるそうですが、私はまだ未確認です。そう言えば、「沈丁花」という名前は、香りが香木の沈香に似ていて、花の形が丁子に似ていることによるとされていますから、いかにも禅僧好みであり、禅宗と共に室町時代に渡来したのではないでしょうか。

 沈香という香木は、樹脂を多く含む部分は比重が重く、水に沈みます。そのためこの名前があるのですが、ともかく大変高価なもので、私も一かけら買ったことがありますが、勿体なくて使えません。それで毎年咲いてくれる沈丁花の香りで我慢しています。しかし沈丁花のあまりに強烈な香りは、人と場合によっては嫌われることもあります。狭い室内ではことによく香りを感じさせるため、茶席では使わないことが多いようです。まあ香りというものは、ほのかに香る程度が良いもので、嫌われるのもわからなくもありません。ですから室内に活けるときには、小枝を少々程度にとどめたほうがよいのでしょう。海外で生活したことがあるのですが、すれ違いざまに強烈な香水のにおいを残してゆく女性に、閉口したことがありますから。

 そのようなわけで、夜の庭で沈丁花の花を楽しむのもなかなか風情があるものです。花自体は見栄えのするものではありませんし、夜には視覚は感じられませんから、ことに嗅覚が強調されます。狭い庭に椅子を出して坐り、ほのかに香ってくる沈丁花を楽しむのです。もしそこに朧月でも浮かんでいれば、もう言うことはありませんね。そんな楽しみを教えてくれる歌を一首ご紹介します。

  若き日の夢は浮かびて沈丁花やみのさ庭に香のただよへば   佐々木信綱(常盤木)

 ついでのことですが、沈丁花は移植を嫌いますから、植えるときにはよく場所を考えて、移植の可能性のないところに植えてください。