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『吾妻鏡』で読む静御前

2016-02-28 19:36:06 | 歴史
 今日(平成28年2月28日)は私の主宰する生涯学習の会で、「『吾妻鏡』で読む静御前」についてお話しをしました。その一部を御紹介します。難しい漢字が多いので、わかりやすく書き直している部分もあります。論文ではないので、お許し下さい。また私の力が及ばず、読み間違っていることも多分あるでしょう。手に負えないこともありますが、その道の専門でもないので、その点もお許し下さい。あくまで静の姿に、生の史料で少しでも迫ってみるのが目的ですから。

 『吾妻鏡』は鎌倉幕府が編纂した幕府の日記風歴史書で、歴史史料としては比較的信用のおける文献です。静御前については『義経記』にもいろいろ物語風に書かれているのですが、史料としては信用性がありません。物語としては『義経記』は面白いのですが、静の実像に迫る材料にはできないのです。

 まずは文治元年(1185)11月6日の記事には、義経主従の渡海失敗が記されています。都落ちした義経主従が九州へ渡ろうとして大物浜(現在の尼崎)から船出するのですが、暴風雨のために難破してしまい、浜に戻されます。そしてそこまで従っていた家臣たちも散り散りになり、義経に従った家臣は弁慶を含めて3人、他に静も入れてたった4人になってしまいました。

「予州に相従ふの輩、纔(わずか)に四人、所謂伊豆右衛門尉(源有綱)、堀弥太郎(堀景光)、武蔵房弁慶并びに妾女〔字(あざな)を静〕一人也。・・・・件(くだん)の両人を尋ね進ず可きの旨、院宣於諸国へ下さると云々。」

「予州」は伊予守である源義経のことで、これから何回も出て来ますから覚えておいて下さい。「字」はあざな「件の両人」は義経と源行家(頼朝の叔父)のことで、この二人を捕らえるようにと後白河法皇が諸国に院宣を発して命令したというのです。

 そして11月17日の記事には、吉野山での義経と別れた静の証言が記されています。静は吉野山で修行の僧に捕らえられ、尋問をされました。

「静云はく。吾、是九郎大夫判官〔今伊与守〕が妾也。大物浜より予州此の山に来る。五ケ日逗留の処、 衆徒蜂起の由風聞するに依て、伊与守は山臥の姿を仮り逐電し訖(おわんぬ)。時に数多くの金銀の類を我に与へ、雑色男等を付け京へ送らんと欲す。而るに彼の男共財宝を取り、深き峯の雪中に棄て置くの間、此の如く迷ひ来ると云々。」

静が言うには、私は九郎判官(義経)の妾です。大物浜から予州(義経)はこの吉野山に来ました。五日間滞在しましたが、吉野山の僧兵たちがほうきょういんとうするとの噂を聞いたので、山伏に変装してどこかに行ってしまいました。その際に、多くの金銀類を私に与え、従者の男たちに護衛をさせて京の都に送り返そうとしたのですが、その男たちは財宝を奪い取り、山深い雪の中に私を置き去りにしたので、このように迷いつつ来たわけです、と言うのです。山伏に変装したのは、吉野山は修験道の道場でもありましたから、怪しまれずにやり過ごすことができるからでしょう。吉野山は都では雪が早く降り、また遅くまで残る雪の名所として理解されていた山です。新暦ならば12月のことでしょうから、よくもまあか弱い女性の身で、遭難しなかったものです。そしてこの別れが結果的に最後の別れとなってしまうのです。

 翌11月18日の記事では、 静の証言により、吉野山の僧たちが義経を捜索します。

「静の説に就(つ)きて、予州を搜し求めんため、吉野の大衆等又山谷を踏む。静は執行頗る憐愍せしめ、相労るの後、鎌倉へ進ず可きの由を称すと云々。」

静の説明により義経を捜索するため、吉野山の僧たちが山を歩き回りました。執行(寺で諸務を行う上位の僧)は静を気の毒に思って、十分に労った後に鎌倉に護送することになった、ということです。しかし直接鎌倉に送るのではなく、まずは京に送ることになります。

さて続きはまた数日後に書きます。静が八幡宮で舞ってから、京に帰るまで、吾妻鏡の史料を読みながら追っていくつもりです。取り敢えず今日はこの辺で御免なさい。                                  平成28年2月28日




『吾妻鏡』の現代語訳の部分は、今後は〔  〕で括って表示することにしました。

 12月15日には、北条時政の報告書が鎌倉にもたらされ、鎌倉でも少し事情がわかってきたようです。

 「北条殿が飛脚京都より参着す。・・・・次に予州が妾出来す。相尋の処、予州都を出でて西海へ赴くの暁、相伴はれ大物浜へ至る。而るに船漂倒の間、渡海を遂げず。伴類皆分散す。その夜は天王寺へ宿す。予州此より逐電す。時に約して曰はく。今一両日を当所で相待つべし。迎への者を遣はすべき也。但し約日を過れば速く行き避るべし云々。相待の処、馬を送るの間これに乗り、何所と知らずと雖も、路次を経て、三ケ日有りて吉野山へ到る。彼の山に五ケ日を逗留し、遂に別離す。その後更に行方を知らず。吾、深山の雪を凌ぎ、希有にして蔵王堂へ着くの時、執行虜り置く所也。てへれば、申す状此の如し、何様を沙汰計るべきかと云々。」

〔北條時政殿の飛脚が京都から到着しました。・・・・次に源義経の妾が来ました。尋問したところ、「義経は都を出て九州へ行こうとした朝、一緒に連れられて大物浜(現在の尼崎)へ行きました。しかし船が難破して海を渡ることはできず、従者たちは皆散り散りになってしまいました。その夜は天王寺に泊まり、義経はそこから行方をくらましました。その時に約束をしたのですが、もう二日ほどここで待っていなさい。迎えの者をよこすからと言いました。しかしながら、約束の日が過ぎたら、何処かへ行くようにとの事でした。待ってると、馬が送られて来たのでそれに乗り、何処ともわからずに、道中三日かかって吉野山に到着しました。その吉野山に五日間逗留した後、ついに別れてしまいました。その後の行方は知りません。私は深山の雪をかき分け歩き、運良く蔵王堂へたどり着いたら、執行の方が私を捕えました。」〕と言いました。「てへれば」というのは閉じ括弧と理解して下さい。北条時政は取り敢えず事情を聴取して報告し、その後の沙汰を指示してくれるように頼んできたわけです。そこで早速翌日には、静を鎌倉に連行するようにと、時政に返事が送られたというのですから、緊迫している様子が察せられます。


 そして3月1日、 静とその母が鎌倉に到着します。

「今日、予州が妾静、召に依て京都より鎌倉に参着す。北条殿送り進ぜらるる所也。母の礒禅師これを伴ふ。
 則ち主計允の沙汰となしし、安逹新三郎が宅を点じこれを招き入れると云々。」

〔静が京から鎌倉に到着しました。これは北条時政が送ってよこしたものです。母の磯禅師も一緒です。・・・・そして安達新三郎の家を選んでここに落ち着かせました〕、というわけです。



 3月6日には早速問注所で尋問が始まり、静が弁明をします。

 「静女を召し、俊兼、盛時等を以て、予州の事を尋問さる。先日、吉野山に逗留の由、これを申す。はなはだ以って信用されざれば、静申して云はく。山中に非ず、当山の僧坊也。而るに大衆蜂起の事を聞くに依りて、その所より山臥の姿を以って大峯に入るべきの由を称し入山す。くだんの坊主の僧これを送る。我又慕ひて一鳥居辺に至るのところ、女人入峯せずの由、彼の僧相叱るの間、京の方へ赴くの時、共に在る雑色等財宝を取り、逐電の後、蔵王堂に迷ひ行くと云々。重ねて坊主僧の名を尋ねらる。忘却の由を申す。凡そ京都において申す旨と、今の口状頗る違ふに依りて、法に任せ召問ふべきの旨、仰せ出ださると云々。」

〔静を召し出して、問注所の係に義経のことについて尋問をしました。吉野山に逗留したと言うのですが、信用できません。静が答えるには、「吉野の山中ではなく、その僧坊の方です。しかし山の僧兵たちが蜂起すると聞いて、そこから(義経は)山伏の姿になり、大峰に入ると言って山に入りました。その僧侶が山に案内してくれました。私も跡を慕って一の鳥居の辺りまで行ったのですが、女人は大峰に入るべからずとその僧に叱られたので、やむなく都の方へ向かいました。ところが同行していた雑色の男たちが財宝を奪って逃げてしまい、蔵王堂に迷い着きました。」重ねて僧の名を尋ねたところ、それはもう忘れたと言います。およそ京都での申し立てと今の言うこととかなり違っているので、法に基づいてよく調べるように仰せられました。〕

 大峰山は標高1915mあり、今も厳しい修験道の修行が行われる聖地です。それで現在でも女人禁制となっています。この現代に何と時代遅れなとお腹立ちの女性もいるかも知れませんが、信仰の世界ですから、法律上の平等とは次元が違います。なお大峰山の南にある稲村ヶ岳は「女人大峰」と呼ばれ、ここなら女性が登ることができます。静はどこまでも一緒に行きたかったことでしょうが、行けば足手まといになることは必定。泣く泣く別れたものと推察します。                    平成28年3月1日    
 


 3月22日には、 静が再び尋問をされます。

「静女の事、子細を尋問さると雖も、予州の在所を知らざるの由、申し切りおはんぬ。当時彼の子息を懐妊する所也。産生の後、返し遣はさるべき由、沙汰有ると云々。」

〔静のことですが、詳細を尋問されても義経の居場所は知らないとはっきりと申しました。義経の子を妊娠しているので、出産後に帰すとの沙汰がありました。〕

 静は実際に義経の消息は全く知らないのですから、いくら取り調べても答えようもありません。「申し切りおはんぬ」という表現に、静の強い意志が現れているように思います。まあ知っていたとしても、意地でも答えなかったでしょうが。


 そして4月8日、静が八幡宮で舞うのクライマックスを迎えます。


「二品ならびに御台所、鶴岡宮に御参す。次を以って、静女を廻廊に召し出ださる。是、舞曲を施させしむべきに依て也。此の事、去るころ仰せらるる処、病痾の由を申し参らず。身において屑とせざる者、左右に能はずと雖も、予州の妾と為し、忽ち掲焉の砌(みぎり)に出づるの条、頗る耻辱の由、日来る内々に之を渋り申すと雖も、彼は既に天下の名仁也。適(たまたま)、参向して帰洛近きに在りてその芸を見ざるは、無念の由、御台所頻りに以って勧め申さしめ給ふの間。これを召さる。偏へに大菩薩の冥感に備ふべきの旨、仰せらると云々。近日、只別緒の愁(うれい)有り。更に舞曲の業無きの由、座に臨みて猶固辞す。然して、貴命再三に及ぶの間、憖(なまじい)に白雪の袖を廻らし、黄竹の歌を発す。左衛門尉祐経、鼓つ。是、数代勇士の家に生れ、楯戟の塵を継ぐと雖も、一臈上日の職を歴て、自ら歌吹曲に携はるの故に、此の役に候ふか。畠山二郎重忠銅拍子を為す。」

〔頼朝様と御台所様が鶴岡八幡宮に参拝されました。そのついでに、静を廻廊に召し出しました。これは舞を舞わせるためです。このことについては、以前から命じられていたのですが、体調が悪いからと言って参りませんでした。身の置かれた立場を考えれば、あれこれと言うことはできないのですが、義経の愛人として晒し者になる場所に出ることは、とても恥ずかしいことであるとして、普段から渋っていたのですが、彼女は舞の名人としてその名は天下に聞こえています。それが偶然にも鎌倉に来て、間もなく都に帰というのに、その芸を見ないというのは、何とも残念なことです。それで御台所様がしきりに頼朝様にお勧めになられたので、これを召し出すことになりました。これはひとえに八幡大菩薩も妙技に感じて加護してくださるであろうとおっしゃいました。しかし静は近頃は悲しいことがあり、とても舞うことなどできませんと言って、その場に臨んでもなお固辞しました。しかし再三お命じになられたので、嫌々ながらも、白雪のような衣の袖を翻し、「黄竹の歌」を歌いました。工藤祐経が鼓を打ちましたが、彼は武勇の家に生まれ、戦の技を受け継いではいますが、「一臈上日の職」の経験があり、音楽にも関わっていたので、この役に就いたのでしょう。畠山重忠が銅拍子を打つ役をつとめました。〕

 頼朝のことを「二品」と表現していますが、彼は従二位の位を与えられていたため、そうよばれました。後に頼朝の死後に政子も同じく雷を与えられますので、「二位の尼」と呼ばれることになります。頼朝はあまり乗り気ではなかったようですが、妻の政子がどうしても静の舞を見たいということで、召し出したわけです。静にしてみれば、義経を捜し出して殺そうとしている者の前では踊るものかという意地があったでしょうが、神様まで持ち出されると、断り切れなかったのでしょう。静が踊った場所については、史料は「廻廊」としか語っていません。現在、鶴岡八幡宮には舞殿がありますが、もちろんそこではありません。しかし先日行ったときには、舞殿で踊ったと説明している人がいましたが、それは少し違います。「黄竹の歌」というのは調べてみるとなかなか難しい解説があったのですが、素人の私には手に負えるものではありませんでしたので、パスさせて下さい。工藤祐経は曾我兄弟の仇討ちで討ち取られた御家人で、そちらの方で名が知られています。「一臈上日の職」ということばもなかなか難しいのですが、専門家の解説を見ると、朝廷で蔵人として勤務することを意味するそうです。ようするに武人ではあるのですが、朝廷でも十分に通用する程の文人的教養があったわけです。銅拍子はいわばシンバルのようなものでしょう。

読み始めると日本的漢文とはいえ『吾妻鏡』もなかなか難しく、私如き素人には荷が重すぎると感じています。まあ大まかな流れさえつかめればという程度でお許し下さい。専門の詳しい方の御指摘は、素直に受け容れるつもりです。   3月5日


「静先ず歌を吟じ出して云はく、吉野山峯ノ白雪フミ分ケテ入リニシ人ノ跡ゾ恋ヒシキ、次に別物の曲を歌ふの後、又和歌を吟じて云うはく、シヅヤシヅシヅノヲダマキ繰リ返シ昔ヲ今ニナスヨシモガナ、誠に是社壇の壮観、梁の塵ほとんど動くべし。上下皆興感を催す。二品仰せて云はく。八幡宮宝前において芸を施すの時、尤も関東の万歳を祝ふべきの処、聞こし召す所を憚らず、反逆の義経を慕ひ別れの曲を歌ふは奇恠(きっかい)と云々。御台所報じ申されて云はく。君が流人として豆州に坐し給ふの比(ころ)、吾においては芳契あると雖もも、北条殿、時宜を怖れ、潜(ひそか)にこれを引籠めらる。しかるになお君に和順し、暗夜に迷ひ、深雨を凌ぎ、君の所に到る。亦、石橋の戦場に出で給ふの時、独り伊豆山に残り留まり、君の存亡を知らず、日夜魂を消す。その愁(うれい)を論ずれば、今の如き静の心は予州の多年の好を忘れ恋慕はざれば、貞女の姿にあらず。外に形(あらは)るの風情に寄せ、中に動くの露胆を謝す。尤も幽玄といひつべし、抂(ま)げて賞翫し給ふべしと云々。時に御憤休むと云々。小時して御衣夘華重を簾外に押し出し、これを纒頭(てんとう)さると云々。」

〔静はまず歌を歌いました。「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」。次に別な歌を歌った後で、また歌を歌いました。「しづやしづ しづの苧環繰り返し 昔を今になすよしもがな」。これは真に神殿の梁の塵さえも動くかと思われる程の、壮観な見物でありました。見ていた人は皆、身分にかかわらず感動しました。ところが頼朝様がおっしゃるには、(源氏の守護神である)八幡神の御前に芸を奉納する時には関東(鎌倉幕府)の安泰を祝うべきであるのに、神も私も聞いていることを知りながら、反逆した義経を慕って、それと別れたことを歌うなど、不届きである、と。すると御台所様がたしなめておっしゃいました。あなたが流人として伊豆においでの時、あなたとの間に(結婚の)約束を交わしていましたが、父北条時政殿が平家への聞こえを心配して、こっそりと私があなたに会えないように閉じこめてしまいました。しかし私はあなたが恋しくて、真夜中の雨に濡れながら、あなたのいるところへ逃げ込んだものでした。また石橋山の戦いでも、一人で伊豆の走湯神社に残って、あなたが生死も知らずに消え入るばかりに心配したものです。その時の心配した心を思い、今の静の心を思いやるならば、義経が可愛がってくれたことを忘れて恋い慕うことがないのなら、貞女と言うことはできません。踊という外の形にこと寄せて、心の内を表したのです。これこそ幽玄な見物と言うべきでしょう。お怒りもわからなくはありませんが、まげて誉めてやって下さい、と。それで頼朝様もようやくお怒りを鎮めました。少しして卯の花襲の衣を褒美として御簾の外に押し出されました。〕

 私の力不足で訳しきれないところもあるのですが、その辺りは勘弁して下さい。静はさんざん抵抗していましたが、思うことがあったのか、開き直りであったのか、覚悟ができたのでしょう。義経を慕う歌を歌えば、頼朝の怒りに触れることは承知の上のこと。殺されることすら覚悟したはずです。天下の権力者に対して、力では対抗しようもありません。しかしどうせ殺されるならば、最後の最後に自分を愛してくれた人を慕う心を隠すことなく言い表そうと決意したのです。命を懸けた愛の宣言と言えましょう。「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」という歌は、『古今集』の327番に本歌があり、静の創作ではありません。「み吉野の 山の白雪踏み分けて 入りりにし人の訪れもせぬ」という歌なのですが、吉野山に籠もってしまった人からの便りがないという意味です。それを少々作りかえたのが静の歌です。今ならパクリと言われそうですが、当時はよく知られた歌を下敷きにして作りかえることは全く問題ではありませんでした。私はそれより静が『古今集』のこの歌を諳んじていたことの方に驚きます。さすがは天下の白拍子と言われることだけはあるものです。現代の安っぽい芸人とはわけが違います。「しづやしづしずの苧環(おだまき)」の歌についてですが、「しづ」とは「倭文」と書き、麻織物の一種です。それを織るために糸を巻いたものが苧環(おだまき)で、植物のオダマキは花の形が糸巻きに似ていることによる呼称です。「しづやしづしづのをだまき」までは「繰り返し」に懸かる序詞ですから、特別に意味があるわけではありません。繰り返すということを導き出すために、歌の調べを整えているわけですが、静が歌えば、音が自分の名前と重なりますから、自分の気持ちを込めて歌ったことでしょう。「よしもがな」は、方法があればよいのだがという意味ですが、裏にはその方法もないことだというニュアンスが隠れています。本歌は、「古の倭文(しづ)の苧環繰り返し昔を今になすよしもがな」という歌で、『伊勢物語』の32段にあります。昔に巻いた苧環を巻きもどすように、あなたとの仲を昔にもどす方法があればよいのだが、という意味なのですが、静は少し違う意味で歌っていますね。これも静は諳んじていたわけです。手許には何の本もなかったでしょうのに、その場に相応しい歌が、即興のように出て来るのです。
 「梁の塵も動く」とは面白い表現ですが、これは中国で美しい音楽を形容する常套句です。梁の塵も動く程に美しい曲、というわけです。「梁塵」というと、後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』という歌謡集を思い出します。後白河法皇は「今様」と呼ばれた流行歌が大好きで、院御所に遊女を召し出しては、徹夜でそのような歌を歌うことがしばしばありました。そしてそのような歌の歌詞を集めた本まで編纂しているのです。法皇様がカラオケの歌詞集を編纂したようなわけで、まあ随分と砕けた御方だったようです。
 案の定、頼朝はかんかんに怒りました。源氏の守護神の前ですから、頼朝のメンツは丸潰れです。まあ怒るのも無理はありません。しかしそこに頼朝の妻政子の言葉が重みを持つことになりました。政子にしてみれば、静の舞を見たいとせがんだこともあるでしょうから、ここは何とか収めなければと思ったことでしょうし、女性として静の心にも感動したことでしょう。父時政が京都に上番している間に、罪人として預かっていた頼朝と自分の娘が特別な関係になってしまったことが平家に知れたら、どのような処罰があるかわかりません。ですから時政としては二人の仲を力尽くで裂こうとしたのももっともです。時政は政子を伊豆の山木兼隆に嫁がせようとしました。兼隆は北条氏と同じ平氏の一族で、伊豆の国府の国司代理のような役に就いていました。政子は兼隆の屋敷から雨の降る夜に逃げ出し、頼朝が蟄居していた伊豆山権現に逃げ込んでしまったというのです。まあこれが本当なら面白いのですが、実際には兼隆が伊豆に来た時期と、政子が長女大姫を出産した時期が重ならないので、政子の作り話かもしれません。石橋山の戦いは治承4年(1180年)のことで、頼朝の平氏打倒の最初の本格的な戦いでした。しかし頼朝はこの戦いで敗れて山の中をさまよい、船で安房国へ落ち延びます。この間、政子は戦に敗れた頼朝がどこにいるのか、生死さえわからずに心配していたのです。政子はそのことを言っているわけです。
 そこまで政子に言われると、頼朝も強いことは言えませんでした。もともと政子は駆け落ち同然に結婚した気の強い女性です。政子が頼家を妊娠中のこと、頼朝がこっそり愛人をかこっていることが発覚したことがあります。この時政子は家人を派遣して、その愛人のかくまわれていた家を破壊させています。それくらい強う女性でしたから、頼朝亡き後も幕府を背負うことができたのでしょうが、とにかく頼朝は政子に頭が上がらないことがあったのでしょう。渋々怒りを収めて、却って褒美の衣をとらせたのでした。卯の花襲の衣ですが、丁度卯月の季節にも合うわけです。

 そこで私も静の心を歌に詠んでみました
  ○今はとてかねて覚悟の舞姫の雪の衣に花散りかかる
  ○梁の上(へ)の塵も騒ぐかしづしづと妹背の契り忘れじの舞                      平成28年3月10日



 4月8日の社殿での舞から1カ月程後の5月14日、数人の御家人たちが静の宿に静を訪ねます。

 「左衛門尉祐経、 梶原三郎景茂、 千葉平次常秀、八田太郎朝重、藤判官代邦通等、面々に下若等を相具し、静が旅宿に向ふ。酒を玩び宴を催す。郢曲妙を尽くし、静の母磯禅師又芸を施すと云々。景茂数盃を傾け、 聊か一醉す。此の間艶言を静に通はす。静頗に落涙して云はく。予州は鎌倉殿が御連枝。吾は彼の妾也。 御家人為る身で、争(いかで)か普通の男女と存ずるや。予州牢篭せずんば、和主(わぬし)に対面、猶有るべからざることなり。况や今の儀においてをやと云々。」

〔工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・八田朝重・藤原邦通らの御家人たちが酒を持って静の宿に行き、宴会を催しました。母の磯禅師が舞を舞いました。景茂が酔った勢いで、静に色っぽいことを言ってからかうと、静は涙を流して、「義経様は鎌倉殿の御兄弟、私はその妾です。御家人の身分でどうして普通の男女の事のように思われるのか。義経様が落ちぶれなければ、あなたなどにに対面する事さえできないはずなのに。ましてやそのような冷やかしなどもってのほかです。」と言いいました。

 祐経は舞の際に鼓を打つ役目をしていましたから、目の前で見ていたわけです。その他の者立ちも有力御家人であり、皆で語らって静親子を肴に酒を飲みに行ったのでしょう。年配の母も踊らされています。内心気はすすまなかったでしょうが、弱い立場を考えると、断ることもできなかったのでしょう。母子の無念が察せられます。そして一人が酔った勢いで静にセクハラ紛いの言葉を浴びせたのでしょう。静はここでも精一杯の抵抗をしています。この頃には静のお腹もかなり大きくなっていたでしょう。さすがにそのような静を再び舞わせることはなかったようです。



5月27日、 夜、頼朝の長女大姫の依頼によって、静は舞を舞いました。

「夜に入り、静女大姫君の仰せに依て、南御堂へ参り、芸を施し禄を給はる。」

むさ苦しい御家人たちの冷やかしには泣いて抵抗した静でしたが、頼朝の長女大姫の頼みには素直に応えて、舞っています。大姫は6歳の時に木曾義高(頼朝の従兄弟である木曽義仲の子)の許嫁とされました。その時、義高は11歳で、事実上の人質として鎌倉に抑留されていました。しかし頼朝と義仲が対立することによって、人質の義高が殺されてしまいます。父によって婚約者が殺されたわけですが、その時、大姫はわずかに7歳です。しかし彼女にとっては耐え難い悲しみでした。もちろん静はこの経緯を知っていたでしょう。年齢は離れていますが、愛する人を殺され、また殺されるかもしれない、そして間もなく生まれてくる子を取り上げられるかもしれない女性が互いに共有できる悲しみがありましたから、静は大姫を慰めるつもりで舞ったのでしょう。



閏7月29日、ついに静が男子を出産します。

「静男子を産生す。これ予州の息男也。件の期を待たるるに依て、今に帰洛を抑へ留めらる所也。しかるにその父関東を背き奉り、謀逆を企て逐電す。その子もし女子たらば、早く母に給はるべし。男子たるにおいては、今襁褓(きょうほ)の内にあると雖も、争(いかで)か将来を怖畏せざらんや。未熟の時に命を断つの条よろしかるべきの之由治定す。よりて今日安逹新三郎に仰せて、由比浦に棄てしむ。これより先に、新三郎御使彼の赤子を請け取らんと欲す。静敢てこれを出さず。衣に纏(まと)ひ抱き臥し、叫喚数剋に及ぶ之の、安逹頻りに譴責す。礒禅師殊に恐れ申し、赤子を押取り御使に与ふ。この事、御台所御愁歎し、之をゆるさんと申すと雖もかなわずと云々。」

〔静が男の子を生んだ。これは義経息子である。出産を待ってから京に帰すことになっていたので、今日まで留め置かれていた。その父はである義経は関東(頼朝)に背き謀叛を企て逃亡した。その子が女子ならばすみやかに母に返されるが、男子であれば今は産着の中にあっても、将来に禍根を残す恐れがあるので、赤子のうちに命を絶つように決まっていた。よって今日、安達清常に由比ヶ浜に捨てるよう命じられた。これに先立ち清常は使いとして赤子を受け取ろうとした。静はこれを出さず、赤子を衣にまとい抱き臥し、長い時間泣き叫んだが、清常は厳しく催促する。磯禅師が恐縮し、赤子を取り上げて使いに渡した。この事は、政子が頼朝に命乞いを嘆願したが叶わなかった。〕

 静が産んだ子は男の子でした。予てからの決定通り、頼朝は赤子を殺すように命じます。そういう頼朝自身も13歳の時、平治の乱で捕らえられ清盛に殺されるはずでしたが、清盛の継母にあたる池禅尼の嘆願により、命ばかりは助けられて伊豆に流されています。ですから自分が清盛のようにならないためには、生かしておくわけにはいかないと考えたのでしょう。しかしこうして頼朝は身内を次々に滅ぼし、結果として源氏の本家は断絶してしまうことになります。赤子が斬り殺されなかっただけでもよしとするしかないのでしょう。



9月16日、悲しみに暮れる静とその母が京に帰ります。

「静母子暇を給はり帰洛す。御台所并びに姫君憐愍したまふに依て、多く重宝を賜はる。」

出産後、少しは体力が回復したのでしょう。ようやく静と母は京に帰ることになりました。そして政子と大姫は静の身の上に同情して、多くの宝物を持たせてやりました。この記事を最後に、静は文献史料に姿を表すことはありませんでした。しかし伝承では、各地に静の墓と称するものが伝えられています。