菜の花が土手にたくさん咲き始めました。「朧月夜」のイメージにはまだ少々時期的に早いのですが、先取りしてあらためて味わっています。
1、菜の花畠に入日薄れ、見わたす山の端霞ふかし。春風そよふく空を見れば、夕月かかりて、にほひ淡し。
2、里わの火影も森の色も、田中の小路をたどる人も、蛙のなくねもかねの音も、さながら霞める朧月夜。
1914年(大正3)に『尋常小学唱歌』第六学年用に掲載されて以来、いくつか小学生には難しい言葉があるのに歌い継がれています。というより親の世代が歌っているのかもしれませんが・・・・・。菜の花畠と言っても、現在は油を採るための栽培はほとんどないのではと思うのですが。ただ観光用に栽培している所は全国にあるので、一面の菜の花を見ることは今でもできます。私の家の近くにはそのような所はないのですが、川の土手などに自然に咲いていますから、十分に満喫できます。
1番では、夕霞のかかる景色が歌われています。目の前には一面の菜の花が咲き、夕日が次第に沈んでくる時刻、夕月が空に懸かるというのですが、この場合の月は西の空に見える三日月が絵になりますね。「返り見すれば月かたぶきぬ」ならば満月に近い月なのですが、歌詞を見る限りは作詞者は西の方角を見ていますから、三日月に近い形のはずです。「にほひ」は必ずしも香りのことではなく、色が美しく映えることを意味しています。真昼の菜の花の原色に近い真っ黄色ではなく、茜色の夕日に照らされて、穏やかな色に見えるのでしょう。
2番は、1番より少し時間的に経過しているようです。「里わ」とは「里曲」「里廻」と表記し、「人里のあたり」という意味です。遠くに民家があり、灯りの点いているのが見えるのでしょう。田の畦道を歩いている人の姿が微かに見えるというのですから、真っ暗にはなっていないようです。鐘の音は、夕方6時の鐘の音でしょうか。まあ6時とは限定できませんが、そのくらいの時刻でしょう。「さながら」はなかなか難しい言葉です。現在では「さながら」は「まるで・・・・のようだ」という意味に使われています。しかしこれは室町時代以降のことで、それより以前は「そのまま」「そっくりそのまま」という意味でした。原詩に当てはめてみると、どちらでもよいようにも思えるのですが、大正時代の作詞ですから、「まるで」と理解すべきなのでしょうか。しかし事実として霞んでいるのですから、「まるで霞んでいるようだ」というのでは、なぜかピンと来ないのです。私自身の理解としては、「そっくりそのまま」という意味の方がよいのではと思っています。それはともかくとして、「・・・・も」を5回重ねて、リズムを作っています。そして最後に「おぼろ月夜」がそれらをすべて呑み込んでしまうのです。そくにおぼろ月夜の奥深さが、象徴的に表されているように感じています。
昭和戦後にこの歌の作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一であることが明らかになりました。このコンビによる唱歌には、他にも『春の小川』『故郷』『春がきた』『紅葉』などの名曲があります。それはそれでよいのですが、作詞者ゆかりの長野県の野沢温泉村の風景を歌ったものだとして、すぐに観光に結び付ける施設や石碑ができているそうです。私の見落としかもしれませんが、それを断定する資料は今のところ見つかっていないと思うのですが・・・・。すぐに「こここそ発祥の地」と名乗り出て既成事実化させてしまうことは、歌の世界にはよく見られることです。「鐘の音」の寺はこの寺と伝えられていますと言うに至っては、もうあわれを催します。すそんなことはどうでもよいではありませんか。菜の花の咲いているところは全国どこにでもあるのです。
菜の花を詠んだ歌は、私の知っている古歌には見当たりません。そもそも油を絞る原材料としては、中世までは荏胡麻が専ら用いられていました。アブラナ、菜種が油の原料になるのは江戸時代以降のことです。現在普通に見られる菜の花は西洋菜の花ですし、古代にどの程度菜の花が見られたのかはわかりません。まあとにかく、古人は菜の花に関心を示していないのです。誹諧ならば与謝蕪村の「菜の花や 月は東に 日は西に」がよく知られていますね。色を想像しただけで美しく、このような絵画的な誹諧は蕪村の誹諧の特徴でした。ところでこの月はどのような形をしているでしょうか。夕方に東から上って来るのは、満月に近い月しかありません。太陽が今にも沈み、正反対の東から上ってくるのですから、その月は地球を挟んで太陽と正反対の位置関係にあります。ですから満月に近い形になるわけです。これならどこかの私立中学の入試問題に出題されてもよいかもしれませんね。
私の家の近くには荒川の河川敷があり、その季節になると一面に菜の花で埋め尽くされます。その時期に満月になる日は、多くても年に2日くらいのもの。私は蕪村の誹諧を追体験しに、その日を狙って、夕方にわざわざ菜の花と夕日と満月を見にいくことを楽しみにしています。本当に値千金の眺めです。私にはロンドン・パリに行くより価値ある時間です。そこで私なりに蕪村の誹諧を和歌に直してみました
○西東入りてはのぼる山の端も菜花も霞む春の夕暮れ
昼間の菜の花も美しいですが、夕方の菜の花には、また別の美しさがあります。どうぞお出かけになって下さい。
この内容の文章を、いつかどこかで書いた記憶があるのですが、もしダブっていたら御免なさい。
平成28年2月24日
拙文を読んで下さる方から、ご指摘を頂きました。大変参考になることですので、お断りもしなくて申し訳ありませんが、引用させていただきます。唱歌に造詣の深い方のようです。本当にありがとうございます。
『伴奏楽譜歌詞評釈』に実際につくった作歌陣の見方が書いてあります。そのまま引用しましょう。「『さながら』は『すべて』の意。即ち村の燈光も森の色も道行く人も、また蛙聲も夕鐘の響まで總て朦朧と霞んで遠退いて居るやうな朧月夜であるわいと云ふ意」。そして作歌陣は「物の色、物の影の霞めると云ふは通常の云ひ口なれども物の聲の霞みて聞ゆると云ふ歌詞の見付けどころなり」と記しています。
歌を作った人は「すべて」という意味で「さながら」を使っていたとのことですね。それなら「さながら」は室町期以前の「そっくりそのまま」という意味であるわけですから、現代の人が「まるで・・・・のようだ」という意味に理解している「さながら」ではないことになります。作詞者はなぜここだけ古語を使ったのか、大正時代でもわかる人は多くなかったのではないでしょうか。 2月25日
1、菜の花畠に入日薄れ、見わたす山の端霞ふかし。春風そよふく空を見れば、夕月かかりて、にほひ淡し。
2、里わの火影も森の色も、田中の小路をたどる人も、蛙のなくねもかねの音も、さながら霞める朧月夜。
1914年(大正3)に『尋常小学唱歌』第六学年用に掲載されて以来、いくつか小学生には難しい言葉があるのに歌い継がれています。というより親の世代が歌っているのかもしれませんが・・・・・。菜の花畠と言っても、現在は油を採るための栽培はほとんどないのではと思うのですが。ただ観光用に栽培している所は全国にあるので、一面の菜の花を見ることは今でもできます。私の家の近くにはそのような所はないのですが、川の土手などに自然に咲いていますから、十分に満喫できます。
1番では、夕霞のかかる景色が歌われています。目の前には一面の菜の花が咲き、夕日が次第に沈んでくる時刻、夕月が空に懸かるというのですが、この場合の月は西の空に見える三日月が絵になりますね。「返り見すれば月かたぶきぬ」ならば満月に近い月なのですが、歌詞を見る限りは作詞者は西の方角を見ていますから、三日月に近い形のはずです。「にほひ」は必ずしも香りのことではなく、色が美しく映えることを意味しています。真昼の菜の花の原色に近い真っ黄色ではなく、茜色の夕日に照らされて、穏やかな色に見えるのでしょう。
2番は、1番より少し時間的に経過しているようです。「里わ」とは「里曲」「里廻」と表記し、「人里のあたり」という意味です。遠くに民家があり、灯りの点いているのが見えるのでしょう。田の畦道を歩いている人の姿が微かに見えるというのですから、真っ暗にはなっていないようです。鐘の音は、夕方6時の鐘の音でしょうか。まあ6時とは限定できませんが、そのくらいの時刻でしょう。「さながら」はなかなか難しい言葉です。現在では「さながら」は「まるで・・・・のようだ」という意味に使われています。しかしこれは室町時代以降のことで、それより以前は「そのまま」「そっくりそのまま」という意味でした。原詩に当てはめてみると、どちらでもよいようにも思えるのですが、大正時代の作詞ですから、「まるで」と理解すべきなのでしょうか。しかし事実として霞んでいるのですから、「まるで霞んでいるようだ」というのでは、なぜかピンと来ないのです。私自身の理解としては、「そっくりそのまま」という意味の方がよいのではと思っています。それはともかくとして、「・・・・も」を5回重ねて、リズムを作っています。そして最後に「おぼろ月夜」がそれらをすべて呑み込んでしまうのです。そくにおぼろ月夜の奥深さが、象徴的に表されているように感じています。
昭和戦後にこの歌の作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一であることが明らかになりました。このコンビによる唱歌には、他にも『春の小川』『故郷』『春がきた』『紅葉』などの名曲があります。それはそれでよいのですが、作詞者ゆかりの長野県の野沢温泉村の風景を歌ったものだとして、すぐに観光に結び付ける施設や石碑ができているそうです。私の見落としかもしれませんが、それを断定する資料は今のところ見つかっていないと思うのですが・・・・。すぐに「こここそ発祥の地」と名乗り出て既成事実化させてしまうことは、歌の世界にはよく見られることです。「鐘の音」の寺はこの寺と伝えられていますと言うに至っては、もうあわれを催します。すそんなことはどうでもよいではありませんか。菜の花の咲いているところは全国どこにでもあるのです。
菜の花を詠んだ歌は、私の知っている古歌には見当たりません。そもそも油を絞る原材料としては、中世までは荏胡麻が専ら用いられていました。アブラナ、菜種が油の原料になるのは江戸時代以降のことです。現在普通に見られる菜の花は西洋菜の花ですし、古代にどの程度菜の花が見られたのかはわかりません。まあとにかく、古人は菜の花に関心を示していないのです。誹諧ならば与謝蕪村の「菜の花や 月は東に 日は西に」がよく知られていますね。色を想像しただけで美しく、このような絵画的な誹諧は蕪村の誹諧の特徴でした。ところでこの月はどのような形をしているでしょうか。夕方に東から上って来るのは、満月に近い月しかありません。太陽が今にも沈み、正反対の東から上ってくるのですから、その月は地球を挟んで太陽と正反対の位置関係にあります。ですから満月に近い形になるわけです。これならどこかの私立中学の入試問題に出題されてもよいかもしれませんね。
私の家の近くには荒川の河川敷があり、その季節になると一面に菜の花で埋め尽くされます。その時期に満月になる日は、多くても年に2日くらいのもの。私は蕪村の誹諧を追体験しに、その日を狙って、夕方にわざわざ菜の花と夕日と満月を見にいくことを楽しみにしています。本当に値千金の眺めです。私にはロンドン・パリに行くより価値ある時間です。そこで私なりに蕪村の誹諧を和歌に直してみました
○西東入りてはのぼる山の端も菜花も霞む春の夕暮れ
昼間の菜の花も美しいですが、夕方の菜の花には、また別の美しさがあります。どうぞお出かけになって下さい。
この内容の文章を、いつかどこかで書いた記憶があるのですが、もしダブっていたら御免なさい。
平成28年2月24日
拙文を読んで下さる方から、ご指摘を頂きました。大変参考になることですので、お断りもしなくて申し訳ありませんが、引用させていただきます。唱歌に造詣の深い方のようです。本当にありがとうございます。
『伴奏楽譜歌詞評釈』に実際につくった作歌陣の見方が書いてあります。そのまま引用しましょう。「『さながら』は『すべて』の意。即ち村の燈光も森の色も道行く人も、また蛙聲も夕鐘の響まで總て朦朧と霞んで遠退いて居るやうな朧月夜であるわいと云ふ意」。そして作歌陣は「物の色、物の影の霞めると云ふは通常の云ひ口なれども物の聲の霞みて聞ゆると云ふ歌詞の見付けどころなり」と記しています。
歌を作った人は「すべて」という意味で「さながら」を使っていたとのことですね。それなら「さながら」は室町期以前の「そっくりそのまま」という意味であるわけですから、現代の人が「まるで・・・・のようだ」という意味に理解している「さながら」ではないことになります。作詞者はなぜここだけ古語を使ったのか、大正時代でもわかる人は多くなかったのではないでしょうか。 2月25日
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