うたことば歳時記

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卒業証書の年紀表示

2016-02-10 09:02:00 | 学校
 学校では早くも卒業式の準備が始まっています。私は印鑑を押韻するのが得意なことから、よく校長印を押す役をやりました。ある時授業で、卒業証書の日付を平成ではなくて西暦にして欲しいという生徒がいました。わけを聞くと、天皇制が嫌いだからというのです。その生徒は普段の授業でも微妙なテーマになると、特定の政党の主張のみを正しいものと主張して、何かにつけて食ってかかってくるので、私は内心で「やっこさん、また来たな」と思っていました。こんな時でも私は全く動じません。
 そこでおよそ以下のようなやりとりがありました。
「君の言いたいことはよくわかるよ。それはそれで一理あるし、君が嫌いなことは十分に尊重しましょう。それなら逆に聞きたいことがある。なぜ西暦ならいいんですか。」「西暦は世界の多くの国で使われていて、国際的にも認知されている。天皇制には関係ないから、どんな主張を持っている人にでも使って差し支えないでしょう。」「あのね、西暦って言うけれど、これは西洋暦の省略だよね。西暦って言うとわからなくなってしまうけれど、本来はイエス・キリスト暦でしょう。授業でも習ったB.C.はBefore Christの省略であることは承知のことでしょう。紀元後はA.D.だったでしょう。これはラテン語で『我が主の年』という意味ですよ。西暦って言うけれど、要するにキリスト暦でしょう。私自身はキリスト教徒だから何も違和感はないけれど、もし仏教との人がいて、キリスト暦は嫌だと言ったら、君はどうするの。」「・・・・・・・・」「イスラム教徒の人がいたらどうするの。イスラム暦もあればユダヤ暦もある。神武紀元では嫌だというならわからなくもないけれど・・・・。そもそも西暦には西暦の便利さがある。簡単に足したり引いたりできるから、計算には便利だし、世界の多くの国で使われている。年表を元号で書かれたら、歴史学習では不便極まりない。でもね、元号には元号の便利さがある。一定の期間を大づかみに表現したいとき、例えば『昭和一桁生まれは』とか、『元禄時代には』とか『平成になってからは』とかいう表現を西暦でやってご覧よ。できなくはないよ。『二千十年代には』なんて言えるけれど、なかなか実感が湧かないでしょう。これは元号だからこそできることです。また便利だからというだけではなく、元号を使って年紀を表現するというのは、個人の好みを超越した、日本の伝統文化でもあります。千数百年以上受け継がれてきた文化を、今になって個人の好き嫌いで断絶させるわけにはいきません。個人的なことですが、私は演劇というものが好きではない。だから歌舞伎も嫌いです。お金を払ってまで見たいとは思いません。しかしそれは私の趣味に合わないと言うだけであって、伝統文化としての歌舞伎は大切にしなければならないと思っています。伝統の重みは、個人の趣味やイデオロギーよりも余程に重いのです。」「先生、私は『主の年何年』って書いて欲しいな」「あなたのお母さんはフィリピンから来たから、熱心な信者なんでしょ。『マリア』っていうあなたの名前も、お母さんが信仰的な願いを込めて付けてくれたんでしょ」「そうだよ。毎日お祈りしてるよ。日曜日には教会に行くし」「それは偉いことだよね」「それじゃあマリアさん、あなたは教会に行くの。」「行かない。でもね、心の中では、時々お祈りしてるよ」「まあそれは結構なことだ。フィリピンで信仰を守り続けることは、周囲がみなそうだからできるだろうけれど、それを日本で続けていることは立派なことだと思います。でもね、『主の年何年』ではね、納得しない人もいるだろうから、まあここは日本でもあることだし、元号の表記で我慢しておくれよ。西暦には西暦の良さ、元号には元号の良さがある。それぞれの良さを状況に応じて使い分けていくのがいいんじゃないかな。」「まあそれはそれでわからなくもないけれど・・・・。でもねえ・・・・。」「A君よ、君がここで自分の考えを堂々と表明できたことは、それはそれで立派なことだと思うよ。世界にはお上の言うことと矛盾することを表明するだけで、逮捕されてしまう国がいくらでもあるんだから、そう言う意味では日本は平和だと思うよ。」 
 およそ以上のようなやりとりでその場は収まりました。クリスマス前日まではキリスト教徒になり、初詣で神様にお願いし、お葬式でお線香をあげる曖昧さが、良くも悪くも日本的なのでしょう。