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新型コロナウィルス流行と奈良の大仏

2020-12-08 19:45:07 | 歴史
 新型コロナウィルスの猛威は収束の気配はありません。私が非常勤講師をしているM高校では、12月というのに窓を開け放して授業をしています。私は寒さにめっぽう強く、一冬ストーブ無しでも堪えられますが、今時の若者にはとても辛そうです。

 先日日本史の授業で国分寺や東大寺大仏建立の話をしました。40数年間も日本史の授業をしましたが、今年程このことが実感をもって迫ってきたことはありません。国分寺の建立の直接契機は、740年の藤原広嗣の乱ですが、それ以前に735年から737年にかけて、新羅から伝染してきた天然痘の流行が背景となっていました。737年には聖武天皇の皇后である藤原光明子の4人の兄弟が、相次いで病死していますから、聖武天皇にとっては余所事ではありませんでした。為政者が徳政を行えば、天がそれを嘉して瑞祥を出現させ、悪政が行われれば、その反対に怪異や不吉なことが起きると本気に信じられていた時の話ですから、聖武天皇は責任を感じていたはずです。しかし人の力ではどうにもなりませんので、あとは仏の力に頼るしかありません。そのような切羽詰まった思いで、国分寺の建立や大仏の造立が国家的大事業として行われたわけです。 

 奈良朝の天然痘流行の悲惨さを具体的に示す史料はありませんが、方丈記には1181~1182年の養和の大飢饉の惨状が細かに記されています。何しろ鴨長明が自分で見たことを記録しているのですから、多少の誇張はあるでしょうが、事実なのです。その記述を現代語に直してみました。 

 「養和のころ、二年間ほど飢饉が続いたことがあった。干害・大嵐・洪水などの悪天候が続き、穀物がことごとく実らなかった。・・・・京では地方の産物を頼りにしているのに、それも途絶えてしまった。・・・・物乞いが道ばたにたむろし、憂え悲しむ声は耳にあふれていた。前の年はこのようにして暮れた。そして翌年こそはと期待したのだが、疫病が流行し、事態はいっそう混乱を極めた。人々が飢え死にする有様は、まるで水が干上がる中の魚のようである。・・・・衰弱した者たちは、歩いているかと思うまに、道端に倒れ伏しているという有様である。土塀のわきや、道端に飢えて死んだ者は数知れない。遺体を埋葬することもできぬまま、鼻をつく臭気はあたりに満ち、腐敗してその姿を変えていく様子は見るに耐えない。ましてや鴨の河原などには、打ち捨てられた遺体で馬車の行き交う道もないほどだ。・・・・仁和寺の大蔵卿暁法印という人が、人々が数知れず死んでゆくのを悲しみ、死体を見る度に僧侶たちを大勢使って、成仏できるようにとその額に阿の字を書いて仏縁を結ばせた。四月と五月の二カ月の間、(京の都の)死者を数えさせると、道端にあった死体は総計四万二千三百あまりという。ましてやその前後に死んだ者も多く、鴨川の河原や、周辺地域を加えると際限がないはずである。いわんや全国七道を合わせたら限りがないことである。」

  コロナは現代の医療の進歩で何とか爆発的流行は抑えられていますが、もし昔であったら、養和の大飢饉のような惨状となっていたかもしれません。今まで深い感慨もなしに奈良の大仏を見ていましたが、これからは見方が変わることでしょう。

 実際、仏教界では宗派を超越して、コロナ収束のための大仏を造立しようという動きが始まっているそうです。国がそれを援助することはできない仕組みになっていますが、有志がすることなら、それもありかなとは思います。


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