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『吾妻鑑』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-12-18 17:39:49 | 私の授業
吾妻鏡
○原文 
 文治二年四月大・・・・八日乙卯。二品(にほん)并(なら)びに御台所(みだいどころ)、鶴丘宮に御参(ぎよさん)す。次(ついで)を以て、静女(しずかめ)を廻廊に召し出さる。これ、舞曲を施させしむべきに依ってなり。此の事、去ぬる比(ころ)仰せらるゝの処(ところ)、病痾(びようあ)の由(よし)を申して参らず。身の不肖に於ては、左右(そう)に能はずと雖も、予州の妾として、忽(たちま)ち掲焉(けちえん)の砌(みぎり)に出づるの条、頗(すこぶ)る耻辱(ちじよく)の由、日来(ひごろ)内々これを渋り申すと雖も、彼(か)は既に天下の名仁(めいじん)なり。適(たまたま)参向して、帰洛(きらく)近きに在り。其の芸を見ざるは無念の由、御台所頻(しきり)に以て勧め申さしめ給ふの間、之を召さる。偏(ひとえ)に大菩薩の冥感(みようかん)に備ふべきの旨、仰せらると云々。
 近日、只別緒(べつしよ)の愁(うれえ)有りて、更に舞曲の業(なりわい)無き由、座に臨みて猶(なお)固辞す。然而(しかれども)、貴命再三に及ぶの間、憖(なまじい)に白雪の袖を廻らし、黄竹(こうちく)の歌を発す。左衛門尉(さえもんのじよう)祐経(すけつね)、鼓(つづみう)つ。是(これ)、数代勇士の家に生れ、楯戟(じゆんげき)の塵を継ぐと雖も、一臈(いちろう)上日(じようじつ)の職(しき)を歴(へ)て、自ら歌吹(かすい)の曲に携はるが故に、この役に従ふか。畠山二郎重忠(しげただ)銅拍子をなす。
 静、先づ歌を吟じ出して云はく、「吉野山峯の白雪ふみ分て入にし人の跡ぞこひしき」、次に別物(わかれもの)の曲を歌ふの後、又和歌を吟じて云はく、「しづやしづしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな」。誠に是社壇の壮観、梁塵(りようじん)ほとほと動きつべし。上下皆興感(きようかん)を催す。二品仰せて云はく。八幡宮宝前に於て芸を施すの時、尤(もつと)も関東の万歳を祝ふべきの処、聞(きこ)し食(め)す所を憚(はばか)らず、反逆の義経を慕ひ別れの曲を歌ふこと奇恠(きつかい)なりと云々。御台所報(こた)へ申されて云はく、君流人(るにん)として豆州(ずしゆう)に坐(おわ)し給ふの比(ころ)、吾において芳契(ほうけい)有りと雖も、北条殿時宜(じぎ)を怖れて、潜(ひそか)に引籠(ひきこ)めらる。而(しか)るに猶(なお)君に和順し、暗夜に迷ひ、深雨(しんう)を凌(しの)ぎ、君が所に到る。亦、石橋の戦場に出で給ふの時、独(ひと)り伊豆山に残り留まり、君の存亡を知らず、日夜魂を消す。其の愁(うれえ)を論ずれば、今の静が心の如し。予州多年の好(よしみ)を忘れ恋慕(れんぼ)せざれば、貞女の姿にあらず。外に形(あらわ)るゝの風情に寄せ、中に動くの露胆(ろたん)を謝す。尤も幽玄と謂ひつべし。抂(ま)げて賞翫(しようがん)し給ふべしと云々。時に御憤(おいかり)を休むと云々。小時(しばらく)して御衣夘華重(うのはながさね)を簾外(れんがい)に押し出し、これを纒頭(てんとう)せさると云々。



現代語訳
 文治二年(1186)四月八日、源頼朝様と奥方様(北条政子)が、鶴岡八幡宮に参詣された。そのついでに、静を廻廊に召し出された。これは舞を披露させるためである。このことについて、以前にお命じになられた時には、静は病気を理由に参上しなかった。捕らわれの身では致し方ないが、伊予守(いよのかみ)源義経の妾として目立つ場に出るのは大層恥ずかしいことであるとして、日頃から内々に渋っていたが、「あの者はすでに(舞の名手として)世に知られております。それがたまたま鎌倉に来ていて、京へ帰るのが近いというのに、その芸を見ないのは甚だ残念でございます」と、奥方様が(頼朝に)頻りに勧められたので、これを召し出したのである。「必ず八幡大菩薩の御心にかなうようせよ」と命じられたとのことである。
 静は、「この頃は別れ別れになった悲しさに、とても舞うことなどできませぬ」と、その場に臨んでもなお固く拒んでいたが、(頼朝様が)再三お命じになられたので、止むなく白雪のような袖をひるがえして、「黄竹(こうちく)」の歌(仙女である西王母の曲)を歌いだした。工藤左衛門尉(さえもんのじよう)祐経(すけつね)が鼓を打つ。彼は数代も続く武勇の家に生まれ、武芸の技を受け継ぎながらも、六位の蔵人となり、(京へ上番した時に)自分から音曲を習っていたので、この役をつとめたのであろうか。畠山二郎重忠が銅拍子を打つ。
 静がまず歌い出して言うには、「吉野山の深く積もった雪を踏んで山へ分け入った、あの人のことが恋しくてならない」と。次に別な歌を歌った後、また和歌を吟じて言うには、「倭文(しず)の布を織る糸を巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、あなたと共に過ごした昔を、再び今に繰り返す手立てはないのであろうか」と。それはもう神前の壮観であった。神殿の梁に積もった塵さえも、感動の余りに動きだすかと思われる程で、(その場にいた人は)上下の別なく皆感じ入った。(ところが)頼朝様が言われるには、「(源氏の守護神である)八幡宮の神前で舞を披露するなら、関東(幕府)の長久安泰を祝うのが道理であるのに、聞いているのを憚らず、反逆した義経を恋い慕う別れの歌を歌うなど、怪(け)しからぬ」と。すると奥方様がそれに応えて言われるには、「君(頼朝)が流人として伊豆にいらっしゃった頃、私と密かに契っておりましたのに、北条殿(父北条時政)が平家への聞こえを恐れ、私を密かに閉じ込めてしまわれました。しかしそれでも君を恋い慕って抜けだし、闇の中を道に迷い、激しい雨に濡れながらも、君のおいでになる所に逃げ込んだものでございます。また石橋山の合戦に出陣なさった時は、一人で伊豆山の走湯神社に残り、君の生死もわからず、毎日魂も消えんばかりでございました。その時の愁いの胸の内は今の静の心と同じでございます。予州義経の長年の御寵愛を忘れて恋い慕わないようでは、貞女の姿とは言えませぬ。外に現れた舞の風情によせて、内に秘めた心を表すのが、これこそ趣深い幽玄の芸と言うべきではございませぬか。(お腹立ちも御もっともではございますが)、ここはまげてお褒め下さいませ」と。それで頼朝様もお怒りを鎮められということである。そしてしばらくしてから、卯の花重ねの御衣を御簾(みす)の外に押し出し、褒美としたということである。

 
解説
 『吾妻鑑』は、鎌倉幕府末期の正安二年(1300年)頃、鎌倉幕府が編纂した幕府の歴史書です。収録されているのは治承四年(1180)の頼朝の旗揚げから、元寇の少し前の文永三年(1266)まで、執権ならば北条時宗の代、第六代将軍の宗尊(むねたか)親王の時までですから、鎌倉時代を全て含んでいるわけではありません。また執権北条氏を正当化する立場から編纂されていたり、編纂の材料となったものには、政所や問注所の文書のほか、御家人から提出された文書や伝承、京の公家の日記、裁判の偽文書など玉石混淆であり、十分な史料批判を経なければ、歴史叙述の材料にはならないそうです。しかしこれだけ鎌倉幕府関係の史料がまとまっているものは他になく、鎌倉時代史の最も基本となる文献史料として極めて重要です。ここでは静御前の舞の場面を取り上げますが、史料としての学術的な正確さはこの際さておいて、そのまま読んでみましょう。
 壇ノ浦で平氏を滅ぼした後、源義経は兄頼朝に無断で朝廷から位階を受けたことなどにより頼朝の怒りをかいました。一度は頼朝追討の院宣を発した後白河法皇は、形勢不利と見るや、掌を返すように義経追討の院宣を発します。また頼朝は義経追捕のために守護・地頭を設置し、窮地に陥った義経は少数の郎等と愛妾の静を伴って雪深い吉野山に逃れようとしました。しかし女人禁制のため、静は京に帰されることになったのですが、途中従者に荷を奪われ、山中をさ迷っているところを捕らえられ、文治二年(1186)3月1日、その母と共に鎌倉に送り届けられました。
 頼朝は静を尋問させ、義経の行方を追求しますが、知るよしもありません。しかし静は女性ですから、いつまでも抑留するわけにもゆかず、京に帰らせることになったのでしょう。それを知った北条政子が静の舞を見たいと思い、八幡宮に舞を奉納するという口実で、舞わせようとしたわけです。
 しかし静はそれを頑なに拒否します。愛する人を捕らえて殺そうとする仇の前で踊るものかという、「女の意地」なのでしょう。しかし断り切れないとなった時、若葉の美しい四月八日のこと、静は意を決して、義経を慕う歌を歌いつつ優雅に舞いました。よりによって源氏の守護神の神前ですから、頼朝の面目は丸潰れです。頼朝の逆鱗に触れることはわかっていますから、命懸けの抵抗でした。
 案の定、頼朝は激怒しますが、その場を救ったのは何と北条政子でした。親の反対を押し切って流人である頼朝のところに駆け込み、また石橋山の戦いで頼朝が敗れて消息不明となった時も、頼朝の身の上を案じていたことを引き合いに出し、命懸けで愛する人を慕う一途な女心を説いたのです。これにはさすがの頼朝も戈を収めざるを得ませんでした。現在の鶴岡八幡宮には、舞殿という建物がありますが、静が舞ったのは社殿の廻廊です。その後社殿は改築されているでしょうから、具体的な現在の場所まではわかりません。
 静の歌った一つ目の歌は、『古今和歌集』にある壬生忠岑(みぶのただみね)の「み吉野の山の白雪ふみ分て入にし人の訪れもせぬ」を本歌としています。また二つ目の歌は、『伊勢物語』三十二段にある「いにしへのしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな」を本歌としています。『古今和歌集』や『伊勢物語』は、都の貴族階級なら知っていて当然の基礎的教養でしたから、静も都の白拍子という立場上、それらの歌を諳(そらん)じていました。「しづやしづ」には、義経が静を繰り返しその様に呼んでくれたという意味が隠れています。
 『吾妻鏡』には、その後の五月十四日、鼓を打った工藤祐経ら数人の御家人達が、静の宿所に押しかけて宴会を催し、静に「艶言(つやごと)を通は」せたことが記されています。酒の勢いにまかせて言い寄ったのでしょう。しかし静は「頗(すこぶ)る落涙」して抵抗しました。しかし五月二十七日、頼朝の娘の大姫(「大姫」とは長女のこと。名前は不明)の依頼には、喜んで応えて舞ったことも記されています。その大姫とは頼朝の従弟である義仲の子で、事実上人質として鎌倉に留め置かれていた義高の許婚(いいなずけ)になっていました。しかし寿永三年(1184)正月に義仲が頼朝の命により討たれたため、同年四月、頼朝が義高を討とうとしていることを察した大姫は、密かに義高を逃亡させます。しかし途中で露見して、義高は討たれてしまいました。この時大姫はわずか7歳(満5~6歳)でしたが、父に許婚を討たれた悲しみのあまり心の病となり、後に20歳で亡くなります。大姫の悲しみは、愛する義経が頼朝に討たれるかもしれない悲しみに沈む静には、痛い程わかるものだったからでしょう。
 閏七月二十九日、静は男子を出産します。これは義経の息子ですから、頼朝にしてみれば生かしておくわけにはいきません。そこで頼朝の命により、赤子は抱いて泣き叫ぶ静から無理矢理取り上げられ、鎌倉の由比ヶ浜の海に棄てられたのでした。その時の様子は『吾妻鏡』に、「静敢てこれ(赤子)を出さず。衣に纏(まと)ひ抱き臥し、叫喚すること数剋に及ぶ」と記されています。悲しみに沈む静は、9月16日、母と共に京に向けて鎌倉を去ります。その時、政子と9歳の大姫は「多くの重宝」を賜わったとも記されています。越えられない立場はありながら、女性の悲しみを共有していたのでしょう。
 『吾妻鑑』は、鎌倉幕府が編纂した幕府の歴史書ですが、この様なことまで記述されていることには驚かされます。事実を隠したり枉げる必要性のないことがらですから、この場合はほぼ事実のままと理解してもよいと思います。




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