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金銀比価問題の誤解

2020-08-27 15:49:42 | 歴史
幕末に欧米諸国と貿易が始まると、金銀比価問題が発生しました。教科書には「日本と外国との金銀比価が違ったため、。多量の金貨が海外に流出しました。」と本文に記され、欄外の注には、「金銀の交換比率は、外国では1:15、日本では1:5と差があった。外国人は外国銀貨(洋銀)を日本に持ち込んで日本の金貨を安く手に入れたため、10万両以上の金貨が流出した」と記されています。

 金が流出したことが大問題であるとされていますが、それは見方を逆にすればその分だけ銀が流入しているわけです。金銀比価が1:5であるとするならば、日本では金安銀高なのですから、価値の高い銀が大量に流入して結構なことではありませんか。貿易赤字を補填するために金が流出したわけではありません。そもそも私の単純な疑問はここから始まりました。

 この教科書の文章は実に誤解されやすいものなのです。これだけ読めば、外国では金対銀が1対15、日本では1対5であったと、誰もが思ってしまうでしょう。しかし実際はそうではありませんでした。中世ヨーロッパでは1:12が続いていましたが、16世紀に大量の銀がヨーロッパに流入すると銀が値下がりしたため、近代ヨーロッパでは1:15~16と銀安になっていました。一方日本では、江戸幕府は慶長14年(1609)に金1両=銀50匁という公定相場を定めました。これは1:10となります。しかし江戸後期には金1両=銀63匁くらいになっていましたから、およそ1:13くらいで、ヨーロッパよりはやや銀高ですが、大差があるわけではありませんでした。日本国内で一律に金銀比価が1:5であったことなど全くありません。日本では1:13くらいだったのです。

 ところが天保8年(1837)に、8.66gしかない天保一分銀が発行されたことが、後に大きな問題に発展してしまいます。これは銀の含有量は8.58gしかないのですが、それでも一分(4分の1両)として通用したのは幕府の権威によるもので、国内だけで流通している場合は、それで何とかなっていたのです。

 安政6年(1859)に欧米諸国と貿易が始まるとなると、大きな問題が生じました。通商条約には「外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を以て通用すべし」と定められていました。そこで欧米諸国は銀を23.1g含むメキシコ銀(洋銀・1ドル銀貨)1枚と、天保一分銀3枚の銀の量25.7g(8.58g×3)がほぼ同量であることから、メキシコ銀1枚は天保一分銀3枚と交換されるべきであると主張しました。

 それに対して日本側の主張は、天保小判には金が6.39g、銀が4.84g含まれているので、欧米の金銀比価1:16で計算すると、合計で銀約107.08g(金6.39g×16+銀4.84g)に相当する。これはメキシコ銀に含まれる銀の約4倍であるから、金1両はメキシコ銀4枚となり、メキシコ銀1枚は一分銀1枚と交換されるべきであると主張しました。1両は4分ですから、そういうことになるのです。しかし銀が8.58gしかない天保一分銀と23.1gも含むメキシコ銀を交換することを、欧米列強が認めるわけがありません。結局押し切られて、メキシコ銀1枚は天保一分銀3枚と交換されることになってしまいました。

 その結果とんでもない事態が発生します。まず外国人商人がメキシコ銀の1ドル銀貨4枚を(27g×4=108g)を天保一分銀12枚(8.58×12=約103g)と交換します。これはほぼ同じ重さの交換ですから、交換比率は1:1で、難の問題もありません。次に外国人は12枚の一分銀を両替商に持ち込み、日本国内の両替方法、つまり1両=4分という計算によって、天保小判金3両に両替します。天保小判は金6.39gですから、3両ならば重さは約20gになります。103gの一分銀が20gの小判金に交換できるのですから、その比率は1:5になってしまいます。そして外国人はそれを国外に持ち出し、1:15の比率で地金として売却します。するとメキシコ銀の約12枚に交換できることになるわけです。 難しい計算はともかくとして、外国人はメキシコ銀4枚を日本で一分銀12枚に両替し、さらにそれを小判金3枚に両替し、国外でさらに両替するだけで、日本に持ち込んだメキシコ銀4枚が3倍の12枚になってしまうのです。(小数点以下の末尾の数については、調査データにより多少幅があります)

 高等学校の日本史の教科書には、「金銀の交換比率は、外国では1:15、日本では1:5と差があった。外国人は外国銀貨(洋銀)を日本にもちこんで日本の金貨を安く手に入れたため、10万両以上の金貨が流出した」と記述されています。しかしそれでは、当時は日本の金銀比価が一律1:5であったと誤解されてしまうではありませんか。 本当の原因は、天保一分銀が額面の価値がないのに、幕府の権威で1分(4分の1両)として流通していたことを欧米人が逆手に取り、条約の「同種類の同量交換」を根拠として,有利な条件で金貨を国外に持ちだしたことにあるのです。学校の授業で「日本の金銀比価は一律に1:5であった」と教えているとすれば、それはとんでもない誤りなのです。まさか教科書がいい加減なわけがないと思うでしょうが、本当の話です。生徒にとっては難しい話ですから、先生としては「入試では、外国では1:15、日本では1:5と差であったことが問われるから、そのように覚えておけ」ということになってしまい、日本中の高校生が金銀比価が1:5であったと思い込んでしまうのです。いろいろ調べてみると、予備校の講師もそのように教えているようです。かつて教職に就いたばかりの頃は、私もおなじでした。

 それなら教科書の記述をどう直せばよいのでしょうか。日本ではその頃は銀貨と言えばほとんどが一分銀になってしまっていました。実際には一分の重さの銀ではないのに、幕府の権威で一分の価値、つまり四分の一両の価値を無理矢理持たせただけなのです。ですから日本では金対銀が1対5であったというのではなく、金対一分銀が1対5であったとしなければならないのです。教科書の記述が出鱈目とまでは言えませんが、誰もが誤解してしまう表現になっているのです。40年間の教員生活で地歴科の多くの仲間に尋ねてみましたが、正しく理解していた先生は極めて少数でした。

 このような金の海外流出を止めるには、メキシコ銀1枚と対等に交換できるように、増量した一分銀を発行すればよいのですが、幕府にはそれだけの余力も銀の備蓄がありません。そこで幕府は万延元年(1860)に、既存の小判金は額面ではなく時価で、つまり金の含有量に応じて通用させるように布告し、また天保小判と同じ品位で大きさを3割に低下させた万延小判金を発行しました。これにより新小判金に対する安政一分銀の金銀比価はほぼ欧米と同じになり、ようやく小判金の流出が止まったのです。

 私の書いていることが信じられない方は、「江戸時代末期における金銀比価について」と検索すると、松山大学論集に、貨幣史の専門の研究者である井上正夫氏の論文を閲覧できますから、ご確認下さい。ただ学術論文ですから、ちょっと気軽に読むには辛いかもしれません。しかし学校で日本史を教えている程の人ならば、必ず読んでほしいものです。

追記
同様の内容ですが、「日本史授業に役立つ小話・小技 24  金銀比価問題の真相」と題して拙文を公表していますから、併せて御覧下さい。 



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