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うたことば歳時記

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二十四節気(春)

2016-01-28 08:50:09 | 年中行事・節気・暦
 毎年のことですが、立春になると必ず旧暦が不合理であるという話を耳にします。実際の季節に合っていないとか、中国の暦をそのまま採り入れているからおかしいとか、中には日本版二十四節気を作るべきだとか(二至・二分・四立、つまり夏至・冬至・春分・秋分・立春・立夏・立秋・立冬以外を日本版にしようというなら、わからなくもありませんが・・・・・)、まあいろいろなのですが、その多くは暦についての理解不足によるものと思われます。それでその誤解を解こうと思いました。タイトルは「二十四節気」としましたが、二十四節気を中心として旧暦について少しお復習いをしようというわけです。すでに「旧暦の基礎知識」と題して駄文を公表しており、それと重複することが多いことはお許し下さい。

 まず一言で「旧暦」と言いますが、「正しくは何と言いますか」と尋ねると、「太陰暦」という答えがほとんどです。しかしまずここから誤解が始まるのです。正しくは「太陰太陽暦」と言うべきです。太陰、即ち月の運行と、太陽の運行を両方活かして作られている暦です。決して太陰暦だけではありません。

 それではまず月の運行について。月が地球を公転する周期はほぼ一定で、その周期平均は約29.53日です。四捨五入で30日ですが、太陽暦で1カ月をほぼ30日にしているのは、太陰暦の名残と言えるでしょう。そもそも「1カ月」という表現自体が、月の一巡を規準にしています。太陰暦では、新月から次の新月まで、つまり月の形が同じになるまでの長さを「一朔望月(いちさくぼうげつ)」と言います。「朔」は月が太陽とほぼ同じ動きをするため肉眼では見えない新月のこと、「満」は月が太陽と正反対の動きをする満月のことです。正反対ですから、原則として満月は日没の頃に東から昇り、日の出の頃に西に沈みます。話はもとに戻りますが、1朔望月、つまり月の1巡りを一月(ひとつき)とし、12カ月で1年とすると、1年は 29.53日×12回=354.367日 ということになります。

 ただし実際に1カ月が29.53日などという端数があっては運用できませんから、29日の小の月と30日の大の月を交互に6回ずつ設け、1年を354日とします。29と30をたして2で割れば29.5になりますから、(29+30)×6回=354日となり、354.367日と誤差が少なくなるのです。ところが、太陽の周りを地球が回る地球の公転周期は約365.24日ですから、354日を1年として使い続けると、365-354=11というわけで、実際の1年より約11日も短くなってしまいます。このずれは3年で1カ月を越えてしまいますから、暦と実際の季節が大幅にずれてしまいます。

 そこでこのずれを調節するため、約3年に1回の割合で1年を13カ月とし、季節とのずれをなるべく少なくなるように調節します。そうすると閏月のある年は13カ月になりますから、1年は382日、あるいは383日になります。閏月を一年のどこに差し挟むかについては、難しい理屈があるので、ここでは省略しましょう。この挿入される年を「閏年」と言います。「閏」とは「余分な」という意味です。今3年に1回 としましたが、19年に7回にすると誤差が限りなく少なくなるのですが、この知識は何と紀元前8世紀のバビロニアで発明されていました。


 太陰暦は月の運行を本にしていますから、基本的には毎月15日はほぼ満月であり、1日(ついたち)はほぼ月の見えない新月です。そもそも「ついたち」と言う言葉は、「月立ち」が訛ったものとされています。ちなみに「立つ」とは、見えないものがわずかに見えるようになることを意味しています。風が立つ、春が立つ、霞が立つ、面影が立つ、虹が立つなどは皆同じことですね。見えないはずの月が、わずかに見えるようになるので、月が立つ、つまり月立ち、ついたち、となるのです。とにかく旧暦では月の満ち欠けによって何日かおよそわかるので、便利なこともあります。大潮は新月と満月の頃、小潮はその中間ですから8日と23日の頃となる。満月は15日ころですから、「十五夜」という言葉も生まれるわけです。とにかく、太陰暦では同じ日ならば月の形はほぼ同じ、ついでに太陽暦なら同じ月日ならば季節はほぼ同じというわけです。


 さて今日はこれくらいにしておきますが、次は二十四節気や七十二候のお話するつもりです。 1月28日、またそのうち覗いて下さい。


 昨日は月の運行、つまり太陰暦による日付は、太陽の位置とは無関係であるため、暦と実際の季節とにずれを生じてしまうというお話しをしました。都会で生活しているとあまり実感がないでしょうが、農業をする場合は、このずれは無視できないものです。そこで1年間、つまり1太陽年を24に区分して、それぞれの期間の季節的な特徴を表す名前を付けた二十四節気を太陰暦と併用し、農耕などに必要とされる気候の目安が考案されました。1太陽年を24に分けるのですから、節気はほぼ15日ごとに替わるわけです。1年を12カ月で割れば、1月はほぼ30日ですから、24で割ればほぼ15日ですよね。二十四節気は紀元前3~4世紀、中国の戦国時代に、黄河の中流域で考案された季節の目盛りです。現在日本で使われている二十四節気は、中国のものをほぼそのまま受け容れています。ですから、「中国の規準をそのまま日本に適用する旧暦は不合理である」という主張にも、十分一理はあるわけです。しかし二十四節気の中には、二至・二分・四立、つまり夏至・冬至・春分・秋分・立春・立夏・立秋・立冬が含まれていて、これは中国であろうと日本であろうと関わりのないことです。日本で夏至の日は、中国でも夏至ですし、日本で冬至の日は、中国でも冬至ですから、二至・二分・四立だけは全世界共通です。ですから、これを日本版にということはあり得ないのです。


 さて、農業をしている人にとっては、この15日ごとの刻みでも、目盛りが粗いのでしょう。二十四節気をさらにほぼ5日ずつの3つに分けた七十二候も考え出されました。これは気象の動きや動植物の変化を表す短文になっています。二十四節気は古代中国のものがそのまま日本でも使われていますが、七十二候の各名称は、18世紀の初め、渋川春海らの天文・暦学者によって、日本の風土に合うように改訂され、「本朝七十二候」が考案されました。現在では1874年(明治7)の「略暦本」に掲載された七十二候が一般に使われています。それでも現代人の感覚からすれば、季節がずれていると思うものもあり、これを現代風に直そうという主張なら、理解できないこともありません。

二十四節気や七十二候の具体的内容については、また後でお話しするつもりです。 1月29日


二十四節気は、いわば季節の移り変わりを表すため、1年間という期間に刻まれた24の目盛りと理解できます。目盛りという以上はどこかに原点となる基準が必要ですし、目盛りの間隔はまた等くなければなりません。そしてその原点も、誰が見ても納得できて、誰がどこで計っても同じにならなければなりません。そうなると、少なくとも二十四節気の原点は、寒暖などの気候や動植物の生態では決められないことになります。それは場所によって異なるからです。そうすと目盛りの原点になり得るものは、自ずから決まってしまいます。つまり太陽の運行以外にはないのです。そもそも1年という期間は、太陽の動き(実際には地球が太陽の周りを公転しているのですが)によるのですから、それが自然なことなのです。

 それならば太陽をどのように寸分違わず正確に観測できるのでしょうか。太陽を長時間直接見ることは、眩しくてできません。しかし太陽の動きは影となって地表に表れますから、それを観測すればよいのです。まず地面に限りなく水平の平面を作ります。そしてそこに絶対に動かない石柱などを立てます。そしてその石柱の中心から真南に線を引き、石柱の影の先端と南北の線が重なる位置を、一年間毎日正確に記録し続けます。すると、例えば寒くなりつつある時期であれば、影は次第に長くなりますが、ある日を境にして影が短くなり始めます。つまりその境の日は太陽高度が最も低くなる冬至であるわけですが、便宜上まだ「冬」という表現は使わないことにしておきましょう。そして影はどんどん短くなって行くのですが、ある日を境に、長くなり始めます。それが太陽高度の最も高い夏至になるわけです。しかし同様にまだ「夏」という言葉がないことなしておきます。こうして太陽高度の最低・最高の日、つまり冬至と夏至という基準が定まります。これは北半球と南半球では入れ替わりますが、目盛りの位置としては同じことです。こうして地面に引かれた南北の線上に、夏至と冬至の影の位置が決定しました。あとはその中間地点を測定します。つまりその地点に影が来る日が春分と秋分になる。こうして1年間という期間が、冬至・夏至・春分・秋分、つまり二至と二分という4つの目盛りで4等分されました。しつこいようですが、この時点では、まだ春夏秋冬という言葉はないということにして下さい。

 次にこの二至と二分を四季それぞれの期間のピークと理解して、それぞれの前後に1.5カ月の幅を持たせると、3カ月の季節が4つ並ぶことになります。そしてここで漸くそれらの期間に春夏秋冬と名付けます。つまり四季は気温や気候によって決められたのではなく、太陽高度の観測によって、機械的に1年間を4等分して決められたのです。それで春は暖かいものと決めてかかると、「立春になったのにこんなに寒いなんて、旧暦は実際の季節に合っていない」という誤解が生じてしまうことになります。

 一寸質問が出そうなので触れておきますが、南北の正確な測定方法をご説明しましょう。水平面に立てた 石柱を中心として、石柱の影と接する程の大きさの円を地表に書いておきます。すると午前と午後に1日に2回、影が円と接しますから、その接点を結ぶ線が必ず東西になります。あとはそれに直交する線が南北になるわけです。脱線ついでに、奈良時代の遣唐留学生の一人である吉備真備は、冬至の影を計るために、長さ8尺の棒を唐から持ち帰ったとされています。

 こうして二至・二分・四立の八つの目盛りが刻まれました。この目盛りはいずれも二十四節気の中に含まれています。あとは8等分された期間をそれぞれ3等分し、その時季に相応しい名前を付けたわけです。こうして二十四節気の目盛りができました。これが日本の季節には合わないこともあるというなら、その通りだと思います。例えば2月19日頃の「雨水」ならば、雨が雪に変わると言われても、まだまだ雪が降り続ける地方もあるかと思えば、雪すら降らない地方もあるわけですから、全ての地方に当てはまるはずはありません。初めから歴史的文化遺産と考え、そういうものだと割り切って理解するしかないと思います。「旧暦はナンセンス」などといきり立つ程のことはないでしょう。

 今日はこれくらいで失礼します。また続きをご覧下さい。   平成28年1月30日


二十四節気が1太陽年に刻まれた目盛りであることをより理解するために、次のように考えたらよいと思います。まず宇宙の中心に太陽がありますが、太陽を時計の針の軸と想定して下さい。その軸を中心として針が1年間をかけて1周します。針の先端には地球が付いています。つまり地球の公転軌道という文字盤の上を、地球が動く針となって一周する、巨大な季節時計をイメージするわけです。針は右回りでも左回りでも同じことですが、実際に合わせて左回りということにしておきましょう。まず12時を冬至と仮定します。すると6時が夏至、9時が春分、3時が秋分となります。これで4等分ですね。次はそれぞれの期間の中間地点を決めましょう。すると12時と9時の真中が立春、9時と6時の間中が立夏、6時と3時の間中が立秋、3時と12時の間中が立冬というわけです。これで8等分になりました。次はそれぞれの期間をさらに3等分すると、3×8で24等分されます。こうして1太陽年の文字盤に24の刻みができました。365日÷24は約15ですから、ほぼ15日ごとに節気が替わります。しかし農業をしている人にとっては、この目盛りは粗すぎるのでしょう。もっと細かい目盛りが要求され、各節気をさらに3等分して、全体を72等分したものが考案されました。これが七十二候というわけです。ですから七十二候は5日ごとに替わることになります。

しつこいようですが、暖かい春になるから「立春」というわけではないということは、もうしっかりと理解していただけたことと思います。そんなことわかっているという方には、しつこくて御免なさい。しかしそう言わざるを得ない程、誤解されているのです。次回は二十四節気について、一つ一つその内容を確認してみましょう。                平成28年1月31日


 先日、立春などは太陽の黄経角度により決定されるのではとのご指摘がありました。もちろんその通りですが、それが315度になる日が立春だと言われても、実感としてはピンと来ませんので、身近に理解できる方法で、ご説明したわけです。

 さて二十四節気の最初は立春です。たまに2月5日の年もあるのですが、普通は2月4日ですので、2月4日頃としておきましょう。冬と春の境目である節分の翌日、冬至と秋分の間中の日に当たります。立春を過ぎても寒さはまだまだ厳しく、それを「残寒」とか「余寒」と称して、手紙の時候の挨拶にはよく使われますね。唱歌『早春賦』に「春は名のみ」と歌われるのも、気持ちとしてはよくわかります。しかし古歌には「名のみの春」という常套的な表現はなく、作詞者の造語かもしれません。『早春賦』については、私のブログ「うたことば歳時記」に拙文を公表していますから、ご覧下さい。
 現在では立春にはこれといった伝統的習俗がありません。しかし古には一年の始まる日と理解されていました。それは「八十八夜」や「二百十日」などの雑節の起算日になっていることでも納得していただけるものと思います。また古人はこの日、東の空を眺めて、霞が立っていないかと気にしたものです。霞は春の立つ徴と理解されていましたから、春が立つからには、霞が見えるはずと観念的に理解していたのです。そういうことを踏まえて、『枕草子』の冒頭「春は曙、やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」を読むと、少し理解が違ってくるのではないでしょうか。

 春霞については、「春の立つ徴」と題して拙文を公表していますから、ご覧下さい。           
                                                      2月1日

立春には「立春大吉」と書いた紙の護符を門に貼る習俗があります。これはもともとは曹洞宗の寺院で行われていたのですが、現在は寺に限ったことではないようです。「立春大吉」という字は、左右対称に見えることから、邪鬼が門を潜って後ろを振り返ると、立春大吉と読めるので、まだ門を潜っていなかったかと勘違いし、潜ったつもりで出て行ってしまう、という説明がされています。如何にも後で取って付けたような理屈ですね。「大吉」という言葉自体が日本古来のものではありませんし、おそらく中国の道教の俗信が禅宗と共に持ち込まれたものでしょう。理屈は後からどのようにでも付けられるものです。

 二番目の二十四節気である雨水は2月19日頃ですが、立春からそれまでの間を3等分し、五日ごとに三つの七十二候が置かれています。最初が「東風解凍」(はるかぜ こおりを とく)です。皇太子様を意味する「東宮」は「はるのみや」と訓読みするように、「東」とは「春」のことですから、「東風」は東の方から吹いてくる風のことではありません。菅原道真の歌に「東風吹かば・・・・」という有名な歌がありますが、これを文字通り「東風が吹いてきたら」と解釈されることが多いのですが、これは明らかに誤解です。大宰府(太宰府ではない)は京の都からは西の方角ですから、結果的には東の風でよいのですが、それはあくまでもたまたまそうなっただけのこと。「東風」とは春風のことなのです。                                        2月2日


 2番目の七十二候、つまり立春の次候は、「黄鶯睍」で、「おうこうけんかす」と読み、鶯が山里で鳴き始めるという意味です。ところが「黄鶯」は高麗鶯という鳥で、日本の鶯とは色も大きさも鳴き声も全く異なる鳥なのです。たまに日本に飛んでくることもあるのですが、私はまだ見たことがありません。中国の古代文献の鶯と日本の鶯は同じではないことは、注意しておかなければならないでしょう。ただこの七十二候を考えた江戸時代の暦学者は、「黄鶯」といっても高麗鶯を想定したわけではないでしょう。当然日本の鶯と考えたはずですから、「黄」は無視して、鶯が鳴くと理解すればよいと思います。鶯の鳴き始める時期は、それこそ地域によってかなり時間差がありますから、そもそも七十二候に数えること自体に無理があります。中国の宣命暦の七十二候では、2番目は「蟄虫始振」ですから、「黄鶯睍」は江戸の学者が作った日本版七十二候です。江戸で鶯がいつ頃から鳴いたか、日記などを調べればわかるのでしょうが、とてもそのような余力はありません。東京に近い私の家の側では、毎年2月下旬に鳴き始めます。まあ実際に鳴くかどうかということより、鳴いて欲しいという心を反映したものと理解したらよいのでしょう。
   ○降り積もる雪消えがたき山里に春を知らする鶯の声  (後拾遺 春 21)
たとえ雪が未だ消えなくても、鶯の声さえ聞けば、春になった実感が湧いたのでしょう。鶯はまさに「春告げ鳥」なのです。 2月3日


 立春の末候は「魚上氷」で、「うお、こおりに のぼる」と読みましょうか。「うお こおりを はいずる」と読ませる辞書もありました。これは日本の暦も中国の宣命暦も同じです。魚が氷の上に飛び跳ねて乗ってまうと文字通り解釈するのは、一寸無理がありそうですね。春風が氷を解かしたので、それまでは見えなかった魚の泳ぐ姿が見えるようになる、という理解でよいのではと思っています。春を告げる花が梅なら、春を告げる鳥は鶯。それなら春を告げる魚は何でしょう。もちろん共通理解されているわけではありませんが、さかなへんに春と書けば「鰆」、つまり「さわら」のことです。確かに春には店頭に並びますね。また北国では、かつて鰊の群れが押し寄せたのも春のことでした。またメバルも春に美味しい魚とされています。まあこれらの魚は淡水魚ではありませんから、氷の解けた後に見える魚ではありませんが、いずれも春らしい魚ですね。まあとにかく、本当に魚が氷の上に飛び跳ねるのかなどと杓子定規に考えず、清流に魚の姿を見て、春を感じ取ればよいのではないでしょうか。                             2月4日 立春の日


 書くのを数日間怠けていたら、もう次の節気が迫ってきました。立春から15日経てば雨水ですね。雨水は2月19日頃です。寒さも峠を越えて、雪が雨に変わり、雪溶けが始まる日ということになっているようですが、南北に長い日本で、また太平洋側と日本海側と全く寒さが違いますから、余り意味のないことだと思います。また雨水の日を目安にして農耕などの準備を始めるという解説もあるようですが、これも同じことでしょう。今日は建国記念の日で祝日だったので買い物に出たところ、馬鈴薯の種芋がたくさん並んでいました。成る程、農耕の準備をする頃かと思ったことですが、それはあくまでもこの周辺でのこと。「雨水」には随分と無理があるなと思った次第です。

 ただ近年、雨水に雛を飾ると良縁に恵まれるなどというネット情報がたくさんあるのには驚きました。もし太陽暦の3月3日に雛祭りをするならば、次の節気の啓蟄は3月6日ころですから、啓蟄に飾るのでは遅すぎます。そこで雨水に飾るというのでしょうが、良縁云々は雛を売る店が言い出したことか、あるいは迷信で、史料的根拠など全くありません。中には「神話によれば」などとさも根拠があるかのように書いてありましたが、これは脅迫紛いだと思います。そもそも桃の花の咲かない桃の節句はおかしいと思うのですが。このように季節感を大切にする伝統行事は、旧暦でなければ実感が湧きません。しかし現実には周囲でみな雛を飾ったりしているでしょうから、うちは旧暦でなどと言うのも難しいのでしょう。雨水に飾れば良縁があるということはどうでもよく、早めに飾って当日まで眺めながら楽しめれば良いのだと思います。

 雨水の期間の初候は、日本では「土脉潤起」で、「つちのしょう うるおい おこる」と読みます。雨が降って土が湿るという意味なのですが、「雨水」なのですから、まあこれは素直に理解できるでしょう。中国の初候は「獺祭魚(かわうそ うおを まつる)」です。カワウソは餌の魚を捕らえてくると、それを並べて食べるとされ、それが天を祀っているようだと理解されていたことに因ります。しかし現代ではもうカワウソを見ることはありませんし、実感はまったくありません。ただ正岡子規が自らを「獺祭書屋主人」と号したことが思われます。それは唐の詩人である李商隠という人が、詩作に際して多数の書物を座の周囲に置いて参照したことを、獺が魚を並べているようだと理解して「獺祭魚」と自称したことにならい、病床の周囲に多くの書物を並べながら、唐の詩人のように、自分も短歌や俳句の革新に励もうと考えたことに因っています。                                     2月11日


のんびりしているうちに、雨水の次候「霞始靆」が近付いてきました。これは「霞、始めてたなびく」と読みます。春霞という言葉はよく聞きますが、そもそも霞とはどのようなことなのでしょうか。古代中国では、霞は朝焼けや夕焼けのことを意味していました。しかし日本では微細な水滴が空中に漂って、遠くがはっきりと見えないことを意味しています。同じような現象に霧や靄(もや)や朧(おぼろ)がありますが、気象用語としては視程1㎞以上が靄、1㎞未満が霧と言います。霞は気象用語ではなく、それこそ霞のようにはっきりとはしないのです。ただし霞は昼間に限られ、夜の場合は朧と言います。

 古来、霞は春が立った徴と理解されてきました。『古今集』いらいの和歌集を開けば、春の歌の冒頭部分には、ずらりと春霞の歌が並んでいます。「昨日こそ年は暮れしか春霞春日の山にはや立ちにけり」(拾遺集 2)これは立春の朝の歌で、古人は霞は立春の朝から見えるものと決めてかかっていました。春日山だから春霞が立つというところに作者の意図があるのでしょう。「霞始靆」は今年は2月24日ということになっていますが、あまり何日かは問題にしない方がよいと思います。七十二候は無理して当てはめているような気がしますね。それより春霞を堪能したいものです。春霞は春の女神である佐保姫の衣の裾に見立てられてきました。「佐保」という言葉は、優雅で女の子の名前にぴったりですね。娘が生まれたら名付けてやりたかったのですが、あいにくみな男でした。        2月18日


 雨水の末候は「草木萠動」で、「そうもく めばえ いずる」と読みます。そしてこれは中国の七十二候でも同じです。草木が芽吹き始めるということなのですが、このような七十二候は、正直なところ面白くありませんね。植物の種類で芽吹き始める時期は全く異なるでしょうし、それぞれの植物にそれぞれの「時」があり、それがつぎつぎに移ってゆくからこそ面白く飽きが来ないのではないでしょうか。芽生えと言えば、私は「このめはる」という古語を思います。漢字で書けば「木の芽張る」となり、木の芽が膨らんでくることを意味しているのですが、「張る」が「春」と同音であることから、「春」の枕詞とされています。ただこの場合は同音の「はる」を繰り返す面白さだけではなく、春には木の芽が膨らむという意味も兼ねています。そのような例を一つ御紹介しましょう。
  「四方の山にこのめはる雨降りぬればかぞいろはとや花の頼まむ」(千載集 春 31)
「このめはる」が「はるさめ」に掛かっていますね。木の芽が膨らんでくる春に降る春雨は、花の「かそいろは」であることだ、という意味なのですが、「かそいろは」とは父母を意味する古語です。ですから春雨が木の芽を芽吹かせ、また花を咲かせる親である、春雨は植物を育んでくれるというわけなのです。「頼む」とは古語では「あてにする」とか「頼りにする」という意味で、現在の「たのむ」とは少しニュアンスが違いますね。「花が雨を親とも頼む」なんて、可愛いではありませんか。               2月25日


 雨水の次は3月6日頃の啓蟄です。「啓」は開くことを意味しています。(手紙の冒頭の「拝啓」の「啓」は「申し上げる」という意味)「蟄」は「虫が土に籠もる」という意味ですから、寒い冬に土の中で縮こまっていた虫が、陽気に誘われて這い出てくるという意味です。しかし二十四節気のことでいつも思うのですが、そんなことは生物や地域によってまちまちであり、杓子定規に決めつけること自体に無理があります。またネット上ではみな判で押したように、どこかから借りてきて貼り付けたような同じ解説ばかり。生活感や実感のないものが氾濫しています。そのこともいつも疑問に思っています。日本では「虫」と言えば昆虫の類の虫を思い浮かべますが、「虫」は本来は蛇の象形文字であり、中国では蛇などのは虫類も含んでいます。土の中から這い出してくるというなら、むしろ蛇や蛙などの方が啓蟄の実感がありますね。そもそも多くの虫は卵や蛹で冬を越し、土の中で成虫が冬越しする種類はむしろ少ないのではないでしょうか。虫に詳しい人なら、そんなことはないと言うかもしれませんが、普通の生活をしていると、成虫のまま土の中に籠もっている虫を見かけることはあまりありません。むしろ日溜まりでは立春前からテントウムシやクビキリギスを見かけました。
 立春を過ぎて初めて鳴る雷を、「虫出しの雷」と言います。「春雷」という歌があるそうですが、私は全く知りません。春先は一年の中で特に雷が多い季節ではありません。回数から言えば8月が多いのは当然ですが、回数を折れ線グラフにすると、3月が一つのピークになっているのは確かです。それは12~2月が最も少ない時期なのですが、3月になると急に増えるのです。ですから回数だけなら5~9月の方が3月より多いのに、急に増えるために3月の雷が印象に残り、「春雷」という言葉が意味を持ってくるわけです。「虫出しの雷」という言葉は、啓蟄の頃に鳴ることによる呼称でしょう。
 啓蟄も春雷も古歌には全く登場しません。まあ少し知られているところでは、次の一首くらいでしょうか。
   ○ちはやぶるかみなりけらし土に巣に籠もる虫も今は出でよと(六帖詠草拾遺   小沢蘆庵)
啓蟄の初候は「蟄虫啓戸」で、「すごもりむし とをひらく」と読みます。けれでは啓蟄と全く同じですから、敢えて七十二候に選ぶ意味はありませんね。

啓蟄の次候は「桃始笑」で、「もも はじめて さく」と読みます。今年は太陽暦では3月10日、旧暦では2月2日にあたります。桃の花の蕾が開き始める頃というのですが、旧暦3月3日が桃の節句とするならば、少々早い気がします。それでも花が咲く時期は場所によってずれますから、問題にすることでもないでしょう。それより花が咲くことを「笑」と表現することがとても面白いと思います。『万葉集』の1257番に「道の辺の 草深百合の 花笑みに 笑みしがからに 妻と言ふべしや」という歌があります。万葉仮名では「道邊之 草深由利乃 花咲尓 咲之柄二 妻常可云也」と表記されているのですが、「咲」を「えむ」と読ませています。国語学者ではありませんので専門的なことはわかりませんが、万葉の時代から花が咲くことを「笑う」と理解することがあったことが確認できます。 3月6日

 啓蟄の末候は「菜虫化蝶」で、「なむし ちょうと なる」と読みます。青菜に付く幼虫は何種類もありますが、蝶になるのはモンシロチョウと考えてよいのでしょう。庭にブロッコリーを少々植えているのですが、秋には毎日のように葉の裏に生み付けられた卵を取るのが大変でした。それでも取り切れずに蛹になってしまいますが、蛹までなった物は何だか可哀相で、そのままにしてやります。3月中にはいつのまにか蛹もなくなっているので、羽化していくのでしょう。
 昆虫の専門書を見ると、奈良時代には大根類と共に日本に渡来しているそうですから、万葉の時代にはいたはずですのに、古歌に詠まれることは極めて少なく、人々の関心をひくことはなかったようです。 
                      3月7日


そろそろ春分が近付いてきました。いつも追いかけられて書いていますが、この調子で一年間書き続けられるか少々心配です。春分は3月21日頃で、もう今さら説明の必要もないことですが、昼と夜の長さがほぼ同じになり、太陽が真東から昇って真西に沈みます。法律上は「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」として祝日になっています。戦前は春季皇霊祭として堂々と祝日でありましたが、戦後はそのような理由付けができないため、「自然を云々・・・・生物を云々」と、随分無理をして屁理屈を付けています。「皇」の字がまずいのなら、祖先を敬う日でよいのにと思うのですが。敬老の日があるのですから、敬祖の日があってもよいではないかと思っています。歴史的には彼岸と呼ばれ、仏事を行う日とされてきましたが、そのことについては私のブログに「彼岸と極楽浄土」という題で詳しく書いておきましたから、そちらを御覧下さい。

 西方極楽浄土と言われるように、極楽浄土は真西の彼方にあると信じられてきたのですが、この日ばかりはその西が正確にわかりますので、極楽に思いを馳せることになったわけです。この日に仏事を営む習慣は平安時代にはありましたが、墓参をするということはあまり行われていませんでした。そもそも庶民が墓石のある墓に葬られることが一般化したのは、せいぜいこの1世紀ほどのことなのですから。また祖先を供養するのも、もっぱら盂蘭盆の行事でした。彼岸に墓参をする習慣は、皇室で春季・秋季皇霊祭を行い、この日が祝日になったことによるものです。もちろんこの日に仏事を行うことは平安時代以来の伝統ですから、極楽を身近に感じることは古くからのことなのです。

 極楽と言えば阿弥陀如来のおいでになる所とされていますが、「阿弥陀」は音訳ですから、文字自体には意味がありません。意訳すれば「無量寿」「無量光」ですから、永遠の命とか永遠の光という意味で、イエス・キリスト様の説かれたことと同じです。人が最も恐れるものは闇であり死であります。その対極が光と命です。でいすらお彼岸とは、その光と命に思いを馳せる日、そのように私は理解しています。

 春分の時期の初候は今年は3月21日の「雀始巣」で、「すずめはじめてすくう」と読みます。秋から冬にかけては、雀は群れで行動をしています。竹藪が「雀のお宿」になって賑やかなのもこの間のことです。しかし彼岸の時期になると、つがいになって単独に行動するようになります。雀は身近にいるでしょうから、一寸注意深く観察してみて下さい。次候は3月25日の「桜始開」で、「さくらはじめてひらく」と読みます。桜が咲き始めるのは場所と品種とによって異なりますから、あまり意味のないことですね。末候は3月30日の「雷乃発声」で、「かみなりすなわちこえをはっす」と読みます。もちろん「らい」と音読みしてもよいでしょう。これもその時の天気によることですから、あまり意味はありません。ただ啓蟄のところでもお話ししましたが、3月には急に雷が増えることは、気象庁のデータを見る限りは事実のようです。   3月16日



 春分の次の節気は清明で、4月5日頃にあたります。一般には「万物が清々しく明るくなる頃」と、清と明の字義を取り込んで説明されています。しかし清々しいかどうか、明るいかどうかは感じる人の主観や場所や天気に因ることであって、あまり字義に意味はないと思います。まあ確かに桜やその他の春の花が咲き競い、長閑な天気が続きますから、清々しく明るいというのも理解できないことではありません。
 中国では清明節には祖先の墓参をする習俗があります。日本では一つ前の節気である春分に、「彼岸」と称して墓参をしますが、春分・秋分に墓参をするのは日本独自の習俗で、中国にはありません。長年明や清に朝貢することによって中国文化の影響の強い沖縄でも、「清明」を「シーミー」と称して、墓参をします。沖縄の墓は陰気臭くなく、清明節には日には一族が揃って祖先の墓に詣で、墓の前の狭い広場に御馳走を広げて半日楽しく過ごす習慣があり、今も行われています。

 そういえば沖縄の新聞には、連日のように葬儀の広告が一面いっぱいに掲載され、各広告には関係者の名前がずらりと並んでいます。初めて沖縄の新聞を見たときには大変驚きました。たまたま入った沖縄蕎麦の店で尋ねると、毎日新聞を読むときは、まずは葬儀の広告を広げ、義理を欠いてはいけない葬儀があるかどうかを確認してから、他の記事を読むと言っていました。清明の墓参にせよ、新聞の葬儀の広告にせよ、沖縄の人は祖先を大切にし、また祖先の供養を通して一族の連帯を確認しあっているように見えます。逆に沖縄では彼岸に墓参をすることは一般的ではありません。
 「清明」と言えば、中国の至宝である「清明上河図」を思い出すことでしょう。先年、日本でも公開され、見た人も多いと思います。「上河」は「川のほとり」という意味ですから、「清明上河図」とは清明節の頃の川のほとりの図という意味で、日本の「洛中洛外図屏風」が固有名詞ではないように、中国のある特定の図を指しているわけではありません。「清明上河図」は何種類もあるのです。いずれの「清明上河図」も、春の長閑な川辺の風景と、川岸に繁栄する都市の賑やかな風景が描かれています。手許にその精密な複製があるのですが、隅から隅まで調べても、墓参に関わる場面は見当たりません。

清明節の初候は「玄鳥至」で、「つばめいたる」と読みます。「玄」は「黒」と同義ですから、「黒い鳥」のことなのですが、色だけから言えば烏(からす)の方が相応しいのですが・・・・。次候は「鴻雁北」で「こうがんきたす」と読みます。古来、燕と雁は入れ替わりになると考えられていて、燕が来る頃には入れ替わりに雁が北に還り、秋に燕が南に還る頃に雁が戻って来ると理解されていました。古歌には雁が桜の花を見ないうちに帰ってしまうことを詠んだ歌がたくさんあります。末候は「虹始見」で、「にじはじめてあらわる」と読みますが、いつものことですが、このような七十二候には無理がありますね。      3月 24日

 
4月も半ばとなり、そろそろ穀雨の節気が近付いてきましたので、穀雨について少々書いてみましょう。清明から15日後のことですから、4月20日頃にあたります。その15日後は立夏となりますから、春も最後の節気で、春の名残を惜しむ時期でもあるわけです。「穀雨」という呼称は、春雨が穀物の生長を促すことを意味していますが、もともとは中国の華中地方の農業を基準に付けられた呼称ですから、日本的に理解するならば、この時期に生長する穀物は麦ということになるのでしょう。暖かい春の日ざしを浴びながら、麦畑の側を散歩すると、穂が伸びてきていることもあることでしょう。地域によって多少は異なるでしょうが、日本の「穀雨」は、麦畑で感じ取るものだと思います。
 ネット情報や暦の解説書では、「春雨が百穀を潤す時期」とか、「雨で潤った田畑は種まきの好期」とか、「この日に合わせて田畑の準備をする」などと、決まり切った説明ばかりですが、実際には地域の気候や農作物の種類によってまちまちであり、実生活に裏付けられた生活感が全くありません。このことは常々、節気の解説について不満に思っていますので、私は私の経験や知識をもとにして節気を理解しています。一寸脱線してしまい、申し訳ありません。
 「穀雨」の「雨」については、古歌の中に思い当たることがあります。「雨水」の「雨」についても当てはまるのですが、春の雨は植物の生長を促し、春雨が野辺を緑に染めるとか、春雨は野辺の親であるという理解があったのです。古代においては、布を織って染めることは、普通にどの家でも行われていました。染汁に難解も浸すことによって、布の色が次第に濃くなってゆく。そのような日常的経験をもとに、雨が大地を潤すごとに、ぐんぐんと植物が生長し、緑が濃くなってゆく。春雨のめぐみによって、まるで親の慈しみによって子が成長するように、植物が生長すると理解していたのです。(このような古人の春雨理解については、私のブログ「うたことば歳時記」のなかの「春雨」に書いておきましたので、そちらを御覧下さい)そのような擬人的自然理解を、現代人はすっかり失っています。このような心を回復すると、同じく自然を見ても、麦畑を見ても、お日様が優しく照らし、雨が麦を育んで、そしてその豊かな稔りを有り難く頂くという、おおらかな心、また自然に感謝する心ができるようになると思っています。
 
 穀雨の時期の七十二候としては、まず初候が「葭始生」で、「よし はじめて しょうず」と読むことになっています。しかし古歌の好きな私としては、「よし」よりも「あし」と読みたいですね。本来は「あし」だったのですから。「あし」が「悪し」に音が通じることから、「悪し」の反対の「良し」に通じる「よし」と読むようになり、ついに植物辞典にも「ヨシ」と載るようになってしまいました。しかし日本は「豊葦原の瑞穂の国」だったのですから、ここは私としては「あし」でなければと思っています。それはそうと、葦が芽を吹き始めるのはいくら何でもこんなに遅くはありません。葦の芽は葦牙(あしづの)と称され、『古事記』の冒頭にも、葦の芽がつぎつぎと芽生えるように、神々が生じたと書かれています。葦の芽生えを見ることがあれば、そのことに思いを馳せるのですが、時期的にはもっと早いはずです。
 次候は「霜止出苗」で、「しも やみて なえ いず」と読みます。霜が下りることがなくなり、稲の苗が生長するという意味です。霜がいつ頃まで降りるのかは、それこそ地域によって異なりますが、この時期の霜と言えば、「八十八夜の別れ霜」というこが思い浮かびます。八十八夜は立春から数えて八十八日頃、つまり5月2日頃に当たります。例年ならば最後の霜が降りる頃なのでしょう。この頃に霜が降りると、せっかく生長してきた農作物の新芽が霜で焼けてしまい、農作物に大きな被害をもたらすことがあります。どうかすると「九十九日の泣き霜」が降りることもあり、農家を泣かせることになるというわけです。
 八十八夜と聞けば、唱歌『茶摘み』の「夏もちかづく八十八夜」という歌詞が思い浮かびますね。ちょうど茶摘みの時期なのでしょう。茶畑には防霜ファンのついた電柱が何本も立っていて、茶畑の表層の空気を攪拌し、霜が降りて茶の若芽がやられないようにしていますね。
 末候は「牡丹華」で、「ぼたん はな さ」と読みます。そのまま牡丹の花が咲くということですが、これも地域によって時期はまちまちでしょう。

 繰り返しになりますが、この穀雨の時期は春の暮れる時期です。あれ程に待ち焦がれた春でしたのに、時の流れの早いことに驚かされるものですね。 平成28年4月11日

このまま一年間続けていくととても長くなってしまいますので、春の節気が一応終わったところで一旦終わりにします。夏の節気はあらためて別に書くつもりです。


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