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鎌倉幕府はいつできた? 日本史授業に役立つ小話・小技40

2024-05-10 21:02:06 | その他
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

40、鎌倉幕府はいつできた?
 かつては鎌倉幕府成立の年代は1192年とされていましたが、最近は1185年であるという解説がネット上に溢れています。しかし私は賛同できません。この問題の鍵は、「幕府」とは何かということにあります。それが決まらなければ、幕府の成立時期を論ずることはできません。鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府と言う時、その「幕府」は、一般には武家政権という意味に理解できます。しかし単なる武家政権ならば、安土幕府や大坂幕府があってもよさそうですのに、そうは言いません。それなら「○○幕府」と呼ばれているものに共通することは何かと言えば、首長が将軍という職に就いていたことなのです。事実、江戸幕府の成立については、征夷大将軍の任官の1603年として、教科書に記されているではありませんか。実際には1600年の関ヶ原の戦いで勝負は着いていましたから、「1600年に幕府確立」でよいと思います。
 そもそも「幕府」とは中国の言葉で、地方官が執務する天幕とか、戦場において陣幕に囲まれた最高指揮者の居所を意味していました。頼朝が将軍と呼ぶに相応しい役職に就いたのは建久元年(1190)のこと。頼朝が上洛した際、後白河法皇の強い勧めにより右近衛大将に任じられました。当時は「近衛大将」は「将軍」とも呼ばれることがありましたから、この時、頼朝の居所は「幕府」になったのです。もっともその十日後の離洛に際して辞職してしまうのですが、右近衛大将は在京していなければなりませんから、やむを得なかったのでしょう。しかし箔がついたことは大いに意味がありました。「前右近衛大将」という肩書きを頼朝が気に入ったかどうかはわかりませんが、征夷大将軍となった後も、頼朝は「右大将家」と呼ばれています。もっとも頼朝を後々「右大将」と呼んだのは、頼朝が好んで自称したのではなく、頼家をその官職によって左衛門督(さえもんのかみ)、実朝を右大臣と呼んで識別するための呼称に過ぎないと考えることもできます。
 それはともかくとして、頼朝が右近衛大将となって以後、頼朝の政庁は「幕府」と呼ばれることがありました。その例は、『吾妻鑑』の中にたくさん見ることができます。例えば、建久二年(1191)三月には、「鎌倉に大火災出で来る。若宮、幕府殆んど其の難を免る不可と云々。」などと記されているのです。この場合の幕府は、明らかに頼朝の館やその政庁を指しています。将軍様がいらっしゃるのですから、そこが幕府なのです。
 建久3年(1192年)、頼朝は九条兼実に働きかけて、後鳥羽天皇から征夷大将軍に任ぜられています。以前は頼朝が征夷大将軍に任官したいと願っていたにもかかわらず、後白河法皇が認めなかったとされていました。しかし近年確認された平安末期の藤原忠親という貴族の日記(山槐記)の抜き書き(三槐荒涼抜書要)の記述から、そうではなかったことがわかってきました。それによれば、頼朝は武家の棟梁に相応しい官職として、「大将軍」を望んだところ、かつて坂上田村麻呂に授けた征夷大将軍が縁起がよいのでよかろうと授けたということです。(建久三年七月九・十二日に記述されている)。当時の格式からすれば、征夷大将軍は田村麻呂の前例があるとはいえ、臨時の令外官でしたから、従三位以上の高位の者が任官する右近衛大将の方が格上なのですが、頼朝がなぜ征夷大将軍で満足したのかは、私には説明ができません。思うに、鎌倉に拠点を置く頼朝にしてみれば、本来は在京する右近衛大将より、地方に派遣されて裁量権の大きい征夷大将軍の方が、何かとやりやすいと考えたのかも知れません。まあそれはともかくとして、その後、征夷大将軍職は頼家・実朝に継承され、次第に武家政権の棟梁に相応しい官職となっていったのでした。
 現在では「幕府」とは、武家政権を意味するものと理解されています。それなら鎌倉武家政権が成立したのをいつのことと理解すればよいのでしょうか。幕府の初期の主要機関としては、侍所・公文所(後に政所)・問注所・守護・地頭などがありますが、侍所は1180年、公文所と問注所は1184年、守護・地頭は1185年に置かれました。そして1185年には平氏が滅亡しています。1185年説が有力なのは、この年までに鎌倉政権の主要な機関が成立していて、しかも平氏が滅亡した年であるという事によっています。
 長くなりましたので、そろそろ結論を出さないといけません。まず「幕府」を狭義に「将軍の居所」と理解するならば、頼朝が将軍や大将になっていないといけませんから、幕府が成立したのは、頼朝が右近衛大将に任官した1190年か、征夷大将軍に任官した1192年とすることができます。まあ名目上の幕府成立と理解してもよいと思います。また「幕府」を広義に武家政権と理解するならば、平家を滅ぼし、西日本はともかく、東国に守護・地頭を置くことを承認させた1185年を以て、事実上幕府が成立をしたと理解することができます。もちろん1180年でも、武家政権の理解の仕方によっては有り得ることです。実質的な幕府の成立と理解できるでしょう。要するに1192年説が誤っていたので訂正されたというのではなく、幕府というものをどのように理解するかにより、成立時期が異なってくるというわけです。
 一般には「頼朝が鎌倉に幕府を開いた」と表現されることが多いのですが、考えてみればおかしな言葉遣いと思いませんか。まるで開店準備が整ったので、ある日、新しい店舗を開店したみたいではありませんか。武家政権としての機構は次第に整ってきたのであって、初めに構想があったわけではないでしょう。以上の様なわけで、私は「幕府」の狭義と広義の意味を解説した上で、鎌倉幕府の成立年については、名目的には1190年か1192年、実質的には1185年、或いは1180・1184年であり、1192年が誤っているわけではないと指導しています。こういう話をすると、生徒は不安に思うのか、入試に出題されたらどの様に答えればよいのかと質問されます。しかし全く心配無用です。幕府成立の年を直接答えさせる問題は絶対に出題されません。なぜなら解釈により学説が分かれていることを出題すれば、必ずクレームを付けられるからです。ただし1185・1192年に何があったかは理解しておかなければなりません。
 ネット上では、以前は鎌倉幕府の成立は1192年であったが、それは誤りであり。1185年が正しいと説明されることが多いのですが、そもそもその説明自体が正しくありません。それでもその様に指導している授業者はかなりいそうです。
 なお『三槐荒涼抜書要』は、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。読みやすいのでぜひ御覧下さい


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