鏡餅の上に乗せられる橙について、一般には「だいだい」という訓が「代々」に通じ、親から子へ途切れずに続いていくことを表していると理解されています。これはどの解説書にも書いてあることで、日本中誰もがそのように理解しているのでしょう。しかしこれは間違いではありませんが、江戸時代にはもっと別な理由がありました。花が咲いて実が成るのは他の柑橘類と同じなのですが、翌年の春には橙色が濃くなるのに、そのままにしておくと夏にはまた青く若返ってしまいます。それで新しい実と前年からの実が区別できなくなってしまうのです。『和漢名三才図会』という江戸時代の百科事典には、そのあたりのことが「春に至りて色濃く久きに耐ゆ。夏復青く変じて、新旧弁ずべからず。故に俗に呼びて代々と名づく。くらはずといへども、以て歳始の嘉祝の果とするなり」と記されています。また実を採らずにそのままにしておけば、2~3年は枝に付いたままになっています。ようするに代々続くというよりは、若返って長生きすることに重点が置かれていたのです。「代々続く」という理解は、明治期の歳時記以降に見出されるもので、決して本来のものではありません。
鏡餅は平安時代からあるのですが、その頃の鏡餅の上には橙ではなく橘が乗せられていました。古代において橘は、不老長寿の霊果と考えられていたことは、『日本書紀』の神話に記されています。垂仁天皇がある時、田道間守(たじまもり)に「非時の香果(ときじくのかぐのみ)」と呼ばれる不老不死の果実を探してくるようにと命じました。そして10年の歳月をかけてようやく持ち帰ったのですが、天皇は既に亡くなっていたので、彼は果実を陵に供えその場に哭泣して死んでしまった。今日の橘こそその実である、という話です。ここではとにかく、橘が不老長寿の呪物であったことを確認しておきます。
一方橘が乗せられる鏡餅は、平安時代には餅鏡(もちいかがみ)と呼ばれ、正月に飾って長寿を祈念する呪物でした。その前でめでたい言葉を唱え、長寿を祈るのですが、『源氏物語』の「初音」の巻にその様子が細かく描写されています。そのほかには『栄花物語』の「莟(つぼみ)花」の巻にも記されています。とにかく平安時代には、鏡餅は長寿を祈念するためのものだったのです。ですから橘も鏡餅も、共に長寿を祈願する呪物であり、平安時代の鏡餅の上に橘が乗せられていたことは、文献史料で確認できます。
『類聚雑要抄』という平安末期の有職故実書には、鏡餅の上に三つの実が成っている橘を載せるということが記されています。それによれば、「御鏡餅三枚、日別一枚」と記され、さらに「鏡餅の上に置く物」として、「譲葉一枚、蘿蔔(大根)一株、押鮎一隻、三成橘一枝」と記されています。鏡餅は二段重ねでないことは明らかで、一日ごとに一枚三日で三枚という意味かもしれません。その上に大根一株、鮎一匹、三つの実の成った橘の枝、譲葉の葉一枚を乗せるのですから、扁平でかなり大きかったと考えられます。
鏡餅の上に橘を乗せる風習は、その後も長く続いたことが、室町時代の文献でも確認できます。室町時代随一の碩学である一条兼良が著した『源氏物語』の注釈書である『花鳥余情』には、歯固の餅の上に大根と橘を乗せると記されています。また興福寺多門院の僧侶の日記である『多門院日記』には、天文十一年(1542)元日の「大円鏡」(大きな鏡餅)の図があり、一重の扁平な丸い餅の上に、「タチ花」が5個、「ホタワラ」(ほんだわら)が5筋乗せられています。
この様に平安時代から室町時代まで、鏡餅の上には不老長寿の象徴として橘が乗せられていたのです。それが江戸時代に橙に替わるのですが、前述の様に橙は若返りの呪物であり、乗せる目的は橘と同じなのです。それならなぜ橘が橙に替わったのか。それを説明できる確実な根拠はまだ確認できていないのですが、個人的には大きさの釣り合いではないかと思っています。餅の大きさに比べて橘だけでは余りにも小さすぎるからです。しかしこれはあくまでも私の推測に過ぎません。とにかく橙が代々に通じるからという理解は、明治以後に確認されるものであり、橙をのせる本来の目的ではなかったことなのです。
鏡餅は平安時代からあるのですが、その頃の鏡餅の上には橙ではなく橘が乗せられていました。古代において橘は、不老長寿の霊果と考えられていたことは、『日本書紀』の神話に記されています。垂仁天皇がある時、田道間守(たじまもり)に「非時の香果(ときじくのかぐのみ)」と呼ばれる不老不死の果実を探してくるようにと命じました。そして10年の歳月をかけてようやく持ち帰ったのですが、天皇は既に亡くなっていたので、彼は果実を陵に供えその場に哭泣して死んでしまった。今日の橘こそその実である、という話です。ここではとにかく、橘が不老長寿の呪物であったことを確認しておきます。
一方橘が乗せられる鏡餅は、平安時代には餅鏡(もちいかがみ)と呼ばれ、正月に飾って長寿を祈念する呪物でした。その前でめでたい言葉を唱え、長寿を祈るのですが、『源氏物語』の「初音」の巻にその様子が細かく描写されています。そのほかには『栄花物語』の「莟(つぼみ)花」の巻にも記されています。とにかく平安時代には、鏡餅は長寿を祈念するためのものだったのです。ですから橘も鏡餅も、共に長寿を祈願する呪物であり、平安時代の鏡餅の上に橘が乗せられていたことは、文献史料で確認できます。
『類聚雑要抄』という平安末期の有職故実書には、鏡餅の上に三つの実が成っている橘を載せるということが記されています。それによれば、「御鏡餅三枚、日別一枚」と記され、さらに「鏡餅の上に置く物」として、「譲葉一枚、蘿蔔(大根)一株、押鮎一隻、三成橘一枝」と記されています。鏡餅は二段重ねでないことは明らかで、一日ごとに一枚三日で三枚という意味かもしれません。その上に大根一株、鮎一匹、三つの実の成った橘の枝、譲葉の葉一枚を乗せるのですから、扁平でかなり大きかったと考えられます。
鏡餅の上に橘を乗せる風習は、その後も長く続いたことが、室町時代の文献でも確認できます。室町時代随一の碩学である一条兼良が著した『源氏物語』の注釈書である『花鳥余情』には、歯固の餅の上に大根と橘を乗せると記されています。また興福寺多門院の僧侶の日記である『多門院日記』には、天文十一年(1542)元日の「大円鏡」(大きな鏡餅)の図があり、一重の扁平な丸い餅の上に、「タチ花」が5個、「ホタワラ」(ほんだわら)が5筋乗せられています。
この様に平安時代から室町時代まで、鏡餅の上には不老長寿の象徴として橘が乗せられていたのです。それが江戸時代に橙に替わるのですが、前述の様に橙は若返りの呪物であり、乗せる目的は橘と同じなのです。それならなぜ橘が橙に替わったのか。それを説明できる確実な根拠はまだ確認できていないのですが、個人的には大きさの釣り合いではないかと思っています。餅の大きさに比べて橘だけでは余りにも小さすぎるからです。しかしこれはあくまでも私の推測に過ぎません。とにかく橙が代々に通じるからという理解は、明治以後に確認されるものであり、橙をのせる本来の目的ではなかったことなのです。
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