北沢方邦の伊豆高原日記④
Kitazawa, Masakuni
六月 今年は旧正月が早かったので、卯月(旧四月)も終わり、すでに皐月(旧五月)に入っている。野鳥のなかで、ひときわホトトギスの声が目立つ季節となった。古歌に《鳴きとよむ》とあるが、緑の樹々の梢を飛翔しながら鳴くその声は、あたりをどよもすほど大きい。女神の化身でもあるウグイスを女性的、ホトトギスを男性的とした古代のひとびとの神話的想像力が偲ばれる。《テッペンカケタカ》とされてきたその聴き慣らしも、頭上高く飛ぶ雄姿からきているのかもしれない。もっともわれわれには、《特許許可局》(特許庁は存在するがそんな官庁はない)としか聞こえないのだが。
「伊豆高原日記」の覆面を脱ぐのも別に他意はない。「知と文明のフォーラム」のメンバーたちから勧められたからである。今後もお読みいただければこれにまさる幸いはない。
知の閉塞状況
政治状況だけではなく、知の状況も息苦しいほどの閉塞感に包まれている。たんに右翼的言論やナショナリズムがメディアを支配しているというだけではなく、それらに対抗する旧左翼や旧新左翼の細々とした言論も、化石化しているとしか思われないほど古びてみえるからである。その原因はどこにあるのだろうか。
たしかに1970年代の終わりから、政治には新保守主義が台頭し、経済的には新自由主義によるグローバリズム推進がはじまった。その背後にある思想もイデオロギーも、とりたてて新しいものではない。政治的にはいわゆる自由と民主主義という(欧米にとっての)「普遍的価値」を世界に拡大する、経済的には市場経済の自由を徹底し、世界にひろげるという新保守主義者(ネオ・コンズ)や新自由主義者(ネオ・リベラルズ)の主張は、近代社会や近代化を推進してきた思想の当然の、しかも究極の帰結であり、その意味でハイパーモダニズムと名づけることができる。
かつてそれに対抗するかにみえた新旧左翼の主張も、共産主義的であれ、社会主義的であれ、修正資本主義的であれ、資源や富の公平で適正な配分を求めるだけで、歴史的進歩によって獲得されたとする近代の「普遍的人間性」やその社会的価値を疑うものではまったくなかった。したがってその挫折であるベルリンの壁の崩壊以後、ハイパーモダニズムが、経済的指標や超高層ビルの林立する風景といった目にみえるかたちで「勝利」を宣言しても、それに対抗するすべさえなかったのだ。
環境問題に対する感受性の高まり、国内的・国際的格差の拡大に対する懸念や批判など、潜在する反ハイパーモダニズムはあるが、それはまだ知のレベルにまではいたっていない。
だがむしろ先端的な科学の分野には、新しい知の変革の徴候があらわれてきている。物理学では異端中の異端であった多重世界解釈やスーパーストリングズ(超弦理論)が台頭し、かつての批判者であったホーキングでさえも、ブレーン・ワールド(膜世界 = 膜によってへだてられた多重世界)などといった用語を口にしている。
激烈な競争社会をつくりだしたネオ・コンズやネオ・リベラルズのイデオロギーとさえなったネオ・ダーウィン主義に代わって、生物学の最先端では、微生物や、無機物であるとともに有機物であるヴィールスの研究から、ダーウィンの予想もしなかった生物進化の様相があきらかとなり、獲得形質の遺伝を説いたラマルクの再評価もはじまっている。第一、われわれホモ・サピエンス・サピエンスも、かつて考えられていたように進化の樹木の中心や頂点にいるのではなく、天の川宇宙のなかの地球の位置と同じく、その周辺に位置するにすぎない。
脳神経科学では、脳の性差(男女による機能差や脳梁などの容量差)や種族差(言語理解の仕組みや感性のありかたなどの差異)が明らかになりつつある。人間の生物学的不平等を説いたルソーは、個体差から種族差にいたる差異を認めることで、逆に社会的平等が実現できるとしたが、いまや「普遍的人間性」に代わってさまざまな《差異》を認識することが、あらゆる《差別》を根絶する基礎となるのだ。
これら最新の知見のうえに、われわれは新しい知を築かなくてはならない。それのみが時代の閉塞状況の打破を可能にするだろう。(6月6日)