一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【98】

2011-03-24 07:30:27 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【98】
Kitazawa, Masakuni  

 ようやくウグイスが試し鳴きをはじめた。緋寒桜はもう葉桜で、コブシの白い花が満開だというのに、相変わらず寒い。被災地の方々の苦労が思いやられる。福島第1原発も、チェルノブイリ並みの最悪事態は避けられそうだ。 

 私の『感性としての日本思想;ひとつの丸山真男批判』(2002年、藤原書店)の、金容儀教授のご努力による韓国版が近く発行の予定だ。以下に「韓国版への序文」を転載する。最後に今回の大災害に対する韓国の支援への感謝の辞を付け加えたのだが、金教授からまだ返事のないところをみると、間に合わなかったのかも知れない。

韓国版『感性としての思想──ひとつの丸山真男批判』序文  

  この本の最初の外国語訳が韓国語であることは、私にとって、光栄であるとともにきわめて喜ばしいできごとである。

 

なぜなら韓国は、隣国であるだけではなく、世界でもっともすぐれた表音文字の体系ハングルを、みずから生みだした創意の国だからである。原シナイ文字からギリシア、ローマなどいくつもの文明を経由して完成されたアルファベットやキリル文字をはじめ、母音と子音が不可分という世界でも特異な音韻体系をもつ日本語の表音文字も、中国の漢字の部分的借用(片仮名)や草書体の流用(平仮名)によって創られたのであり、ハングルのようにみずからの創意で生みだされたものではない。こうした国で私の著書が評価されることの喜びは、おわかりいただけることと思う。

 

だが同時に、韓国版への序文を書くことに、私は複雑な感慨を覚えざるをえない。なぜなら、日本の帝国主義が朝鮮半島に対して過去に冒した大きな過ちは、いまなおわれわれ自身にさえも心の傷として残っているからである。そのうえいまもごく一部の知識人たち、不幸なことにメディアに影響力のあるごく一部の知識人たちは、歴史認識のレベルではあるが、その過ちを継承しつづけている。

 

しかし逆説的ではあるが、そのことには大きな理由がある。つまり日本の多くの知識人は、みずからの文化のもっとも奥深い本質にまったく無知だという事実である。みずからの文化の本質を理解できないものは、異文化を理解することはできない、というのは人類学の鉄則であるといっていい。

 

なぜこうした誤りやゆがみがもたらされたのか。それはいうまでもなく、明治近代化の誤りやゆがみが、そのまま知や学問の領域に反映してきたからである。たしかに帝国主義的な国家目標や戦略が破滅を招いたことは、戦後ひろく認識されてきた。だがその反省が逆に、明治期に福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」のいっそうの徹底化、いいかえれば内なる《日本人性》や《アジア性》の徹底した否定と、欧米の知や社会の規範としての《合理性》の全面的な受容をもたらしたのだ。

 

これが丸山真男に代表される「戦後民主主義」の思想的潮流にほかならない。たしかに戦後民主主義は、明治近代化に郷愁を抱く保守派やナショナリストたちの国家目標や戦略に異議を唱え、一九六〇年のいわゆる安保闘争によって、わが国の進路を近代的民主主義と経済的高度成長の方向に大きく転換させた。だが知の領域では、左翼的あるいはリベラルといった違いはあるにしても、明治近代化の一側面である「脱亜入欧」の促進に対して、異議申し立てはほとんど存在しなかった。世界での日本の特殊性──それも皮相な指摘にすぎなかったが──を主張する一時期の「日本人論」に代表されるような疑似ナショナリズムにしても、「脱亜入欧」の前提に反対するわけではなかった。

 

そのなかで、歴史認識のレベルで誤りを継承しつづけているひとびとのみが、日本の真の伝統ではなく、明治近代化によって徹底的にゆがめられた《伝統》なるものを「脱亜入欧」に対置し、明治ナショナリズムの復権を声高に叫んでいるにすぎない。だが公教育の場で依然として正しい歴史認識が徹底していない日本では、こうした明治ナショナリズムの一般的な復権の危険が大いにありうるといってよい。たとえば、一昨年より各年末に放映されている司馬遼太郎の原作によるNHKのいわゆる大河ドラマ『坂の上の雲』は、日清・日露両戦争という日本帝国主義の興隆期を、歴史観や歴史認識の問題を棚上げして描くことによって、明治ナショナリズム復権に加担する危険を冒している。

 

西欧合理性への信仰や「脱亜入欧」の徹底という戦後民主主義と、ゆがめられた伝統にもとづく明治ナショナリズム復権の主張との不毛な対立は、もはや終わらせなくてはならない。通信交通手段の急速な展開とIT革命に裏づけられたグローバリゼーションの進行は、もはや妨げることはできない。そのおかげで相互に「近くて遠い国」であった韓国と日本は、「近くて近い国」へと変貌しはじめたのだ。

 

だが他方、瞬時に世界をかけめぐる巨大流動資金によって経済的世界制覇を試みたグローバリズムの破局と終焉は、二十一世紀の世界を新しいリアリティに直面させている。それは、自然における生物多様性のたんなる保存というよりも復活が、人類の生物学的生き残りを保障するように、人間の文化の多様性の復活が、人類の知的で身体的な創造性の保障となるということである。そのためにはそれぞれの種族や国──国家ではない!──が、自己の文化や思考体系の本質を理解し、それによって異文化の真の理解にいたらなくてはならない。

 

この本が、韓国と日本相互の真の理解に少しでも貢献できれば、これにまさる幸いはないと考えている。最後に、この本を評価して全南大学のセミナーのテクストとして使用していただいただけではなく、翻訳と出版の労までとっていただいた金容儀教授に心からお礼を申しあげる。

 

     二〇一一年三月

                       北 沢 方 邦



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