一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【101】

2011-05-03 19:11:14 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【101】
Kitazawa, Masakuni  

 満開だったツツジの花々も散りはじめ、樹々も、もはや新緑とはいえないほど色濃くなってきた。ヴィラ・マーヤの庭に競い立つヤマユリの新芽も、かなり大きくなった。福島原発を避難してきた橋本宙八さんご自慢の二人の娘さんが入居し、賑やかとなった。二人ともきわめて知的で感性ゆたかなひとたちで、知り合ってよかったと思う。

ウサマ・ビン・ラディン氏 

 お嬢さんたちを送ってきた橋本夫妻と田中亮二さんと六人で、楽やで夕食を共にし、ヴィラ・マーヤに帰って自然酒をかたむけながら、夜更けまで議論で盛りあがった。そのときイスラームの話題となり、アル・カイダやいわゆるイスラーム原理主義についてどう思うかと聴かれ、日頃の持論を開陳した。つまり彼らは先進諸国、とりわけアメリカの覇権に対抗するため、イスラーム思想を近代イデオロギーと化し、イスラーム本来の深い思考体系をむしろ頽廃させたというものである。そのおりに私がふと、「しかしビン・ラディンさんは偉いよ、たったひとりでアメリカに対抗しようとしたのだから」と漏らしたが、まさにその時刻、現実のビン・ラディン氏はアメリカ軍特殊部隊に射殺されていたのだ。テレパシーともいうべき不思議なできごとであった。 

 9・11事件やビン・ラディン氏については、すでに多くの場所で書いてきた(自伝『風と航跡』終章、『感性としての日本思想』あとがきなど)が、それらと重複するがあえて要約的に記しておこう。 

 私はガーンディを尊敬しているし、個人として自衛手段以外の暴力を認めず、したがって無差別テロに反対するが、社会や国家のレベルで政治表現の公の手段をもたない集団が、その表現としてデモや対抗暴力といった手段を取ることは当然だし、追いつめられた極限状況でゲリラやテロに訴えることもありうることだと理解している。 

 預言者を気取るつもりは毛頭ないが、あの年の8月、神奈川ネットという地域政党に招かれ横浜で講演し、そのなかで、成立したばかりのジョージ・W・ブッシュ政権があまりにも新保守主義的で反動的な政策を実行しているが、それに対して近く必ず大規模なテロが起こるにちがいないと述べたことがある。

 それがあのようなかたちになるとは想像もできなかったが、黒煙をあげて炎上し、崩壊し、多くの犠牲者に無慈悲な死をあたえたあの世界貿易センターの双子の塔のオンライン映像を見た瞬間、ついに起こるべきことが起こったかと、私は背筋に戦慄をおぼえた。

 またいわゆる先進諸国内の差別されたひとびとを含み、世界の各地でこの映像に快哉を叫んだ多くの民衆がいたことも忘れてはならない。それはかつての政治的・軍事的帝国主義の時代は終わりを告げていたにもかかわらず、経済的覇権を求めるグローバリズムの飽くなき追求と、それによる収奪や抑圧にあえぐひとびとがいかに多かったかを示している。彼らにとってウサマ・ビン・ラディン氏は英雄であったのだ。

 世界史上ヒトラーやスターリンのように悪名高き英雄は数多い。だがビン・ラディン氏はそのような英雄ではない。自己の権力に酔い痴れ、他国を侵略してさえも自国の富や領土を拡張しようとし、意に染まない種族や民衆を大量殺戮し、あるいは餓死するがままにさせたヒトラーやスターリンとはまったく異なり、彼はイスラームの大義のために殉教し、大衆を救済しようと、少なくとも意図していた。いうまでもなくそのイスラームの大義は、彼のなかで近代イデオロギーへと変質した誤った観念にすぎなかったのだが。

 ヒトラーやスターリンは、近代が生みだした怪物である。観念とイデオロギーと、そのために必要とされる経済的・軍事的合理性、ウェーバー風にいえば目的合理性を徹底的に追求したリヴァイアサンにほかならない(ホルクハイマーが指摘したように、ナチスは「理性の過剰」によって生みだされた)。

 だがビン・ラディン氏は、その手段と方法がまったく間違っていたとしても、清貧と禁欲のなかで解脱や神との一致を追求した東洋の聖者たちの伝統を、いささか踏まえていないこともないように思われる。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。