一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【100】

2011-04-25 09:57:03 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【100】
Kitazawa, Masakuni  

 季節の移り変わりが早い。桜餅色の八重桜が咲き乱れたかと思うと、もう新緑一色となり、緋色のツツジが咲き誇り、白や淡紅色の花も追い咲きしている。あちこちでウグイスが鳴き交わし、昨年の「ホー・ギルティー(ほう、有罪だって)」君も健在である。ときおり私の知らない鳥が、きわめて美しい声を聴かせてくれる(これも英語風に「ヒア・ビー、ヒア・ビー、セイ・リーグ、セイ・リーグ」と聴こえる)。今朝窓を開けたら、近年には珍しく、朱色の頭をかしげて、かなり大きいアカゲラがヤシャの木の枝に止まっていた。かつて電柱が木製であった頃、早朝、機関銃のようなけたたましい音をたてて無数の穴をあけ、いつも私たちの眠りを妨げていたものだが。

エネルギー問題と人間の生き方と知恵 

 1994年、はじめてプラーハを訪れたとき、航空機の窓から見おろす夜の古都のあまりにも暗い光景に驚いたことがある。しかし地上に降り立ってみると、いまにも馬車のひずめと車輪の音がひびいてきそうな街路の石畳を照らす古風な街灯や、18・9世紀以来ほとんど変わらないバロックやロココ趣味の屋並みから漏れる仄灯りなどが、きわめて落ち着いた奥行きのある雰囲気をつくりだし、心を癒してくれた。むしろ出発した東京のあまりにもけばけばしく派手な人工照明が、安っぽく思われるほどであった。 

 東日本大震災、そして世界を震撼させた福島第1原発の大事故、それにともなう計画停電や節電のお蔭で、夜の東京は光の厚化粧をやめ、落着きと反省の空間を造りだしたかのようだ。だがその空間のなかで、原発の安全神話崩壊についての言説は溢れているが、問題のもっとも深い本質を突く言説は稀だ。いうまでもなくそれは、「消費は美徳」「無駄の制度化」などというモットーのもとで、経済成長のみが豊かさをもたらすという妄説を展開し、地球資源を収奪し、その浪費によって環境を破壊してきた近代の思考体系と、それによって造りあげられた文明のおごりである。 

 今回の大災害は、その思考体系を根本的に転換する絶好の機会といえる。そのためにはまず、「人間」とはなにかを、もう一度根本的に問い直すことからはじめなくてはならない。 

 近代の人間観は、この地上では人間のみが他の生物に優越する特別な存在であるとしてきた。いうまでもなくこれは、人間のみが神に選ばれた存在であり、その救済のために神が一度だけ人間の姿をとってこの地上に現れたとするキリスト教の人間観に由来する。だがむしろそれは、世界史のなかでは例外的な考え方である。兄弟宗教であるイスラームでさえ、神(アッラーフ)は人間を含めすべてを超越した存在であり、予言者に啓示をあたえはするが、人間を特別あつかいはしない。 

 誤って未開とよばれる社会や古代では、すべての生物は人間と平等な存在である。アメリカ・インディアンによれば、「2本足のヒト」は、「4本足のヒト」「空を飛ぶヒト」「根の生えたヒト」などと同じヒトであった。だがこうした考えは、いまとなってはむしろ最先端の生物学と一致する。ヒトをはじめとするさまざまな生物のゲノム(遺伝子配列)の解読は、ヒトと他の諸生物との差異が予想以上に少なかったことを示し、こうした平等観を裏づけている。さらにダーウィン進化論の書き換えをうながしている微生物科学やエピジェネティックス(後発生遺伝学)は、生物・無生物を含めた万物が複雑でダイナミックな共生関係にあり、環境などとの後発的な相互作用でゲノムさえも変異することを明らかにしている。ヒンドゥーや仏教や道教は、太古からこうした科学的知見を宗教や哲学の言語や知恵として説いてきた。 

 いま、宇宙や大自然の大きな体系のなかで生かされている人間存在を認識し、学んできた古代や「未開」の知恵、さらには最先端の科学の知恵を知ることは、近代の人間観の根本的な転換に寄与する。 

 その立場に立つと、現代の文明がいかに不自然であり、宇宙や地球を動かしている体系といかに矛盾しているかがわかる。 

 たとえば原発は、恐るべき危険性をもつだけではない。たしかに人間には火が必要である。だが摂氏100度で水を沸騰させることができるのに、なぜ危険な放射性物質を使ってそのほとんどが無駄な廃熱となる数千度の熱をださせなくてはならないのか。原発とは、いかに熱効率の悪い巨大テクノロジーであることか! 発電コストの安さも虚偽で、建設から廃炉にいたる膨大な費用(あるいは今回示された災害による巨大な補償費!)が除外されている。

 核ミサイル搭載潜水艦用に開発された原子炉から転用された発電用原子炉、大陸間弾道弾用に開発されたミサイル技術の転用である宇宙開発(私はそのすべてを否定するつもりはないが)など、国家の威信をかけて開発される諸巨大テクノロジーは、いまこそその存在意義を問わなくてはならない。シューマッハーの説いた《スモール・イズ・ビューティフル》はたんに規模だけの問題ではない。地球との共生をめざす哲学と美学の問題である。

 その原点に立つと、われわれの生き方もみえてくる。必要最小限度のエネルギー消費にもとづき、必要最小限度の利便を享受し、そのうえで自然や人間相互の共生を目指す生き方である。経済成長や「繁栄」に踊らされるのではなく、みずからの生き方や知や感性を充実させる自己実現が目標でなくてはならない。それが老子の説いた《知足》つまり足るを知るにほかならない。

 ひとびとが生き方を変えれば、消費社会も、産業体系も変わらざるをえない。だが残念なことに、この大災害を教訓に、その方向を予見し、長期政策を立てようとする政治家も政党も皆無である。

隠されたリアリティ 

 待望のブライアン・グリーンの『隠されたリアリティ』Greene,Brian. Hidden Reality;Parallel Universes and the Deep Laws of the Cosmos.2011を読了した。タイトルに魅せられ、あまりも期待しすぎたためか、少々期待外れであった。ストリング理論の現状や多様な平行宇宙理論の現在の見取り図を、かなり専門的な立場から精緻に展開しているが、むしろそれが展望の拡散を招き、「隠されたリアリティ」そのものが茫漠としたイメージになってしまった。

 たしかに物理学的宇宙論や量子論が現在多岐にわたっているが、それはパラダイムの「革命」のあとでつねに生ずる状況であって、いずれ収束に向かうにちがいない。だがそのとき必要なのは、むしろ次に到来する新しい世界像とそれを導く哲学である。

 ただ細部については多くを学んだので、私としてはそれを今後に生かしたい。



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