おいしい本が読みたい●第二十話
怒れる若者
若者相手の仕事をしていると、ときに望外の収穫を手にすることがある。そんな機会は年を追うごとに少なくなっていることは紛れもない。しかしやはり、たまさか訪れてくれる、ありがたいことに。
半年ほど前に知り合ったその若者の様子にとりたてて人目を引くところはなかった。どこにでもいる若者のひとりにすぎない、とわたしには思えた。ところが、あるとき彼からメイルが届いた。そこには、自分は日本人ではない、というセリフが呪文のように、並んでいた。彼の出身地は奄美である。
メイルをもらって咄嗟にわたしの脳裏に浮かんだのは、目取真俊の作品だった。初期短編集『平和通りと名付けられた街を歩いて』(影書房)に登場するあの老婆は、肉体も精神も老いに蝕まれながら、なお体の奥底に「本土」への怨をドス黒く抱え込み、沖縄復帰祝賀パレードの皇室車に、そのドス黒い糞をなすりつける。言語という表現手段をもたない市井の老婆が、不自由な身体を逆手に取って、みごとな攻撃を創出したのだ。
近作『眼の奥の森』(影書房)は、十年前の『魂込め(まぶいぐみ)』と同じように、米軍に翻弄される沖縄の物語だ。ただし、作者の名誉のためにいっておくと、物語ははるかに複雑な構造を与えられているから、けして旧作の焼き直しではない。
ここでもまた、セイジという若者の米軍への、そしてその陰に日本本土への、怨が色濃い。たかだか魚用のヤス一本を武器に、絶望的な攻撃を米兵にしかけるセイジ。もとより結果は見えている。しかし、だからといって、なにもしないでいることはできるだろうか。
「ちかりんどー、セイジ(聞こえるよ、セイジ)」という沖縄のことばが、それこそ呪文のように、耳に焼きつく物語だった。
さて、冒頭の若者に話をもどそう。彼の呪文には、あまりお目にかかれない怒りが感じられて、わたしはここ数年味わったことがないくらいに心を動かされたのだった。どこかしら、「個の怒り」を超えた「類の怒り」のようなものを感じたのであった。それはたしかに、冷静に制御しなければ、ありきたりな情緒で終わってしまうおそれは付きまとう。けれども、もつべき正しい怒りが少なくなってしまった今日では、いっそ貴重であることは確かだ。あの、フランツ・ファノンの『地に呪われたる者』だって、怒りあってこその迫力ではないか。だからやはり、心から応援したい。
若者よ、クールに怒れ!
むさしまる