一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

伊豆高原日記③

2006-05-23 11:39:36 | 伊豆高原日記

伊豆高原日記③
                                 
 
大型連休以後、早くも梅雨入りのような鬱陶しい日々がつづいている。しかし、卯月(旧四月)の名のとおり、これからは潅木の卯(ウツギ)の花、ヤマボウシやハクウンボクといった高木の白い花々が森を彩る季節である。朝、窓を開けると、えもいわれぬ甘い香りがただよってきたりする。

 前回問題にした自民・公明の教育基本法の改正案に対して、民主党の対案なるものが提出されたが、「日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし……」と、かつての「教育勅語」を彷彿とさせる文に、あきれてものがいえなくなった。市民派といわれた菅直人氏や旧社会党出身の横路孝弘氏などは、これをどう考えているのだろうか。直接問いただしてみたいものである。

 大相撲五月場所では、モンゴル出身の新大関白鵬(はくほう)が優勝した。関脇雅山(みやびやま)と優勝決定戦を争うなど、横綱不在場所が最高に盛り上がった。今年中に、朝青龍と白鵬というモンゴル人同士の横綱対戦が実現するだろう。国際化したがために古武道の伝統を失ってしまった柔道と対照的に、国際化しはしたが、大相撲は、少なくとも江戸時代以来の儀礼的伝統を厳密に守っている。安馬(あま)――これもモンゴルだ――や垣添(かきぞえ)のような小兵でも、一瞬の集中力と技の冴えで大型力士を倒す醍醐味は、他の格闘技やスポーツではあじわえないものである。外国人力士もそれに魅惑されてやってくる。

 “これほど犬に信頼されていれば、人間として本望。”(5月)

 ひところ、市販の雑誌よりも企業のPR誌のほうが内容充実し、レイアウトも美しく、読み応えのある時代があった。しかしその多くは休刊や廃刊に追いこまれ、こちらも不毛の時代がつづいている。

 ある食品企業の通信紙で、「これほど信頼されていれば、犬として本望」という一文が目にとまった。読んでみると、オーストラリアでは犬に開放された海岸があり、犬たちが喜んで泳いだり、水の中でじゃれあったりしているが、中には若い夫婦がやってきて、赤児を犬に預けっぱなしで海に泳ぎにでるといったほほえましい風景にも出会う、という随筆であった。おそらく題名をつけたのは編集者であり、筆者にはなんの責任もないと思うが、この表題には少々ひっかかるものがあった。

 私も大型犬を飼った経験があり、子犬時代は躾やトレーニングに苦労した。だがおかげで成犬になったとき、彼とは対等な信頼関係を築くことができた。つまり彼らは人間とは異なった思考体系をもつ一個の「人格」または「犬格」であり、それを認めることではじめてそのような信頼関係をつくることができるということである。

 その経験から、私はまたアメリカ・インディアンの考え方を理解することができた。つまりアメリカ・インディアンは、それぞれ自分たちの部族の文化が世界最高のものであるという自信をもちながら、他の種族のひとびとをも対等の人間と考え、さらに他の生物も、「四本足のヒト」「空を飛ぶヒト」「水のなかに住むヒト」などとして、人間と同等のものとしてきたのだ。

 これはアングロサクソン流の動物愛護主義とはまったく異なる。後者は人間という家父長的保護者が可哀想な動物をいたわるというものである。先進国の人間が家父長的保護者として、いわゆる途上国のひとびとをいたわるという、人種差別の裏返しと同じ発想といってよい。

 ここにあるのは、近代に固有の人間中心主義である。神に選ばれた人間が世界の中心であり、他の生物や自然そのものは、人間に奉仕すべき存在であるとする。この考えが恐るべき資源の浪費や環境破壊という近代文明を生みだしてきた。いまやこの発想を一八〇度転回しなくてはならない。

 「これほど信頼されていれば、犬として本望」ではなく、「これほど犬に信頼されていれば、人間として本望」というべきなのだ。(Maya-K)


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