一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記⑨

2006-08-17 06:47:08 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記⑨              
Kitazawa, Masakuni  

ウグイスのひとりごとをはじめて聴いた。8月上旬に高らかなさえずりはなくなるが、姿を消したわけではない。珍しい鳥の声がすると窓から見ると、盛りを過ぎたアジサイの下枝に止まったウグイスが、ひとりごとをいいながらせわしなく虫をついばんでいた。

 いまはテッポウユリの盛りである。緑色濃い庭のいたるところに、艶やかな純白の花がすっくと立ち、高貴な香りを振りまいている。清楚なその姿も芳香も、豪奢なヤマユリと対照的である。

 終戦記念日と重なったため、いまや月遅れの盂蘭盆会(うらぼんえ)が定着したようだ。それでも秋の行事であった昔のお盆には早い。今年は立春のまえに旧正月がきたため、六月を二度繰り返す閏月の年であり、9月8日が旧暦の七月十五日つまり満月のお盆の日にあたる。仲秋の名月つまり八月十五日は10月6日となる。空も澄む初秋の満月の夜こそ、祖先や死者たちの霊を迎えるにふさわしい。

 日本武道館で、恒例の政府主催の戦没者追悼式が行われたのは当然だが、今年は当日の朝、首相が靖国神社に総理大臣の肩書きで正式に参拝したため、追悼の日にはふさわしくない騒然とした雰囲気となった。靖国問題とはなにか、考えてみよう。

国益より私心を優先する愚かな総理大臣

 かつて私も、軍国少年として毎年靖国神社に参拝していた。カーキ色の制服制帽に巻脚絆、背に背嚢、腰の水筒と帯剣、重い三八式歩兵模擬銃を肩に、宮城遥拝ののち、進軍ラッパを鳴らしながら靖国神社に行進、参拝後、同じく明治神宮まで参拝のため行進し、いまは体育館やNHKなどが立ち並んでいる広大な代々木練兵場で、配属将校の閲兵のため分列行進を行う、というのが学校の年中行事であった。 

 大鳥居から「歩調取れー!」の号令で脚をあげ、玉砂利を踏みしだきながら拝殿に進み、整列しなおしたうえ、「着けー剣!」の号令で帯剣を抜き、銃口に着け、最高の栄誉礼である捧げ銃(つつ)を行うのである。剣と銃口が触れ合う金属音、一瞬の静寂ののち、抜刀した指揮官の大音声「靖国の英霊に、捧げー銃(つつ)!」、そろった二動作のひびき、眼前に捧げた銃の重み、厳かに吹奏されるラッパ手の「国の鎮め」のあいだ、不動の姿勢を保たなくてはならない。

 陸軍記念日や海軍記念日には、ほんものの軍隊や陸戦隊がこのように参拝していたことはいうまでもない。国家神道のなかでも、靖国神社は軍国主義の象徴であり、国家権力の頂点に立つものであった。 国家神道とは、民衆に親しまれてきた村々の小さなヤシロやホコラを強制的に統廃合し、すべての神社を別格官幣大社や国幣中社などとランクづけをし、国家管理のもとに置く制度であり、明治のゆがめられた悪しき近代化の所産である。日本人の奥ゆかしい真の信仰心を踏みにじるものとして、このヤシロの統廃合に南方熊楠が激しい反対運動をしたことはよく知られている。

 そもそも神道そのものが、キリスト教など世界宗教に対抗するために平田篤胤が体系化をはかり、西欧列強に対抗する幕末のナショナリズムと結びついて成立したものである。彼の師、本居宣長のいう「神(かむ)ながらの道」とは、かなり性格を異にしていた。軍国主義の唱えた「大和魂」が、本居のいう「やまとごころ」とまったく違うのに似ている。「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」という本居の歌は、むしろ繊細で女性的な日本の文化の本質を示している。

 この古来の「神ながらの道」には、人間を神として祀るという考えはない。たとえば菅原道真が神として祀られたのは、太宰府に流された道真の怨念が皇居への落雷を引き起こしたにちがいない、彼こそは雷神の化身であったのだ、という雷神神話が背景となっている。また徳川家康にしても、死後、幕府の圧力で半ば仏教的な「東照大権現」という神号を朝廷からえはしたが、結局は日光輪王寺と二荒山神社、そしてそれらの修験道という宗教的権威を借りるため、東照宮を日光に移転しなくてはならなかった。「神君」といえども、民衆には神と認められなかったからである。

 神の子である天皇も、すべてミサザキ(ミササギ、御陵)に葬られていたのであり、明治天皇を祀る明治神宮も、カムヤマトイハレヒコ(神武)を祀る橿原神宮も、すべて明治以後の国家神道による創建である。 戦死者や戦没者を悼むのは、彼らの犠牲のうえに平和を手にしたわれわれの義務であるが、そのことと靖国神社あるいはいわゆる神道とはまったく関係ない。むしろわれわれは、わが国古来の「神ながらの道」や死生観をいまこそ深く知り、ゆがめられた宗教の近代化がどのような結果をもたらしたか、深く反省すべきときにある。

 こうした反省もなにもなく、わが国の侵略で大きな被害を受けたアジア諸国の反発を無視し、対アジア外交をさらに悪化させることにまったく無頓着に「私心」を優先した愚かな総理大臣、彼をを選んだわれわれは、心から恥じなくてはならない。

 [補足] 
鎌倉時代以後の本地迹垂説(ほんじすいじゃくせつ)、つまり神仏混淆説が、善行を積んだ人間は死後すべて仏となる、という観念を通じて、人間を神に祀るという道の地ならしをしたことは事実である。しかし、廃仏毀釈によって徹底的に仏教を弾圧し、神道を分離させた明治政府が、この観念のみを巧みに利用したのは、歴史の大きな皮肉あるいは逆説というほかはない。

秋山邦晴を語る

 友人である音楽評論家の秋山邦晴が亡くなって、今年は10周年にあたる。友人たちが計画した「秋山邦晴を語る会」に出席の予定であったが、仕事のしすぎでやや体調を崩し、大事をとって休むことにした。以下は、それに代わってパートナーだった高橋アキさんに送ったメッセージである: 

 《私もそのひとりであった、あるいはいまでもそのひとりであるかもしれませんが、かつて音楽評論家、音楽学者といた人たちを苦手としていました。音楽家の友人・知人は、ほとんどが作曲家や演奏家です。 おそらく、音楽は言語を超えているものであるにもかかわらず、音楽と言語とのこのはるかな距離を自覚せず、観念で語るひとびとが多かったからでしょう。

 そのなかでの唯一の例外が秋山邦晴でした。なぜなら彼は若い頃から実験工房の一員として創造の現場にいて、言語を通じて創るという行為にたずさわっていたからです。とりわけ一九六〇年代終わりから、近代文明を批判し、その限界を超えようとするアメリカの「文化革命」に共感し、みずからを生きるレベルから変えようとしていました。 音楽を語る言語を選び取る鋭い感性と、このトータルな人間性との結び着きが彼の魅力だったと思います。

 そのうえ私には真似のできない驚くべき忍耐と努力もあります。その成果が『昭和の作曲家たち──太平洋戦争と音楽』です。国益よりも私心を優先する愚かな総理大臣のお蔭で、かつてないほど靖国問題や戦争責任についての議論が高まった今日、音楽家のかつての戦争責任をおのずから浮きあがらせるこの大著は、過去の歴史認識の問題に深い照明を与えています。

 同じ年に生まれたまったくの同時代人として、一九五〇年代から一九九六年にいたるまで、日本の現代音楽史の節目節目でお会いしていた秋山邦晴さんは、私にとって忘れることのできない芸術と知の同志といえます》。


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