一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記⑩

2006-09-03 23:23:21 | 伊豆高原日記

             オーストラリア・アボリジニーの樹皮絵(Groote Eylandt の Bunia作)
             ディンゴ(山犬)とワラビー(小カンガルー)との神話的戦い。
             木の枝でワシがその決着を待つ。

北沢方邦の伊豆高原日記⑩           
Kitazawa, Masakuni
 


 昼はまだ樹間にセミの声がかまびすしいが、夜は涼しげに虫たちが鳴きすだき、秋の深まりを感じさせる。しかし、昔に比べると虫の種類がぐっと少なくなった。かつては風雅なマツムシ、賑やかなクツワムシの音(ね)が秋の夜の交響楽の重要なパートであったが、いまは聞こえない。せいぜいスズムシ、コオロギ、キリギリス、クサヒバリ程度で、昨年まで家の片隅に入りこんでは鳴いていたカネタタキも、めっきり減ってしまった。

 それにしても、今年の夏も飛来する虫の数はいっこうに増えなかった。かつて庭園灯の青白い光にに群がってきたあのおびただしいカブトムシやクワガタ、あるいは狭緑色の大きな羽根の美しい蛾をはじめとするさまざまな蛾、そして黄金色、翡翠色、赤銅色などさまざまな色調のコガネムシたちは、どこへ消え失せたのだろう。

 虫の減少に呼応して、野鳥の数も種類も少なくなった。それでもまだ楽しみはある。幹をつつく小さな音に、コゲラがきているなと目をあげると、虫を取り終えたコゲラが、枝で毛繕いに余念がない。ヤマガラやコガラのさえずる群れが去ると、入れ替わりにエナガの群れが無言でやってきて、樹々のあいだを飛び交い、仕事に疲れた目や心を癒してくれる。

大宇宙と星空のひびき

 毎年八月の末、サントリーホールで、現代音楽の「サマーフェスティヴァル」が行われる。演奏される機会の少ない二十世紀の埋もれた作品や、「音楽の現在」と題して現在活躍中の世界の作曲家の作品が紹介されたりする。その意味では貴重なフェスティヴァルではあるが、わが国の作品の紹介が少ないし、外国人の作品にも当世風のクリシェ(ステレオタイプ)が多かったりして、期待が裏切られることも少なくない。

 たとえば今年の「音楽の現在」で演奏されたスイスのある作曲家の『エグゾードExodes(大量難民)』は、バルカンや中東をはじめとする戦争の難民たちの苦難を描いたとされ、期待を抱いたが、当世風の作品というほかはなかった。

 アメリカのオーガスタ・リード・トーマスの、独唱と室内管弦楽のための『黄昏のわたしの空に』は、愛すべき作品といえたが、私に深い印象を刻んだのは、ルクセンブルク出身で、いまはオーストラリアで活躍するジョルジュ・ランツ(またはジョージズ・レンツGeorges Lentz)の独奏ヴィオラと管弦楽と電子機器のための『星Monh』であった。

 新しい曲を聴くとき、先入観をもたないよう、私はプログラムの作曲家名と曲の題名しか見ないことにしているが、なぜ星が”Monh”なのかと疑問をもったままオーケストラ(東京交響楽団)の居並ぶステージに、独奏者(川本嘉子)と指揮者(秋山和慶)が登場するのを見守ることとなった。

 トリル(顫音)に似たヴィオラのソロではじまる静寂の音の空間が、しだいにオーケストラに波及していくが、驚くべきことは、この大オーケストラを一度も咆哮させることなく、多様な楽器を遠くひびきあわせることで、音の空間に広大なひろがりを与えていく新鮮な作曲技術である。ヴィオラのディジェリドゥー(オーストラリア・アボリジニーの低音吹奏楽器)風の祈りのリズムやよびかけに応え、電子音に変調したハープのひびきや多種類の打楽器などが共鳴する音の画布に、しだいに星がきらめきはじめ、大宇宙の荘厳な光景がイメージとして浮かびあがってくる。

 その新鮮なひびきのさなか、このひとは音で考える作曲家なのだ、と直観した。音を多彩に鳴りひびかせ、表現する作曲家は多いが、音で考える作曲家は稀である(音で考える演奏家はさらに稀である)。音が音を超えたなにものかの媒体としてひびき渡るとき、それは宇宙論や世界観など奥深い世界の扉をひらく音楽となる。

 実は”Monh”は、オーストラリア・アボリジニーのことば(ピチャンチャチャラ語など多くの言語があるが、そのどれであるかはプログラムに明記されていなかった)で「星」を意味するという。なぜその題であるのか。作曲者は、アボリジニーのあの繊細きわまりない樹皮絵に描かれた神話的な星空に霊感をえたという。しかもこの曲は、連作Mysteriumの第三曲であるが、第一曲・第二曲も、同じく他のアボリジニー語で「星」を意味する”Birrung”,”Ngangkar”という題名をもつ。

 これはなんと新鮮で奥深い音楽的宇宙論であることか。西欧の洗練された作曲技術とアボリジニーの野生の思考との出会い、このようなグローバリゼーションであるなら、大いに歓迎すべきである。

訂正●前回の日記⑨の「補足」で、辞書から迹の字を入力するとき、カーソルの位置がまちがって逆になりましたが、ただしくは本地垂迹説(ほんぢすゐじゃくせつ)です。


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