一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【136】

2013-01-05 16:34:00 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【136】
Kitazawa, Masakuni  

 2日の夜は暴風ともいうべき北風で、落ち葉が綺麗に掃き清められたが、その他の日々はおだやかな新年であった。今日はまったく風もなく、遠く青い島影を浮かべた海が午後の陽光を受けて金色に輝いている。

『バガヴァッド・ギーター』とはなにか  

 明けましておめでとうございます。メディアではリヒアルト・ワーグナーの生誕200年祭などで賑わうにちがいないが、われわれのフォーラムにとっては、今年は『バガヴァッド・ギーター』の年であるといえる。11月23日(勤労感謝の日)にサントリー小ホールで、室内オペラ『バガヴァッド・ギーター』(西村朗作曲・北沢方邦台本)の上演が決定しているからである。  

 古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』(キリスト紀元前300年から紀元後300年頃にかけて成立し、現在もなお語り継がれている)の第6巻の主要部分が、特に「バガヴァッド・ギーター」(神の歌)と名づけられ、人口に膾炙してきた。『マハーバーラタ』を読みとおした人は少ないかもしれないが、「バガヴァッド・ギーター」を読んだことのないインド人はいないとさえいわれている。  

 『マハーバーラタ』は、神々と人間が交わって暮らしていた伝説の時代、パーンダヴァとカウラヴァという2大氏族が対立し、覇権を争い、ついには決戦の挙句パーンダヴァが勝利するという筋書きであり、ともに神々の血をわけた親族であり、友人であり、あるいは師弟であるものたちからなる両種族が、なぜ戦うにいたったかを、仏教でいう「人間の業(カルマ)」として詳細に述べている。だが結末は、勝利したはずのパーンダヴァの生き残りの戦士たちも、次々と死を遂げ、なにも残らなかったといういわゆる「諸行無常」の世界を描き、インド学者のウェンディ・ドニガーはこれを「世界最大の反戦叙事詩」であると称えている(わが国の『平家物語』には、この大叙事詩の遠い反映がうかがわれる)。  

 「バガヴァッド・ギーター」は、両氏族の決戦の日、パーンダヴァの英雄アルジュナが、対峙する両軍の真っただ中に戦車を乗り入れ、戦車の御者の姿をした神クリシュナと交わす対話を、吟遊詩人サンジャヤが聴き書きし、韻文として記したものである。  

 すなわち、英雄アルジュナは、対峙するカウラヴァの一族を眺め、そこに父や義父、叔父や兄弟、あるいは師や友人たちが戦車のうえに、武器を手に手に立っているのを見た。彼はまったく戦意を失い、親族や師や友人たちを殺すことはできない、むしろ私が殺される方がましだ、と名だたる強弓を投げ捨て、坐り込む。クリシュナが苦悶するアルジュナを教え、諭すその韻文が「神の歌」にほかならない。  

 その教えはある意味で難解である。なぜなら、アルジュナの反戦の志しをひるがえさせ、決戦に立ち向かうように激励し、一見神々の教えである「非暴力(アヒンサ、不殺生)」に反するようにみえるからである。それはなぜか。  クリシュナの説くのは「ヨーガの道」である。ヨーガの道とは、御者の姿をしたクリシュナ自身もその一員にほかならない現世という名の迷妄(マーヤー)の世界、時間のサイクルとしては死と再生の輪廻(サンサーラ)の鎖に繋がれた迷妄の世界から脱出し、宇宙の真理(ブラフマン)に到達する道である。  

 その道への入り口は三つある。ひとつは行為(カルマ)であり、ひとつは信愛(バクティ)であり、ひとつは知(ジニャーナ)である。この三つは最後にはひとつとなり、一致するのだが、戦士アルジュナはまずカルマの道を進まなくてはならない。それは自己の行為を通じてしか解脱(モクシャ)には至らないからである。自己の行為からすべての情念や欲望(カーマ)を振り落とし、迷妄と執着から離脱し、専心することがまず要求される。それによって迷妄の世界を超えたクリシュナの真の姿、すなわち宇宙の真理に到達し、それを信愛し、それを認識する知を身につけるのだ。行為(カルマ)を捨てることは自己からの逃避にすぎず、なにものをも生まない。

『ギーター』の今日的意味  

 『ギーター』がベートーヴェンの愛読書のひとつであることは前回述べた。ゲーテをはじめ同時代の大知識人たち、あるいはアメリカのソローやエマースンなどの超越主義者たちにそれが絶大な影響あたえたのは、人間としての自己(アートマン)は、現世のすべての執着から離脱することによってのみ宇宙の真理と一体となることができる、というメッセージにほかならない。彼らは、当時西欧の近代がのめり込みつつあった「合理性の罠」、つまり主観と客観の二元論によって「身体性」つまり人間の内なる自然と外なる自然・宇宙との絆を無視し、自然の収奪や自己の身体の疎外を合理化し、暴走するにいたった罠を予見し、人類の王道への回帰を目指し、そのよりどころとして『ギーター』に感銘したのだ。

 この図式は今日もまったく変わらない。音楽上の大天才ベートーヴェンに匹敵する科学上の大天才アインシュタインの愛読書のひとつも『ギーター』であった。彼はスピノーザやインド思想を通じて、科学の認識の基礎も絶対に一元論であるべきだと信じ、量子力学の主導権をとったコペンハーゲン学派の二元論を徹底的に批判し、微視的世界と巨視的世界の一元論としての統一理論を唱えたのだ。彼の生前にはそれは挫折に終わったが、ストリング理論や多重世界解釈の登場によって、新しい統一理論への展望は開けつつある。

 ヒロシマ・ナガサキ・フクシマの悲劇は、「合理性の罠」の暴走の結果にほかならない。われわれはいまこそ、人間の内なる自然と外なる自然との「統一理論」を、われわれの行為または身体と、宇宙や大自然への知や信愛を通じて打ち立てなくてはならない。

 それが『バガヴァッド・ギーター』の教える「ヨーガの道」であり、その今日的意味である。



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