一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【64】

2009-08-09 10:57:52 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【64】
Kitazawa,Masakuni  

 ようやく夏らしさが戻ってきたと思えば、もう旧暦の立秋である。ヒロシマの日の前日が旧6月15日の満月であったが、折悪しく曇り、空一面の雲がいたずらに明るんでいるだけであった。またいつも立秋を境に、ウグイスたちは鳴きやみ、蝉時雨に交じり、ときおりひとりごとをいうのが聞こえる。

核廃絶は可能か 

 ヒロシマ・ナガサキの日が近づくと、メディアは一斉に核兵器問題をとりあげる。なかでも8月7日NHK総合で放映された「ノー・モア・ヒバクシャ」は感動的であった。ヒロシマ・ナガサキだけではなく、旧ソ連のセミパラチンスク(現カザフスタンのセメイ)核実験場から約100キロメートル離れたいくつかの村の被爆者たち、フランス領ポリネシアでいまも核実験の後遺症に苦しむ原住民たち、さらに「黒い雨」の放射能にさらされ被曝したヒロシマ北東20キロの山村の被爆者たち(まだ原爆被害者と認定されていない)など、世界の直接・間接の被爆者たちを結んで、その被害の深刻さと被爆者の連帯による核廃絶を訴えたドキュメンタリーである(アメリカのネヴァダ実験場周辺の被爆者やミクロネシア・ビキニ環礁周辺の被爆者などは、すでにたびたび取りあげられているので省略したのだろう)。 

 そのなかでも映しだされていたが、オバマがプラーハ演説で、アメリカ合衆国大統領としてはじめて「世界唯一の核兵器使用国としての道義的責任」を認め、「核廃絶」を唄ったことが、今年の核廃絶運動に大きな力をあたえたことはたしかである。世界最大または最強の核兵器所有国の元首のこの宣言は、ながいあいだ暗闇のなかを手探りで進んでいたひとびとや運動体に、たとえはるか彼方であっても、出口の仄明かりをかいまみせたといえる。 

 だが現実はむしろ、核拡散や核対立の方向にある。北朝鮮の核武装に対してわが国ではアメリカの核の傘の再確認や独自の核武装論まで台頭している。イランの核問題をめぐって、核兵器所有国イスラエルがその施設の空爆を計画し、実施されれば中東大戦が勃発するだろう。旧ソ連の核物質やパキスタンの核兵器がいわゆるテロリストの手に渡る危険性も指摘されている。 

 こうした状況のなかで、われわれは核廃絶をいかに考え、行動すべきなのか。

近代の二律背反 

 近代の思考体系の根本を明示したデカルトそのひとに責任があるわけではないが、すべてを二元論的に分裂させるこの思考体系は、社会そのものをも二元論的に分裂させてしまった。たとえば国と国家との分裂、あるいは国を構成する国民と国家との分裂である。 

 わが国でいえば、『古事記』や『万葉』以来、たとえ王朝や支配者が変わったとしても、この国土や風土はわれわれをはぐくみ、育ててきたのであり、それが「国(くに)」なのだ。お国訛りといえば、それぞれの地域や郷土のダイアレクトであり、ニュアンスのゆたかな言語のあらわれであった。英語でも、ときには田舎とも訳されるcountryがそれに当る。 

 だが他方国家stateとは、近代になってはじめて登場した政治的・法的な体制であり、制度である。独裁制であるか民主制であるかなど、その形態はいろいろあるが、なんらかのかたちで国民nationから委託された権力(ナチスでさえも国民からの全権力の委任を定めた受権法を必要とした)によって国家の統一と維持をはかる。しかし、富の蓄積によって国家が強大になればなるほど、国家はその管理機構と化し、国民は管理の対象にすぎなくなる。マルクスの用語を使えば、「国民の自己疎外」とでもいうべき現象がはじまる。セミパラチンスク近郊の被爆者たちが、旧ソ連の「診療所」でいっさい手当てを受けず、被曝のデータと症状のみを記録され、われわれは核実験のモルモットだと怒っていたが、それがきわめて象徴的である。国民は国家利益(国益)のためのモルモットにすぎない。 

 国民と国家との分裂と背反、英語でいうnation-stateからハイフンが失われ対立するこの現状が、世界のすべての近代国家の宿命である。

国民的トラウマと国家的トラウマの分裂 

 したがって逆にいえば、わが国のヒロシマ・ナガサキ問題も、国民のレベルでは深いトラウマとなっているが、国家のレベルではトラウマではなく、その記念日もときには総理大臣が出席して挨拶するたんなる年中行事にすぎないといえる。 

 また国民的トラウマではあるが、被害者意識のみが先立ち、最終的に原爆投下となったあの戦争を引き起こした加害責任が往々にして忘れられるのも、この分裂ゆえであろう。つまりヒロシマ・ナガサキは英語でいえばナショナル・トラウマであるが、これに先立つ日本のアジア侵略やそれにともなう太平洋戦争開戦という、アジア・オセアニア荒廃の責任も、同じ英語のナショナル・トラウマであるはずだ。だが前者は「国民的」、後者は「国家的」という分裂が国民の加害者意識を消し去っている。 

 だが国と国民が一体であった時代ではなくなった近代といえども、国民と国家の分裂にもかかわらず、国民はみずから負う国家への責任から逃れることはできない。この二つトラウマの絆を結びなおし、国家に対するわれわれの責任を声高に主張することこそ、核廃絶という果てしない道を歩む第一歩にほかならない。

 



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