北沢方邦の伊豆高原日記【114】
Kitazawa, Masakuni
紅、白、桃色などサザンカの花が各所で満開となった。雑木の黄色や赤茶けたまばらな葉を透かして、海が青く光る。風もないのに枯葉の舞がつづく。
オウム真理教事件
オウム真理教事件のすべての裁判が終結した。事件はすでに過去のものと思われている。だが、バブル経済崩壊後のあの頃より、現在さらに状況は悪くなり、時代の閉塞感は逼迫している。高い失業率や自殺率、蔓延する鬱病が若者をとらえ、新保守主義的価値観が強要した「自己責任」なるものが、彼らを追い込んでいる。形を変えたオウム真理教事件がふたたび起きないという保証はどこにもない。その警告のためにも、いまから16年前に書かれたエッセーをここに採録することにした。これは最初週刊『金曜日』の依頼で書かれたものであるが、「空中浮揚などという重力の法則に反した非科学的なことはありえない」とする左翼唯物論に立つ同誌編集部に掲載を拒否され、翌年CSヨガ普及会の機関誌に掲載されたものである。
ヴァジラヤーナ・サティア(金剛乗真理)
空中浮揚は可能か? 答えは二つの意味でイエスである。
すなわち、ヨーガで言うパドマ・アーサナ(蓮華座)を組み、ふとももや尻、そして足首の筋肉力を利用して跳躍し、その瞬間を写真にとることである。立って跳躍した瞬間を写真にとり、それを空中浮揚と呼んでもだれも信用しないが、蓮華座では一見超常現象のようにみえる。だが訓練しさえすれば、だれでもが「浮揚」可能になる。
空中跳躍にすぎないこうした「浮揚」ではなく、ヨーガではほんとうの空中浮揚(レヴィテーション)は可能とされている。よほど修行をつんだヨーガ行者でなくては不可能だが、机ようのものの上にシャヴァーサナ(死体の姿勢)のかたちで横たわり、全身の力を抜き(修行すればわかるが、これがもっとも困難である)、プラーナを一点に集中すれば、やがて弟子が机を取り去っても身体はそのまま空中を浮揚している。これが真の空中浮揚である。蓮華座でも、こうした方法で1メートル以上の浮揚は可能である。
ペリカン・ブックスの名著『ヨーガ』の著者であり物理学者でもあるアーネスト・ウッドは、インドで直接これを見聞し、野外の陽光のもと、トリックはなにもないことを確認している。空中浮揚にかぎらず、しだいに呼吸数をへらし、最後に舌で喉の鼻孔をふさいで呼吸を停止し、「冬眠」に入るケチャリー・ムドラーなど、信じられないようなヨーガの技法は他にもいくつもある。
だがヨーガの目的は、空中浮揚や冬眠それ自体にあるのではない。そうした技法によって形成された非日常的な心身の感覚を通じて、宇宙の広義の生命の波動と一体化することである。この思考のアイデンティティの状態を解脱(モクシャ、またはムクティ)という。ひとたび真の解脱に到達したものが、世俗の野心や欲望に突きうごかされることなどけっしてありえない。なぜなら彼または彼女は、たとえ現世にあってももはや向こう側の世界に存在しているのであって、そうしたまなざしでのみこの世を判断するからである。空中跳躍をする「最終解脱者」なるものが、こうしたヨーガの定義にまったく当てはまらない俗物であることはいうまでもない。
しかし問題は、たとえ偽解脱者が主宰するものであれ、多くの、しかも知能的に優れた若者たちが、超常現象や超能力に惹かれ、疑似出家集団に入信した事実である。その背景には、若い世代にひろがっている近代文明への懐疑や危機意識がある。近代の「知」はもはや変転する現実を認識できず、知的無能力をさらけだしている。この状況が頽廃であり、危機であるのだ。
近代の知が、なぜこの現実を把握できないのか。それは近代世界が、人間や社会をひたすら合理的なものとして認識し、個人の生活から政治経済制度にいたるまで、そのように造りあげてきたからである。何十億年もの地球の歴史のなかで形成されてきた有機物・無機物の共生と創造の法則にむしろ敵対し、ひたすら孤立した《合理的》な人間の世界を追求してきた近代文明は、その果てにみずから生みだしてきたもろもろの《非合理的》怪物に脅かされることとなった。
たとえば冷戦崩壊後のいわゆる民族紛争や宗教戦争である。ボスニアの現実が示したのは、近代化によって種族の文化的アイデンティティを喪失した集団相互の殺し合いであって、何千年ものあいだ共存しあってきたキリスト教やイスラームという宗教とはなにも関係ない。なぜなら種族の文化的アイデンティティを非合理なものとして抑圧し、《普遍的人間性》を説いてきた近代世界では、諸集団を拘束してきた国家や法という枠組みが崩壊するや否や、他者を差別することでアイデンティティを確保するほかはないからである。種族の文化的アイデンティティがないかぎり、《差異》を認めあう寛容は生まれない。ボスニアの戦争は、近代の熾烈な相互差別の戦争以外のなにものでもない。これが《非合理的》怪物の一つの顔である。
近代の知には、もちろん近代科学も含まれる。近代科学の根本的矛盾は、その合理的方法によってとらえうる対象のみを分析し、それによって世界の全体を解明しうるとしたことである。儒教的合理主義の《怪力乱神を語らず》に似た《語りうるものは明晰に語れ、残余は沈黙のみ》というヴィットゲンシュタインのことばは、そのような認識の本質を現わしている。だがむしろ宇宙や自然の本質は、彼の言う沈黙の領域にある。それはいわゆる非合理的なものではない。ただ近代科学ではとらえられない超合理的なものなのだ。
たとえばすでに述べたプラーナ(気)である。近年中国の気功術の紹介によってひろく知られるようになったが、訓練と集中によって手のひらから放射されるプラーナは、治癒力をはじめとする驚くべき《超能力》を示す。既存の科学的方法や計測機器では、その実体はまったく把握できない。このように、近代科学の信仰に囚われたものにとっては非合理的な《沈黙の領域》、しかし近代の知の頽廃に幻滅した多くの若い世代にとっては魅惑的な神秘の世界は、むしろ宇宙や自然のほんらいの姿である。脱近代科学の最先端ともいうべき最新の物理学である多重世界解釈論、あるいは超弦理論では、世界は10次元(または11次元)の超空間(ハイパースペース)で構成され、その空間のもつ奇妙な位相的性質が超常現象や超能力をもたらすとしている。イエス・キリスト以来先天的に超能力をもつ存在は、つねに一定の確率で人類に出現するのであって、そこにはなんの不思議もない。
種族の文化的アイデンティティから超常現象にいたる多様にして深い超空間的世界を統合的に把握できない近代の知の無能力は、刻々と地球環境の危機を招き、人間世界の混乱や紛争、あるいは戦乱をもたらし、人類の未来を危うくしている。
話を日本に限定してもよい。すべてのものの自由化を至上とする7・80年代の新保守主義がつくりあげたカジノ(賭博場)資本主義──経済学者スーザン・ストレンジの命名である──は、バブル経済の興隆と崩壊をもたらし、日本社会全体を投機の賭け金と化しつつある。政治にいたっては、薄氷の上にある経済にも、変革を求める国民の多数の政治意思にも盲目に、いたずらに変転する現実に振り回されているだけである。またカジノ資本主義が生みだした肥大した欲望の充足や私権のみの追求を是とする利己的な価値体系への反発、それに必然的にともなうモラルや文化や風俗の頽廃への反感、いわゆる一国平和主義とその「繁栄」に安住して第3世界の真の自立の手助けをしようとしない先進国エゴイズムへの自己嫌悪、さらにそうした精神や心の荒廃にまったく鈍感な大人たちへのいらだちなど、若い世代にひろがっているこうした危機意識を理解しないかぎり、オウム真理教事件は姿を変え、形を変えて起りつづけるにちがいない。
脱近代の知の確立、それのみがえせ終末論の跳梁を終わらせ、世界の混迷を救う真のヴァジラヤーナ(金剛乗=金剛石の乗り物)となるのだ。
(注)表題は偽の最終解脱者が、自分たちの教義は大衆向けのマーハーヤーナ(大乗=大きな乗り物)ではなく、エリートのためのヴァジラヤーナだと称したことへの反論でもある。 また読者が当時の細かい事情にうとくなっていることをも考慮し、本文に若干の修正を加えた。