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一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【99】

2011-04-12 20:56:22 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【99】
Kitazawa, Masakuni  

 大震災の影響ではないが、自然のリズムもいささか狂っているようだ。このあたりのソメイヨシノは葉桜となりかかり、緑を増したツツジの深紅のつぼみが膨らんでいるというのに、これより下の桜並木ではソメイヨシノはまさに満開であり、桜祭りの自粛で人波はみられないが、空の青を背景に、陽光に溢れるばかりに輝く花の隧道である。いつも本居宣長の「敷島の大和心をひと問はば」を思い起こさせるヴィラ・マーヤの山桜は、まだ満開で、濃い緑の葉と純白の花の清楚なとりあわせが「朝日に匂」い、視野一杯にひろがる。 

 ホピの今井哲昭さんに、「ホピからの便り」としてブログの連載をお願いしたが、やはりホピに暮らすものとして、どのようなメディアであれ、外に向かって語ることはできないとのことです。その代わり必要なときには、私のアレンジした情報は載せてもいいとのことで、以下前回の便りから抜粋します。 

 日本ではいまだに《名ドキュメンタリー》として上映会などが行われている宮田 雪(きよし)の『ホピの予言』についてのきびしい批判です(いつかも記したように、ナバホ鉱夫のウラニウム被曝について書いた私の論文の一部を、画中でナレーションとして盗用しています。また以下の[ ]内は私の補足です)。

『ホピの予言』について 

 そうですか、10月1日ですか、「知と文明のフォーラム」の財団法人設立祝賀会ですか、私もかけつけたいです。みなさんにお会いして、ホピの話をお聞かせしたい。 

 宮田 雪の訃報が入りました。実になんと16年に渡る無意識の闘病生活だったようです[2作目の撮影が終わった直後ホピで倒れ、植物状態になったようです。青木やよひによれば「ホピの神様が怒ったのよ」とのこと]。

 9年間[今井さんが]世話したPJ(パルマー・ジェンキンス)によれば、「何やら事故やら病気に見舞われたら、現在だけではなく過去にも遡って、よく自分の行いをふりかえって見ることだ」と。

 で、私は『ホピの予言』をじっくりと、真剣に見ることにしました。 

 ひどいですね、あの映画! ムチャクチャいっている所が何か所もある。それが佐藤 慶という役者の実にいい地にひびくような声で言われると、知らない者には真実のように聞こえてくる。たとえば:

1)「ホピとナバホは互いに異なった言語と文化や歴史を持ちながらも、平和的に大地を共有し、共に偉大なる精霊から与えられたその恵みを分かちあうという伝統を今日まで守ってきたのである」
 なにを言う。後からやってきた戦士部族のナバホは、非戦士部族のホピに常に侵略や挑発を仕掛け、家畜や収穫物を略奪し、ホピの土地に入り込み、ここ百数十年以来土地争いの歴史である[19世紀以来ホピの村の首長や長老たちはたびたび合衆国大統領にナバホの不当を訴えてきた]。

2)「19世紀後半、合衆国政府の圧倒的な武力によって土地を奪われたナバホ族は、昔からホピの住む不毛の砂漠地帯に強制移住させられた」 
 もうこうなってきますと何が何だかわからなくなります。ムチャクチャだ[1864年、キット・カースン率いる合衆国陸軍との戦闘に敗れ、土地も家畜も果樹園も家も失った生き残りのナバホの人々が強制移住させられたのは、はるか離れたニューメキシコ州のボスケ・レドンドの砦(フォート・サムナー)であって、ホピとは関係ない]。

3)「しかし皮肉なことに、この砂漠地帯が実は無限のエネルギー資源の鉱脈地帯だったのである」 
 これもムチャクチャだ[1866年、ボスケ・レドンドのナバホがあまりにも悲惨な状況であったため、政府に派遣されたウィリアム・シャーマン将軍は、以後ナバホは戦闘を行わないという平和協定を結ぶことによって、元の居住地への帰還を許す。1940年代前半、マンハッタン計画(原爆製造)推進中、ナバホ保有地東部にウラニウムが発見され、ナバホを優先雇用するという約束でカー・マッギー社が鉱山を開発し、ナバホ鉱夫たちが低線量長期被曝にさらされる]。

4)「この地域(ビッグ・マウンテン)に住むナバホは、多くのナバホの中でも最も伝統的な生活を送る人々である。彼らの知っている唯一の法律は自然の法律である。だが政府と企業は今この地域に眠るウラニウムや石炭を新たに採掘するために白人の法律を盾に、住民である彼らを強制的に移住させようとしているのだ」 
 違うでしょ、それは。ビッグ・マウンテン[西部地域であり、本来ホピの土地に多くのナバホは後から移住してきた]のナバホは「最も伝統的」ではまったくない。ビッグ・マウンテン問題は、ホピ・ナバホの古くからの土地問題であり、1974年に両者が結んだ協定による境界からのナバホの撤退がこじれたものである。

5)「トーマス・バニヤッケはホピ族に先祖代々伝わる予言を世界に伝えるために部族の長老に選ばれたメッセンジャーだ」 
 そんなことってありえない。予言を含め、氏族や宗教結社にかかわることは、カチナ儀礼以前の子供や部族以外に漏らしてはならないと、厳格に教育され、ホピ同士でも守っている[バンヤッキャは部族以外では伝統派のスポークスマンとして有名であったが、1997年、他の自称長老たちとともに、伝統派の真の長老たちによって部族内で告発された。また宮田氏など彼らと結んだ白人や外国人たちも、厳しく指弾された]。 

 それにしてもトーマス、ムチャクチャ言っている。画中でマーサウ[大地の守護神]までの話はほんとうだが、「予言の岩絵[ペトログリフ]」の説明:「二手にわかれた、上下に、横の2本の線は、上が白人の道、下がホピの道」とここまではいい。次に「ここに二つの円が描かれているが、最初の円は第1次世界大戦の予言、次の円は第2次世界大戦の予言、もしくは最初の円はヒロシマに落ちた原爆の予言、次の円はナガサキに落ちた原爆の予言を表しており、祖先の予言が成就した」と。 
 ええー、うっそ―! これは英語で言うハインドサイト[結果をみての理由づけ]、マージャンでいうアトヅケというのに近い作り話だ。

 さらに次の:「灰の詰まったヒョウタンが飛んできてそれが炸裂すると多くの人が死ぬと祖先は予言している。ヒロシマ・ナガサキでその予言は成就した」に至ってはマユツバとしかいえない。
 あの岩絵は「ホピがホピの道を誤るとホピは死ぬ」という警告を刻んだものだ。[1906年の]ユキウマを長とする伝統派と、タワクワプテワを長とする進歩派とがオライビの村で衝突したとき、伝統派が進歩派に警告するために刻んだもので、トーマスがいう「祖先の原爆の予言」などというものではない。これについては面白い話がある。 

 PJの具合が悪く、キームス・キャニオンの病院に入院したとき、偶然にもトーマスと相部屋だった。ちょっと意地悪心を起こしてPJが、「おいトーマス、灰の詰まったヒョウタンの話、だれから聴いたんだ?」と訊ねると、トーマスは黙ってなにもいわなかったそうだ。 

 3年ほど前、アメリカ自然史博物館の人類学部門の学芸員で、オライビの歴史の専門家でもあるピーター・ホワイトリーさんにこの『ホピの予言』の話をしたとき、彼は「それは信じたいと思っている人が勝手にそう思っているだけだ」とさらっといっていました。 

 わが日本ではそれを信じたいと思っている人がやたらに多く、大手メディアまでが乗っているのですね。メディアが勝手に信じたりするなどとは許されません。 

 ここまで書いた所で、仙台のM8・9[9・0]という大地震のニュースがラジオから流れてきました。たいへんなことになっているそうで、これはトーマスのいう(これは正しい)「コヤーニスカッツィ」[終末のとき]の到来と見ていいのだろうか? 

 とするなら、今人類はなにをせねばならんのだろう。ホピのひとたちのモットーとする「シンプルで謙虚な生き方」Simple and humble way of lifeから何か学ぶものがあるかもしれない。


北沢方邦の伊豆高原日記【98】

2011-03-24 07:30:27 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【98】
Kitazawa, Masakuni  

 ようやくウグイスが試し鳴きをはじめた。緋寒桜はもう葉桜で、コブシの白い花が満開だというのに、相変わらず寒い。被災地の方々の苦労が思いやられる。福島第1原発も、チェルノブイリ並みの最悪事態は避けられそうだ。 

 私の『感性としての日本思想;ひとつの丸山真男批判』(2002年、藤原書店)の、金容儀教授のご努力による韓国版が近く発行の予定だ。以下に「韓国版への序文」を転載する。最後に今回の大災害に対する韓国の支援への感謝の辞を付け加えたのだが、金教授からまだ返事のないところをみると、間に合わなかったのかも知れない。

韓国版『感性としての思想──ひとつの丸山真男批判』序文  

  この本の最初の外国語訳が韓国語であることは、私にとって、光栄であるとともにきわめて喜ばしいできごとである。

 

なぜなら韓国は、隣国であるだけではなく、世界でもっともすぐれた表音文字の体系ハングルを、みずから生みだした創意の国だからである。原シナイ文字からギリシア、ローマなどいくつもの文明を経由して完成されたアルファベットやキリル文字をはじめ、母音と子音が不可分という世界でも特異な音韻体系をもつ日本語の表音文字も、中国の漢字の部分的借用(片仮名)や草書体の流用(平仮名)によって創られたのであり、ハングルのようにみずからの創意で生みだされたものではない。こうした国で私の著書が評価されることの喜びは、おわかりいただけることと思う。

 

だが同時に、韓国版への序文を書くことに、私は複雑な感慨を覚えざるをえない。なぜなら、日本の帝国主義が朝鮮半島に対して過去に冒した大きな過ちは、いまなおわれわれ自身にさえも心の傷として残っているからである。そのうえいまもごく一部の知識人たち、不幸なことにメディアに影響力のあるごく一部の知識人たちは、歴史認識のレベルではあるが、その過ちを継承しつづけている。

 

しかし逆説的ではあるが、そのことには大きな理由がある。つまり日本の多くの知識人は、みずからの文化のもっとも奥深い本質にまったく無知だという事実である。みずからの文化の本質を理解できないものは、異文化を理解することはできない、というのは人類学の鉄則であるといっていい。

 

なぜこうした誤りやゆがみがもたらされたのか。それはいうまでもなく、明治近代化の誤りやゆがみが、そのまま知や学問の領域に反映してきたからである。たしかに帝国主義的な国家目標や戦略が破滅を招いたことは、戦後ひろく認識されてきた。だがその反省が逆に、明治期に福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」のいっそうの徹底化、いいかえれば内なる《日本人性》や《アジア性》の徹底した否定と、欧米の知や社会の規範としての《合理性》の全面的な受容をもたらしたのだ。

 

これが丸山真男に代表される「戦後民主主義」の思想的潮流にほかならない。たしかに戦後民主主義は、明治近代化に郷愁を抱く保守派やナショナリストたちの国家目標や戦略に異議を唱え、一九六〇年のいわゆる安保闘争によって、わが国の進路を近代的民主主義と経済的高度成長の方向に大きく転換させた。だが知の領域では、左翼的あるいはリベラルといった違いはあるにしても、明治近代化の一側面である「脱亜入欧」の促進に対して、異議申し立てはほとんど存在しなかった。世界での日本の特殊性──それも皮相な指摘にすぎなかったが──を主張する一時期の「日本人論」に代表されるような疑似ナショナリズムにしても、「脱亜入欧」の前提に反対するわけではなかった。

 

そのなかで、歴史認識のレベルで誤りを継承しつづけているひとびとのみが、日本の真の伝統ではなく、明治近代化によって徹底的にゆがめられた《伝統》なるものを「脱亜入欧」に対置し、明治ナショナリズムの復権を声高に叫んでいるにすぎない。だが公教育の場で依然として正しい歴史認識が徹底していない日本では、こうした明治ナショナリズムの一般的な復権の危険が大いにありうるといってよい。たとえば、一昨年より各年末に放映されている司馬遼太郎の原作によるNHKのいわゆる大河ドラマ『坂の上の雲』は、日清・日露両戦争という日本帝国主義の興隆期を、歴史観や歴史認識の問題を棚上げして描くことによって、明治ナショナリズム復権に加担する危険を冒している。

 

西欧合理性への信仰や「脱亜入欧」の徹底という戦後民主主義と、ゆがめられた伝統にもとづく明治ナショナリズム復権の主張との不毛な対立は、もはや終わらせなくてはならない。通信交通手段の急速な展開とIT革命に裏づけられたグローバリゼーションの進行は、もはや妨げることはできない。そのおかげで相互に「近くて遠い国」であった韓国と日本は、「近くて近い国」へと変貌しはじめたのだ。

 

だが他方、瞬時に世界をかけめぐる巨大流動資金によって経済的世界制覇を試みたグローバリズムの破局と終焉は、二十一世紀の世界を新しいリアリティに直面させている。それは、自然における生物多様性のたんなる保存というよりも復活が、人類の生物学的生き残りを保障するように、人間の文化の多様性の復活が、人類の知的で身体的な創造性の保障となるということである。そのためにはそれぞれの種族や国──国家ではない!──が、自己の文化や思考体系の本質を理解し、それによって異文化の真の理解にいたらなくてはならない。

 

この本が、韓国と日本相互の真の理解に少しでも貢献できれば、これにまさる幸いはないと考えている。最後に、この本を評価して全南大学のセミナーのテクストとして使用していただいただけではなく、翻訳と出版の労までとっていただいた金容儀教授に心からお礼を申しあげる。

 

     二〇一一年三月

                       北 沢 方 邦


北沢方邦の伊豆高原日記【97】

2011-03-17 17:06:44 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【97】
Kitazawa, Masakuni  

 三月も半ば過ぎだというのに、真冬並みの寒さである。被災者のみなさんにはほんとうにお気の毒だが、この冬型の気圧配置とその強い北西の季節風のお蔭で、壊滅的な福島第一原発から漏れている放射能の大半は太平洋に吹き散らされているはずだ。 

 伊豆も緋寒桜は散りかけ、駅前の大寒桜(オオカンザクラ)が淡い緋色の花をつけているが、それ以外は冬景色といっていい。二月の末か三月のはじめには聴けるウグイスの初鳴きが、こんなに遅れているのも経験したことがない。それに代わって今朝、きわめて美しい小鳥のさえずりで目が覚めた。鳥の名を知らないのが残念だ。

東北関東大震災について 

 東北地方がその上に乗る北米プレートが、その下へと太平洋プレートがもぐりこむ日本海溝に沿って5百キロも破断したM9.0の今回の巨大地震・巨大津波は、日本の歴史のうえでも空前の被害をもたらした。亡くなられた方には心から哀悼の意をあらわし、また被災者の方々が1日も早く人間的な生活を取り戻されることを祈りたい。 

 利便と快適さと、そのための経済合理性のみを追求してきた近代文明とその高度なテクノロジーが、いかに脆弱な基盤の上に築かれていたか、思い知らしてくれた大災害である。原発や石油化学プラントをはじめとするそのためのインフラストラクチャーが、この災害をさらに拡大しているのも歴史の皮肉というほかはない。1960年代末から近代文明の転換を訴えてきた私としては、わが国のみならず、世界のひとびとがこの大災害を教訓として、やがてもっと恐ろしい人工的な災厄に見舞われるかもしれないこうした文明の限界を肝に銘じ、みずからの生活を変えることを含め、文明の根本的転換へと動きはじめることを願いたい。 

 1975年、はじめてのホピの長期滞在の前に、メキシコの国際婦人年に参加する青木やよひと別れて私は、ニューヨークとワシントンDCで、原発の危険性についての資料を収集するとともに、シエラ・クラブをはじめいくつかの環境運動団体の幹部たちにインターヴューを行い、原発の危険性とあるべきエネルギー政策について多くを学んだ。帰国後ホピについての本を書くとともに、原発反対の主張を展開したが、そのころすでに政府や自民党をはじめ多くのメディアが原発推進に大きく舵を切っていた。 

 ただ当時、原発反対の公明党やその支持団体創価学会のみが、公明新聞や雑誌「公明」、「潮」や「第三文明」といったメディアに書く場をあたえてくれた。「原発推進は朝日新聞の社是です。この方針にしたがって記事を書くように」という趣旨の論説主幹岸田純之助の通達が社内に配布されていた朝日をはじめ、各新聞やその系列雑誌などすべてから書く場を拒否された。84年のホピ紀行の折、ナバホのウラニウム鉱山で働いていたナバホ鉱夫たちが、低線量長期被曝によって多くの死者をだし、ガンに苦しんでいるのを目の当たりにした私にとって、村上陽一郎氏が読売新聞に書いた「原発はクリーンなエネルギー」という趣旨の記事に我慢ができず、読書欄担当の記者(私は読書委員をしていた)を通じて、ようやくナバホ鉱夫たちの悲惨を伝える反論を掲載させるにいたった(それでも原発反対の部分は削除された)。 

 それ以後、奇妙なことに(おそらく読者拡大のために)創価学会・公明党アレルギーのもっとも少なかった読売からも排除されるにいたった。 

 こうしたことを長々と書いたのは自己満足のためではない。すでに60年代から70年代にかけて、世界の心あるひとびとや知識人たちが、致命的な危険を内包する原発推進はエネルギー政策として最悪の選択であることを訴えていたにもかかわらず、またその後スリーマイル炉心溶融事故や恐るべきチェルノブイリ原発大事故を経験したにもかかわらず、日本を含めた世界の多くの政府が、この最悪の選択をさらに進めようとしている、この迷妄に警告を発したいためである。 

 しかし、この大災害で心に残ったことがある。それは日本人のモラルの高さである。東京などむしろ安全な各地で食料品の買いだめなど醜いパニックが存在するが、被災地では恐るべき状況であるにもかかわらず、人々は礼儀正しく、感情も抑制し、互いに助け合い、慰めあい、自分たちでできることを黙々とやっている。比較的治安が良いといわれていたニュージーランドでさえ、クライストチャーチの震災では、商店の略奪などが起きていたし、その他の国々でも災害時、略奪や暴行、食料や飲料の奪い合いなどはあたりまえと思われているのに、このすばらしい光景である。世界各国のメディアがこの光景に驚き、称賛しているのも当然である。 

 私が『感性としての日本思想』(2002年藤原書店)で訴えたかったことも、このすばらしい「日本人性(ジャパニーズネス)」が、『古事記』以来の文化の基本にあったことを示したかったからにほかならない(韓国版への序文は次回に掲載します。訳者の金容儀教授からも震災のお見舞いメールが届いています)。皆さん、日本人であることを心から誇りに思い、自信をもってください。

量子のもつれ 

 これで終了しようと思っていたが、地震前から読みはじめ、読み終わったルイーザ・ギルダーの『量子のもつれ;量子物理学が生れ変ったとき』(Gilder, Luisa. Quantum Entanglement; When Quantum Physics was Reborn,2008)があまりにも面白く、前回紹介したマンジット・クマールの本とまさに対称となる内容であるので、ここに紹介を兼ねた「覚書」を記しておく(昨夜は興奮して寝られなく、明け方の3時までベッドでメモを取っていた)。 

 量子力学とそのコペンハーゲン解釈が、一時期絶対的な権威となったことは前回記した。だが、この解釈に反対し、古典力学の支配する巨視的世界と確率論的な微視的世界とを統合的に認識しようとする努力は、シュレーディンガーをはじめ、かなり長期間つづいていた。その統一理論の探究者たちを、コペンハーゲン解釈派は半ば軽蔑をこめて「隠された変数派」と呼んだ(微視的世界に隠されている変数を把握できれば統一理論は可能だと考えているとして)。 

 だが徹底した論理実証主義者といっていい高名な数学者フォン・ノイマンが、量子力学においては「隠された変数」は存在しない、という数学的証明をして以来、コペンハーゲン解釈は疑いようのない真理として物理学界を支配した。 

 1935年、アインシュタインはそこに一石を投じた。プリンストンでの若い弟子ポドルスキーとローゼンとの3人の討議を、英語に堪能なポドルスキーがまとめた論文「量子力学による物理学的リアリティの記述は完全と考えうるか?」である。もちろん当初は黙殺に近い扱いであったが、それはのちに彼らの頭文字を連ねたEPR効果またはEPR逆理としてコペンハーゲン解釈の虚をつく巨大な影響力をもつにいたる。 

 シュレーディンガーはもちろん賛同したが、この論文に心を奪われたひとりは若きデーヴィッド・ボームであった。オッペンハイマーの弟子としてマンハッタン・プロジェクト(原爆製造計画)に携わった彼は、学生時代一時アメリカ共産党にかかわったがゆえに、戦後悪名高い議会の非米活動委員会に召喚されたことに加え、コペンハーゲン解釈に異議を唱える異端として各大学や学界からも排除され、ブラジルのサンパウロ大学にかろうじて職をえるにいたった。 

 ボームが異議を唱えたのは、コペンハーゲン解釈が自明の前提としていた素粒子の独立性と局所性であった。つまりすべての粒子は相互作用をするが独立した点(ゼロ次元)であり、その活動は局所的、つまり大域にはひろがらない、というものであった。だがすでにシュレーディンガーが指摘し、EPR論文でも取りあげられたように、相互作用をする粒子は「もつれ(インタングルメント)」という現象を示すことが知られていた。ボームはこの問題を追求し、量子(粒子のエネルギーの束)は独立的ではなく、非局所性をもつことを証明した。つまりコペンハーゲン解釈のよって立つ「事実」に痛烈な一撃をあたえたのだ。 

 理論的にそれを決定的にしたのは、アイルランド生まれの物理学者ジョン・ベルである。ベルの定理またはベルの不等式とよばれる数式を確立した彼は、それによって量子のもつれを完全に定義しただけではなく、粒子の非独立性・非局所性を証明し、あまつさえフォン・ノイマンの「隠された変数の不可能性」の証明が誤っていることさえ証明してしまった。これは画期的な業績である。ベルはコペンハーゲン解釈派の牙城であり、当時最大の加速器を備えたジュネーヴのCERN(ヨーロッパ核探求施設)の研究者であったが、所内では腫れものに触るようなあつかいであったという。 

 EPRとボームとベルの諸論文に魅せられる若い研究者や実験物理学者たちが、80年代続々と登場する。その多くはボームと同じように「学界難民」で苦労していたが、実験施設をもつ大学につとめる友人たちとひそかに共同し、手製の実験器具でEPR=ボーム=ベル理論の実験をはじめる。たとえば長い左右の光子管(フォトテュ-ブ)の中央に高温でカルシウムなどの原子を光に相転移させる装置を置き、それによって光子管内に出現した光線に、たとえば左端でレーザー・ビームを当てると、全く何もしない右端で同時に光の色彩変化が出現する。仮に光子管の両端を宇宙の果てにまで伸ばしても結果はおなじである。つまり距離のいかんにかかわらず、量子のもつれは現れるのだ。それだけではない、もつれた量子aは別のもつれた量子bと相互反応によって量子系のもつれを起こし、そうやって世界は量子のもつれから生成しつつあることさえ判明してきた 

 コペンハーゲン宗からの改宗者が続々と現れ、さまざまな実験を試みたが、すべてが同じ結果をもたらし、「量子のもつれ」とそれによる粒子の非独立性・非局所性が実証されるにいたった。 

 多重世界解釈が世界および宇宙の「解釈」によってコペンハーゲン解釈とそれによる標準理論をくつがえす「革命」を起こしたとすれば、量子のもつれはコペンハーゲン解釈と標準理論を、理論の前提とする「事実」においてくつがえすことで「革命」となったのである。いまや「相補性」(二元論を正当化するニールス・ボーア法王[ギルダーの言]とその信者たちの唱える念仏!)を隠れ蓑としてきたコペンハーゲン解釈の鉄壁と思われた牙城は、音をたてて崩壊しつつある。 

 青木やよひがベートーヴェン研究で、作曲家の人格や世界観がその作品に決定的な影響をもたらしていることを証明し、作品と作曲家自体はなにも関係ないとする「絶対音楽」の神話(これも音楽的論理実証主義である)をくつがえしたが、理論物理学や数学というもっとも抽象的な学問分野でさえも、研究者の人格の内奥や世界観がその理論に決定的な影響をおよぼすことが、この本を読むと明かとなる。 

 アインシュタインのガーンディやスピノーザ哲学、シュレーディンガーとボームのインド哲学(苦難の果てにボームは、クリシュナムルティを媒介としてインド思想と出会い、救われる)など、彼らの物理学的一元論とその世界観または思想としての一元論とのこの絶妙なハーモニーは深く考えさせられる。 

 近くストリング理論の最先端にいるブライアン・グリーンの『隠されたリアリティ』という本が手に入る予定だが、いまそれを心待ちしている。これは私が現在探求している主題そのものをタイトルとしている。いよいよこれらをもとに世界像の大転換について本を書く意欲が、ふつふつと沸いてきた。


北沢方邦の伊豆高原日記【96】

2011-02-24 10:43:33 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【96】
Kitazawa, Masakuni  

 庭のいくつかの水仙の群落が花盛りである。数本を切って花瓶に挿しておいたが、野生の花のあまりにも強烈な香りが室内に充満し、酔いそうなほどだ。早咲きの梅はすっかり散ってしまったが、ウグイスの初鳴きはまだである。

中東「近代化」の欺瞞 

 リビア情勢が緊迫している。東部は反カダフィ派の民衆と一部の軍が制圧し、西部ではカダフィに忠実な治安部隊や軍によるデモ隊の殺戮がはじまっている。おそらくすでに内戦状態であろう。 

 エジプトは新しい国造りの段階に入ったが、今回の「民衆革命」は大きな教訓を与えてくれた。つまり中東という異文明の「近代化」とはなんであるのか、そして「自由」と「民主主義」を求めたエジプトの民衆にとって、それらの概念は何を意味しているのか、である。 

 王制を打倒したナセル(ナスル)は社会主義的近代化を目標とし、ムバラクは資本主義的・新自由主義的近代化をはかったが、いずれも挫折したといわなくてはならない。どのような近代化であれ、一般民衆にとってそれは、上から強制された「変革」、つまり伝統的な生活様式の放棄を迫られることであり、法と秩序の名のもとの近代諸制度による管理を押し付けられることであった。さらにムバラク時代、この諸制度には汚職と腐敗が蔓延し、選挙制度は欺瞞そのものと化し、治安警察による隠れた支配が一般化した。 

 エジプトだけではない。かつてのわが国も含め、異文化・異文明の国々に形式的に導入された「近代化」は、つねにこうした恐るべき歪みをもたらす。わが国の明治近代化は帝国主義的国家目標と戦略によって破滅はしたが、法と秩序に関しては一定の成果(それを評価するわけではまったくない)を収めたのは、徳川時代のすぐれた武家官僚制度が遺産として存在していたからである。だが、いまなお部族や氏族への帰属意識が強く、しかも長い植民地支配による徹底的な抑圧を受けてきたアラブ諸国では、事情が異なる。 

 こうしたゆがめられた「近代化」に対抗して民衆は「自由」や「民主主義」求め、闘ったのだが、それは欧米流の概念とは大きく異なるものだといえよう。

イスラームにとっての自由と民主主義 

 西欧的自由や民主主義は、基本的に個我の権利や自己主張であり、法や社会はそれらの衝突の調停者として存在するといっても過言ではない。だがイスラームという価値体系を共有するひとびとは、それを尊重する異宗教のひとびとに寛容であるだけではなく、相互に寛容である。利害の衝突は、部族間や氏族間の直接的な話し合いでシャリーア(法)にもとづいて解決してきた。 

 こうしたひとびとにとっては、話し合いによってもたらされるイジマー(合意)こそが民主主義の根幹である(ルソーにとってモデルはアメリカ・インディアンであったが、多数決の民主主義に対して、それを一般意志の民主主義と呼んだ)。 

 自由も同じであろう。彼らにとって自由とは、自己と他者との差異化でも、権利の相互主張でもなく、身体や感性を含めた自己の存在の保障である。いいかえれば自己の生活とそのあり方、そこで考え、なにかを生みだすことの保障といえよう。 

 だがこれこそが人間本来の全体的な自由ではないだろうか。今回タハリール(解放)広場を埋め尽くす大群衆のなかで、あちこちで伝統楽器ウードを片手に、多くの若者たちがムバラク体制の風刺や民衆蜂起の喜びを、これも伝統的な詩型に乗せて歌い、まわりの聴衆の喝さいを浴びていたが、その躍動的なリズムそのものが、彼らの目指す「自由」を象徴しているように思われた。


北沢方邦の伊豆高原日記【95】

2011-02-12 22:41:23 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【95】
Kitazawa, Masakuni  

 昨日は氷雨から雪、今日は牡丹雪から雨と、満開の紅梅を背景に、久しぶりに本格的なお湿りである。ホピのシャボテンを出しておく。ホピは伊豆と北緯35度と緯度は同じだが、海抜2,000メートルの高原で、はるかに寒さきびしく、雪が深い。十分水を吸ったことだろう。

心躍るニュース 

 今井哲昭さんから来信で、ホピの村々の主権を制限しようという憲法改正案が、1月27日の住民投票(部族議会と書いたのは誤りのようです)で否決されたとのこと、「拒絶されました!……ほっとして胸が熱くなりました。ホピは永遠です!(どこかで聞いたようなことばですが)。ホピの伝統を守る力がまだ生きている証です」という文面から彼の感動が伝わってくる。伝統派はつねに投票を拒否してきたので、伝統派の棄権で法案が通ると伝えてきた報道が、伝統派の危機感をあおったようだ。 

 もうひとつの心躍るニュースは、いうまでもなくエジプトである。ムバラク大統領が辞任し、紅海の保養地シャルム・エル・シェイク(アル・シーク)に事実上の国内亡命をしたとのこと。つい前日に任期切れまで辞任はないとテレビ演説したムバラク氏の目算はみごとにはずれた。治安警察やムバラク支持派(そのかなりは私服の治安部隊だといわれている)の暴力による多数の犠牲者をだしながらも、数週間にわたって持続した民衆の大デモンストレーションに危機感をいだいた軍が、民衆の主張に同調して動いたものと思われる。事実、怒りを買った治安部隊に代わりタハリール(解放)広場などに出動した戦車や装甲車の兵士たちと民衆は、きわめて友好的であったし、デモの映像のなかに、将校の制服を着た予備役または退役軍人たちもみかけたからである。 

 この「革命」ともいうべき大デモは、ベン(ビン)・アリ大統領を退陣に追い込んだテュニジアの民衆革命に刺激されて起こったことはいうまでもない。だが、いわゆる野党勢力が主導したわけでも、ムスリム同胞団のような組織が動員したわけでもなく、不特定の民衆がまったく自発的に運動を開始したことは特筆すべきである。 

 ABCやBBCあるいはアル・ジャズィーラのニュースは欠かさず見てきたつもりだが、その映像では、初期には多数の女子学生をも含む若者が中心で、しだいに普通の市民や主婦たちが加わり、広場を埋め尽くす何万という数に膨れあがっていった。 

 問題は今後である。イスラームという共有の価値観とエジプト固有の文化のうえに、欧米とは異なる民主国家をどのように築きあげていくのか、またその主体はだれが担うのか、課題は山積している。また国際的に、アラブの主導的大国であったエジプトがどのような国となり、どのような外交政策をとるか、それは今後の世界に大きな変化と影響をもたらす。 

 私としてはエジプトが、いわゆる穏健なイスラーム国家となり、同じく穏健なイスラーム国家に変貌しつつあるトルコ、やがて改革派が主導権を奪回するに違いないイランなど中東諸大国と連携し、アラブ諸国からパキスタンやアフガニスタンにいたるまでを巻き込んだ「中東イスラーム経済文明圏」の確立にむけて歩むことを期待したい。 

 かつてイラクなどと並行して社会主義的近代化を図り、それによる統一アラブの夢を抱き挫折したエジプト、近年は、新自由主義経済による経済成長を図り、これも貧富の格差拡大などで挫折した(これが今回の革命の経済的背景である)エジプト。モデルはもはやどこにもないことを自覚しなくてはならない。 

 いうまでもなく、これは自戒のことばでもある。新自由主義経済と新保守主義政策によって格差と閉塞状況をもたらした――残念ながら民主党政権はその変革の期待に応えることができないでいる──わが国も、同じくまったく先行するモデルのない状況に置かれている。エジプトのひとびと同様、われわれはわれわれの手で、脱近代の国、さらには文明のモデルをこの東洋の地に造りだしていかなくてはならない。


北沢方邦の伊豆高原日記【94】

2011-01-30 08:10:31 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【94】
Kitazawa, Masakuni  

 満開の早咲きの白梅に隣りあう遅咲きの紅梅がほころびはじめ、メジロたちを引き寄せている。裏の小道ででかさこそと音がする。人が歩いているかと窓から覗くと、ツグミが落ち葉を掻きあげながら、隠れている虫をついばんでいる。昨日分譲地内の道路をウォーキングしていると、舞い降りていたセキレイが私を先導するかのように、道路上を先へ先へと低く飛んでは降り、ときどき首をかしげてこちらをうかがっていた。

 先日は三原山の頂上が白く冠雪していたが、今朝は雲間からあちらこちら差し込む陽光を背景に小雪が舞い、光を受けてきらめく不思議な光景が展開した。

リアリティとは何か? 

 机上に溜まっていた本を読みはじめたが、マンジット・クマールの『量子;アインシュタイン、ボーアおよびリアリティの本性についての偉大な論争』(Kumar,Manjit.QUANTUM; Einstein,Bohr,and the Great Debate about the Nature of Reality,2010)が、20世紀の大物理学者たちの交流や論争を、さまざまな挿話を交えて紹介し、読み物としても面白く、一気に読了してしまった。 

 「リアリティとはなにか?」 これについては私自身、詩でも表現を試みたが、いつか理論として展開したいと考えていたため、この本に大きな刺激を受けた。しかもこれは物理学上の論争を主題としながらも、それが哲学や世界観、あるいは最終的には文明の問題に深くかかわっていることを明らかにしている点で、きわめてすぐれている。 

 以下は、この本に触発された私の「覚書」として、アインシュタインVSボーア論争の深層にひそむ問題を書き記しておきたい。

アインシュタインと量子力学 

 量子とは微視的世界を飛び交うエネルギーの束(パケット)であり、われわれはそれを確率の波、つまり波動関数(Ψ)としてしか認識できない。その世界はまさにアリスの「不思議の国」であって、われわれが日常経験する古典力学の法則は一切通用しない。たとえばわれわれの世界では、かならず原因があって結果が生じるが、この世界ではこうした「古典的因果律」は成立せず、ときには結果が原因に先立ちさえする。

 量子を構成するのは素粒子とよばれるものであるが、それがいかなるエネルギー準位をもち、どのような状態にあるか、観測するまではまったく未知であり、決定できない。観測によってはじめてそれらが決定されるが、それはいいかえれば波動関数が「崩壊」し、「不思議の国」が、観測者の属する「不思議でない国」つまり古典力学の世界に還元されてしまうことを意味する。

 これはおそるべき矛盾である。これをどう解釈するか。ニールス・ボーアをはじめとするコペンハーゲン学派は、確率の波に支配される微視的世界と決定論的な巨視的世界の完全な二元論によって正当化する。だが世界を精神と身体または主観と客観に分割するデカルトの二元論と同じく、両者をなにが媒介するかという深刻な問題が提起される。コペンハーゲン二元論に反対するシュレーディンガーは、この矛盾を有名な《シュレーディンガーの猫》というジョークで表現した。放射性原子が崩壊し、ガイガー・カウンターが鳴ったらハンマーが青酸カリのカプセルを割るという装置の箱に閉じ込められた猫は、観測者が箱の蓋を開けるまで、その生死は決定できない。放射性原子が崩壊するかどうかの確率は2分の1であるから、蓋を開けるまで猫は、「同時に生き、かつ死んでいる」という《重ね合わせ》の状態にあるというのだ。

 量子という用語をそもそも使いはじめたのはアインシュタイン(量子としての光)であり、彼はまたボーアの業績を高く評価していたのだが、この二元論には我慢できなかった。「神はサイコロを投じない」という彼の有名なことばは、量子の世界が確率の世界であることを否定するというよりは、観測者が介入しない微視的世界の認識は基本的に不可能であるというボーアの不可知論に対するいら立ちであると考えるべきであろう。アインシュタインは、微視的世界はたしかに古典力学を超えた世界ではあるが、かならず確率論的ではない法則に支配されていると信じ、それを裏づける「統一場の理論」を追求した。

 この二人の論文や手紙を通じた「偉大なる論争」は、ほんとうに息を飲む。

アインシュタインの哲学 

 この二人の論争は、だが物理学上の論争にはとどまらない。そこには哲学あるいは世界観の深刻な亀裂がある。 

 「量子世界などはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである」というボーアの言明は、まさにデカルト的二元論の主観主義の局地であるといえよう。哲学でいえばそれは、ヴィットゲンシュタインが「語りうるものは明晰に語れ、残余は沈黙のみ」といって、広大な「残余」の世界を問題とせず、合理的に記述されるもののみがリアリティであるとした論理実証主義そのものにほかならない。 

 徹底した平和主義者で非暴力主義者であり、プリンストンの自宅の書斎にガーンディの肖像を掲げていたアインシュタインの哲学は、「東洋的」といってもいっこうさしつかえない。彼はある新聞のインタヴューで「神を信じていますか?」と問われ、「スピノーザの神なら信じています」と答えたが、世界あるいは宇宙を《実体(スブスタンシア)》の一元論でとらえていたスピノーザの哲学は、ヒンドゥーや仏教あるいは道教の哲学と同じ思考体系であり、アインシュタインの哲学はまさにスピノーザ主義であるといえる。

 だが20世紀の後半「標準理論」の完成とともに、物理学界ではボーアのコペンハーゲン解釈が絶対的な権威となり、宗教的ドグマとさえなり(クマールの評言)、ノーベル物理学賞は今日にいたるまで「標準理論」の信奉者にしかあたえられなくなる。「統一場の理論」の追求は時代遅れとされ、アインシュタインはたんに相対性理論の提唱者としてのみ名が残る歴史の遺物とされてしまった。

多重世界解釈の登場 

 だが思いもかけない大逆転が起こる。多重世界解釈あるいは平行宇宙理論の登場である。 

 1957年、プリンストン大学の大学院生であったヒュー・エヴェレットⅢ世は、微視的世界の《異常》こそが、われわれの世界をも貫く普遍的法則であり、量子力学の記述はたんなる数学的約束ではなく、世界を支配する法則にほかならない、とする学位論文を提出した。つまり量子力学の記述の道具である無限次元のヒルベルト空間は、宇宙そのもののリアリティであり、古典的因果律の不在も宇宙のリアリティを律する法則である。われわれの世界が一見決定論的であるのは、無数に存在する多重世界あるいは平行宇宙が、この目に見える世界に直交している結果にほかならない、というのだ。 

 この「奇想天外な」論文は、メディアを賑わわせはしたが、「標準理論」信奉者が圧倒的多数を占める物理学界からは完全に黙殺された。エヴェレットは失望して物理学界を去り、国防総省に職をえたが、多重世界解釈の復活を知ることなく、失意のうちに若くして死ぬ(どの分野でも先駆者は孤独である)。 

 だがシュレーディンガーの猫という絶対的な矛盾を抱えた「標準理論」は、出口のない袋小路に陥り、それに代わって1980年代から、物質の最小単位は素粒子ではなく、はるかに微小なレベルのストリング(弦)であるとするストリング理論が登場し、驚くべきことにそれは、従来の電磁力・(原子核の)弱い力・強い力の3つだけではなく、重力をも統合的に記述できるものであることが明らかとなった。重力、すなわち微視的世界におけるアインシュタインの復権であり、さらにストリングの存在を許す多重世界解釈の復権である。アインシュタインの統一場の理論は、ここに逆説的ではあるが微視的世界の《非合理性》から組み立てられることとなったのだ。 

 クマールによれば、1999年ケンブリッジ大学で行われた量子物理学学会で、「コペンハーゲン解釈(標準理論)」「多重世界解釈」「留保」の3つを選択する投票が行われたが、投票した90名のうち、コペンハーゲン解釈にはわずか4票、多重世界解釈には30票、「留保」に50票が投じられたという。2011年であれば多重世界解釈にはさらに票が増えたことであろう。 

 多重世界解釈は、多重世界あるいは平行宇宙という「隠された、あるいは目にみえない世界」をも含めて世界のリアリティとするものであり、デカルト的二元論およびコペンハーゲン二元論という近代の世界観を超える脱近代の世界観にほかならない。まだ探求の途上ではあるが、いまや多数派となりつつある多重世界解釈またはストリング理論の行方が注目される。


北沢方邦の伊豆高原日記【93】

2011-01-19 10:46:01 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【93】
Kitazawa, Masakuni

  美しい冬の日々がつづく。陽射しを浴びた裸の樹々の彼方、海も島影も青く、大島の断崖に砕け散る白い波頭も、肉眼でみることができる。乾燥しきっているので、庭の苔莚もすっかり黄色くなっている。

ホピ通信 

 ホピの今井哲昭さんから、炒った赤トウモロコシや焼きたてのピキ(青トウモロコシの薄焼きパン)などとともに便りをいただく。同封してあった「ナバホ・ホピ・オブザーヴァー」紙のトップに気になる記事がでていた。「ホピ憲法改正草案」をめぐる激しい論争がはじまっているというのだ。 

 BIA(合衆国インディアン事業局)の提案でホピ憲法修正草案No.24Aが提案され、部族議会の投票にかけられることになったという。それは、近年進歩派に属していたシパウロヴィ村でさえも伝統派に転向してきたように、伝統派の影響力が強固になり、部族議会政府の権力がますます制約されてきたことに対する進歩派の抵抗といえよう。 

 その内容は現憲法第3章3に規定されている「各村は、各村がいかにあるべきかについて決定権をもつ」を削除し、政府に決定権をもたせるという中央集権案といえる。伝統派の村々や知識人、あるいはさまざまな文化グル-プが集会をもち、反対運動をはじめているという。私としては彼らの勝利を祈るしかない。 

 ただこの問題に関しての亀裂はないと思うが、伝統派内部にも問題がないわけではない。

 昨年の暮れ、マヤの超長期暦(Long Count)5,200年の終了を扱ったBS-TBSの「マヤ暦の真実」という番組をみた。2012年の12月21日にその日がやってきて、地球の終末を迎えるという俗説が、真実かどうかを検証するもので、とくに最後のマヤの長老ドン・アレハンドロの言明が感動的であった。つまりグレゴリオ暦のこの日はロング・カウントの終了日と正確に一致はしないし、ロング・カウントは一つの時代の終了を告げるものであって、それはわれわれに新たな時代を切り開く決意を迫る日付だという。地球温暖化など環境危機に直面しているわれわれは、それを克服して新しい時代を築かなくてはならないという。

 この番組のなかで、マヤやアステカと文化的縁戚関係にあるといえるホピの予言が引用されていたが、聴いてあきれてしまった。すなわちマヤのロング・カウントと同じく、ホピはすでに3つの世界を経過し、いま第4の世界にいるが、やがてそれも終末を迎え、第5の世界にいたる。その終末は天空に青い星が出現することによって告げられる、という。ここまではほんとうのホピの預言である。だがホピは第4の世界では空を飛ぶ乗り物が現れ、地上を鉄の蛇が走り、などなど現代文明を正確に予言していたというのだ。

 いうまでもなくこれは予言の「改作」あるいは「加工」である。ホピ伝統派の真の長老たちが声明できびしく糾弾した、日本にも何人もやってきた偽長老たちのようなひとびとが、ホピの神話や予言をより権威あるものにし、いわば神格化し、外国人たちを感服させるためにそうした「加工」をしたにちがいない。世界のなかでホピ・ブームがもっとも遅れてやってきたわが国では、そうした「加工」は容易に受け入れられてしまう。検証もなくこうした加工予言を垂れ流すメディアも、きびしく批判されるべきである。

 それにしてもこうしたいい加減な伝統派がいることに、われわれ日本人は注意しなくてはならない。

ベートーヴェンの「ディアベッリ変奏曲」 

 楽友会フロイデの小林陽一さんのご厚意で、刊行されたばかりのベートーヴェン『ディアベッリ変奏曲』の手稿(周知のように、青木やよひもそのひとりであった世界の多くのひとたちや団体からの寄付でベートーヴェン・ハウス・ボンが昨年購入した)のファクシミリ、およびベートーヴェンの手書きの贈呈の辞(ロブコヴィッツ侯爵の司書で年金担当者のフォン・ダム宛て)が書き込まれたその初版のファクシミリをいただいた。ベルンハルト・アッペル、ウィリアム・キンダーマン、ミヒャエル・ラーデンブルガー諸氏による詳細な分析と解説がつけられている。

 手稿のファクシミリは、ベートーヴェンの手稿にしては比較的読みやすいし、抹消や挿入も少ない。それだけに一気呵成に書かれたその勢いが伝わってくる(変奏曲31番の最後が青木の追悼コンサートのプログラムに使われているが、ベートーヴェンの筆跡にしてはじつに美しいことを覚えておいでと思う)。 

 解説も数々のスケッチ・ブックが引用され、この音の宇宙全体がどのように生成していったかが如実にわかるようになっていて、わくわくしてくる。キンダーマン氏が分析の最後に献呈者アントーニア・ブレンターノに触れ、「ベートーヴェンの《不滅の恋人》であったと考えられるひと」としているのも、ソロモン=青木説が世界的に認知されていることの反映であるだろう。全体を詳細に読むのを楽しみにしている。

心から心へ 

 「心から心へ(vom Hertz zu Hertz!)」は、いうまでもなくベートーヴェンが『ミサ・ソレムニス』の冒頭に書きこんだことばであるが、作品はともかく、演奏を通じてこの言葉を実感するようなコンサートはめったにお目にかかれない。 

 1月16日に表参道のカワイ・コンサートサロンで、「うたのいのち うたのゆめ」と題して行われた新実みなこソプラノ・リサイタルは、ひさびさにこのことばを実感させてくれた。 

 「この道」「待ちぼうけ」などの古典的な日本歌曲(夫君の新実徳英の編曲で、吉村七重・田村法子の筝の伴奏)や、中田喜直や武満徹の戦後の代表的歌曲、そして新実徳英の「5つのメルヒェン」「白いうた・青いうた」などが歌われた。 

 おそらくこれらの歌を、より「美しく」ベル・カントでうたってくれる声楽家は数多いと思う。だが日本の歌曲をイタリア流のベル・カントでうたうことに強い違和感を覚えてきた私を、彼女はまずみごとに裏切ってくれた。よく透る発声であるが、きわめて自然に明晰に日本語を伝えてくれるのだ。そのうえそこには鳴り響く「心」がある。単純な感情移入ではなく、そのことばと旋律に含まれる「絵」をみごとに浮かび上がらせる。これはえがたい才能である。 

 戦後のもっともすぐれた反戦歌曲ともいうべき「死んだ男の残したものは」(谷川俊太郎詩・武満徹作曲)は、いままで聴いてきた数々の記憶のなかでもベストであり、心の底のなにかが震えるのを感じた。 

 還暦記念のデビューだというが、今後もぜひ続けてほしいと思うのは私だけではないだろう。


北沢方邦の伊豆高原日記【92】

2011-01-03 20:49:19 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【92】
Kitazawa, Masakuni  

 いつも朝雲にさまたげられてきたが、今年は雲ひとつない快晴で、2階の書斎から大島の三原山の左肩から昇る荘厳な初日の出を望むことができた。何十年ぶりである。われわれの祖先がつねにそうしてきたように、思わず合掌し、柏手を打つ。 

 年末例年より寒冷な日々が多かったにもかかわらず、庭の早咲きの白梅がほころびはじめている。この季節はじめてリンゴなど果物の皮や少量の中身を刻んで、ツツジの植え込みの突端にだしておいた。ヒヨドリたちがけたたましく叫びながら喜んで食べている。 

 暮れに年賀状を投函し、お節料理の食材をホビット村に注文したあとで、22日の冬至の日の夜、入院中の母が死去した。103歳であった。風邪気味で早く寝ていたが、11時ごろ妹から電話で知らせがあった。眠るように息を引き取ったとのことで大往生といえよう(遺言で葬儀はない)。起きて窓外を眺めると皓々たる名月であった。暦の上では旧十一月十七日であるが月齢は十六夜といえる。そこで冥途の旅路のはなむけに: 

          十六夜[いざよい]の月に送られ、旅立ちぬ

2011年は? 

 菅内閣の無能や迷走で閉塞感はいっそうひどくなっているが、たとえ他の内閣であってもこの状況を根本的に変えることはできないだろう。なぜならこの状況は構造的なものであり、長期的なヴィジョンにもとづき構造を変える政策を実行しはじめないかぎり、従来の政治理念や政策ではつねに状況の後を追う弥縫策しかありえないからである。 

 構造を変えるといっても、小泉流のいわゆる構造改革ではない。それはグローバリズムの受け入れ政策でしかなく、わが国をほとんど修復不可能な格差社会に追い込んだものであり、むしろそれは深刻に反省すべき反面教師にすぎない。 

 長期的ヴィジョンについてはこの「日記」でもたびたび述べてきたので繰り返さないが、要するに地球本来の姿や在り方にもとづいてテクノロジーや産業を方向づけ、経済成長ではなく、生活や文化の内的なゆたかさや創造性をめざす社会や体制を造りあげることである。少なくとも2酸化炭素25パーセント削減という目標を掲げた環境政策をほんとうに実現するシステムを追求すれば、そこにおのずからひとつの突破口が開ける。2011年はそれを切り開く年であってほしい。

「坂の上の雲」と明治ナショナリズム 

 NHKのいわゆる大河ドラマは、細部を延々と描く退屈さや不自然で誇張した演技など、見るに耐えないことが多いのでいつも敬遠しているが、年末に限定して放映している「坂の上の雲」(今回は第2部)は、かなりよくできたドラマといえよう。巨費を掛けてもいるが、1年をかけて一部ずつ制作するというゆとりと、限定された放映時間のなかで集中的に表現しようとする意欲がそれを可能にしたといえる。 

 日清戦争を扱った一昨年の第1部では、すでにその頃から芽生えていた中国人への侮蔑という人種差別や、戦闘に逃げ惑う中国の難民たちの姿など、否定的側面もかなりリアルに扱っていたし、その意味では歴史をかなり公正に客観的に描こうとしていた。 

 第2部は日露戦争の前半が主題であるが、ここではたとある種の困惑感におちいることとなった。たとえば第2部の主人公のひとりが海軍少佐広瀬健夫である。ロシア派遣中に貴族令嬢と恋に落ち、帰国時に贈られた彼女の肖像写真入りのペンダントを肌身離さず、旅順港口閉塞作戦の指揮官として活躍し、第2次作戦遂行中に戦死するが、そのペンダントが海中深く沈んでいく情景など、人間的な情感にあふれる描写が、逆に戦前の「軍神広瀬中佐」(戦死後1階級昇進した)と重なって見えはじめたからである。 

 つまりこのドラマ全体が、歴史に忠実であろうとすればするほど、個々の事実を超えてその時代の歴史を支配していた「歴史のエートス」とでも名づけるべき力を無意識に体現するにいたるのだ。 

 この時代の歴史のエートスとは、いうまでもなく明治ナショナリズムである。第2次世界大戦の敗北にいたるまで、明治ナショナリズムはわが国を呪縛していたといっていい。欧米の帝国主義列強に追いつけ追い越せというこの歴史のエートスは、帝国主義による近代化がいかに破滅的な結果をもたらすか、またたとえ欧米のような勝者であっても世界にいかに非人間的な抑圧をもたらしたか、を教えてくれた。 

 だがこの教訓をドラマとして盛り込むことは至難のわざである。列強を「坂の上の雲」として仰ぎ、そこにたどりつく「希望」にあふれていた明治ナショナリズムの時代を、そのまま表現することの恐ろしさを自覚しなくてはならない。とりわけすべてにわたって閉塞状況にある今日、それは明治ナショナリズムへの大いなる郷愁を呼び起こし、この閉塞状況を打破する「英雄たち」への待望を増大させかねないのだ。 

 何時の時代でも、「坂の上の雲」は雲、すなわち幻影でしかない。『テンペスト』で、そこがすでに戦争による荒廃の地となっていることを知らない無邪気なミランダが、「すばらしい新世界a brave new worldに帰るのね!」と叫ぶように、ひとびとにとってすばらしく見えるそれは、一瞬に消える幻影であるよりも、むしろつねに荒涼とした反世界であるだろう。


北沢方邦の伊豆高原日記【91】

2010-12-17 00:00:12 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【91】
Kitazawa, Masakuni  

 早々と落葉したクヌギ類の裸の枝々のあいだに、青々とした海を遠い背景に、まだ厳冬ではないと葉叢をつけているミズナラやコナラの樹々が、黄色く、あるいは赤茶けて油彩の絵のような風景をつくりだしている。傾いた陽射しを浴びて、コガラやヤマガラあるいはゴジュウカラやシジュウカラが忙しく飛び交っている。冬に備えて皮下脂肪を蓄えるべく、樹皮の隙間に入り込んだ虫を探し、ついばんでいるのだ。

日米安保はいつ同盟と化したのか 

 NHKスペシャル「日米安保50年」が、4回にわたってNHK総合テレビで放映された。すべてを見たわけではないし、第4回のいわゆる有識者たちの討論は、寺島実郎氏などの意見を聴きたくはあったが、珍しくひいた風邪で早く休まなくてはと失礼してしまった(したがってこの原稿もなるべく簡潔に済ませようと思う)。 

 それでも、1960年に改定された日米安全保障条約が、新同盟条約を締結したわけでも、根本的修正をほどこされたわけでもないのに、なぜ事実上の日米軍事同盟と化していったのか、その過程がかなり明確にえぐられた意欲的な番組であった。 

 ひとことでいえばそれは、既成事実を積み重ねていけば、政治家はもちろん、メディアも国民もそれをなしくずしに容認していくという、わが国の政治カルチャーを熟知した合衆国国防総省や国務省の「知日派」が、ひそかにその意を汲んで同調する日本の外務省・防衛庁(当時)の高級官僚たちと手をたずさえて、憲法第9条の制約のまえに躊躇する歴代首相たちを巧妙にあやつり、演出していった「成果」である。

 その最初の「繰り人形」が、社会党出身者でハト派であったひとのよい鈴木善幸首相であったのは象徴的である。1981年の訪米時に署名した日米共同声明に「同盟alliance」の文字がはじめて登場したが、鈴木首相はその重い意味(外交上の術語として同盟は必ず軍事共同防衛をともなう)さえ知らなかったのだ。

 だが1989年の東西冷戦終結までは、ほとんど文面上の「同盟」であり、せいぜい増強された航空自衛隊の対潜哨戒機P3Cによるソヴェト原子力潜水艦の監視といった程度の軍事協力であったが、その後90年代の終わり、中国の軍事力増強とハイテク化、北朝鮮の核兵器開発など極東の緊張の激化に対応する合衆国の強い要請と、さらにその後タカ派であり、新保守主義者である小泉純一郎政権の登場によって、日米軍事同盟は実質的な「暴走」をはじめることとなった。すなわち米軍による自衛隊の本土演習場の自由な使用、頻繁な共同軍事演習、米軍並にハイテク化された航空・海上自衛隊の密接な訓練と演習、アフガニスタン戦争への海上自衛隊の給油出動、イラクへの陸上自衛隊の派遣などである。

 数日前には、黄海上で韓国海空軍と共同演習を終えたばかりの原子力空母ジョージ・ワシントンその他の艦艇とわが国航空・海上自衛隊との共同軍事演習が、沖縄近海で展開されたばかりである。米軍艦艇には招待された韓国軍のオブザーヴァーたちが乗り組んでいたが、将来の日米韓3国の軍事同盟化(現在でもそれぞれ間接連携の可能な各2国間軍事同盟である)を見据えた動きといえよう。

 憲法第9条が改正されようとされまいと、もはやそれは存在しないにひとしい。集団自衛権は保有するが行使しないという政府解釈も、ほとんど無視されているといっていい。

 もし朝鮮半島有事があれば、わが国はかつてとは比較にならぬ破壊力によって戦われる第2次朝鮮戦争に確実に巻き込まれることとなる。国民にその覚悟はできているのだろうか?

 だが日米軍事同盟化のこの重い事実には、われわれにもその責任の一半があることを自覚しなくてはならない。なぜなら、既成事実の積み重ねの容認によって国家の政策を遂行するというわが国固有の政治カルチャーは、そういう政治体制・政治家を含め、われわれ自身が主権者として育ててきたからである。

 だがいまからでも遅くない。10年後にいつでも改訂あるいは破棄さえできる日米安全保障条約をどうするのか、いまから国民的議論をはじめるべきである。それとともに、戦争参加の運命さえ待ち受けているかもしれないこの日米軍事同盟の手かせ足かせを徐々に解きながら、極東あるいは環太平洋の集団安全保障確立の方向へと外交努力を行うような政権や政党あるいは政治家たちを育てていかなくてはならない。経済的閉塞状況だけではなく、わが国はいまや脱出困難な政治的閉塞状況に追い込まれていることをも認識しなくてはならないのだ。


北沢方邦の伊豆高原日記【90】

2010-11-27 09:46:47 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【90】
Kitazawa, Masakuni  

 樹々は半ば葉を落としたが、わが家の雑木類はまだ褪せた緑から黄や橙と、日差しに映えて微妙な彩りをみせる。昨日は青木やよひの一周忌で花などをいただいたが。あの数日のことをありありと思い浮かべると、あっという間に一年が過ぎたという感慨である。ときどき淋しくないか、と問われるが、鳥や虫や動物(敵であるタイワンリスも同等な生物である)、あるいは植物たちとじっさいにも声を交わしているので、そうした思いを抱いたことはない。ひとびとは人間だけ、あるいは家族や友人だけが仲間だと思っているから淋しくなるのだろう。

北朝鮮軍の「暴挙」 

 韓国のヨンピョン島への砲撃で、大きな衝撃が走った。市街地をも巻き込んだ砲撃で死傷者がでたこの事件は、明白な停戦協定違反であり、弁護の余地のない「暴挙」であることはいうまでもない。国連の安保理事会に提訴されるのも当然だろう。 

 だがこの事件を招いた責任の一半が、直接的には米韓、間接的には日本にもあることを自覚しなくてはならない。すなわち北朝鮮と国交のないこの3国は、合衆国はブッシュ政権以来であるが、ここ数年北朝鮮との国交回復に向けてのなんのジェステュアもサインも示すことなく、ひたすら6者協議での北朝鮮非核化を求めてきた。韓国のイ・ミョンパク(李明博)政権は、中道右派ではあるが、北朝鮮政策はあきらかにタカ派である。とりわけ哨戒艦沈没事件以来は、臨戦態勢といっていいほどの姿勢を保ってきた。東海岸での通常の米韓合同演習だけではなく、黄海上での合同演習を計画し、米軍も昨日原子力空母ジョージ・ワシントンを参加させるべく、横須賀を出港させた(わが家からみはるかす大島との海峡を通過していった。双眼鏡で甲板上の航空機までみえる)。 

 多くの国家がそうであるが、とりわけアメリカや旧ソ連といった「超大国」は、他者というか他国の痛みにきわめて鈍感である(残念ながら超大国に成長しつつある中国がそうなりつつあるが)。たとえば冷戦期に、ソ連が戦術核兵器搭載の原子力空母をもち、キューバとの合同演習だと称して、フロリダから目と鼻の先のカリブ海に出動させたとしたら、合衆国政府と国民はどう感じただろうか。 それと同じことが、中国山東半島や北朝鮮の目と鼻の先の黄海で起ころうとしているのだ。両国がこれを軍事的挑発だと思うのは当然である。この先また北朝鮮のどのような逆挑発が起こるか。 

 政府が北朝鮮や中国の脅威論をまくしたてるだけではなく、マス・メディアまでがそれを煽り立てているのはどういうわけか。たとえば、中国の艦艇が外海にでるため琉球列島をよこぎるのは当然だし、他国の領海であっても戦闘艦艇の無害航行は国際法上あたりまえの行為である。わが国の自衛隊がそれをひそかに監視するのは、これも通常の行為であるが、通行を軍事挑発であるかのように報道することは、わが国のナショナリズムを煽る危険な行為だといわなくてはならない。 

 今回の事件では、当事国相互の冷静を呼びかけるのは当然であるが、私はむしろわれわれのマス・メディアに、客観性を取り戻すべくそれを呼びかけたい。

 詩集出版祝賀会のお礼 

 『目にみえない世界のきざし』のささやかな祝賀会を、11月19日に開いていただいた。フォーラム・メンバーにも都合の悪い方が多く、わずか17名の参加であったが、1960年代末日本最初のヒッピ-・コンミューンの創始者であった長本光男さんの経営する自然食レストランも雰囲気が良く、杉浦康平さんや西村朗さんの出席もあって、心温まる会であった。それぞれのお話も心に染み入るもので、死後著作集にでも入れていただければ幸いと思っていた詩集が、これほどすばらしいデザインで出版され、多くの方に喜ばれたことはほんとうに幸せと思っている。皆さんありがとうございました。

 なおこの詩集の紹介は、このブログでも掲載の予定であるが、出版を強力に推進していただいた池田康さんの詩誌「洪水」のブログにも掲載されている。お読みいただければ幸いである。


北沢方邦の伊豆高原日記【89】

2010-11-16 21:32:53 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【89】
Kitazawa,Masakuni  

 秋が深まってきた。雑木類も、すでに散りかけた黄葉やら、くすんではいるがまだ緑の葉をつけた樹やら、多様な色合いをみせ、裏の森では、ハゼの木があざやかな鮮紅色でたたずむ。枯れはじめた芝生の片隅に、サフランが10個ほど群れて咲いている。細く鋭い緑の葉を押し分けて、透きとおるほどに淡い紫の花が開き、長く濃い黄色の花の芯をのばしている。いつかこの花の色が好きだった青木が球根を植え、毎年咲いてきたものだが、今年はとくにみごとだ。この芯を集め、よく鶏肉や羊肉を使った中東風の本格的なピラフを作り、みごとな黄金色に輝くご飯を味わったものだが、いまやそれを喜んでくれたひとはいない。

文字の歴史の面白さ 

 人間の言語そのものは、われわれホモ・サピエンス・サピエンスが出現して以来、何十万年もの歴史があるが、文字の出現はそう遠い昔ではない。せいぜい新石器革命(約1万年以前)以後のことである。メソポタミアの楔形文字、エジプトや中国の象形文字、あるいはローマ字の起源である原シナイ文字など文字の歴史そのものも興味深い(歴史ではないがアジアの文字については、杉浦康平さんの『アジアの本・文字・デザイン』をぜひ読んでほしいし、漢字の歴史的系統については白川静の『字統』が興味深い)。

 たとえばローマ字のAを逆さにしてみよう。動物の三角の顔に2本の角が生えているのがわかる。遡るとそれは、原シナイ文字(シナイ半島で発掘された粘土板に書かれていたもので、古代セム語――のちにアラビア語やヘブライ語に枝分かれする――の文字)のアレフ、つまり「雄牛」であり、その語頭のアという表音文字に由来する。フェニキア経由でギリシアに入り、訛ってアルファ(ギリシア語としてはなんの意味もない)となるとともに、どういうわけか90度回転し、2本の角は右手に廻り、αとなった。ローマ字はさらに角を下に廻した、つまり180度回転させたものである。Bはおなじく2階建ての家をあらわすベートゥという語の表音ブの文字に由来していて、ギリシア語のベータβ、ローマ字のBとなった。

 スペインの征服者、とりわけマヤ語のすべての図書を焼き払った司祭ディエゴ・デ・ランダの暴挙のおかげで、長年にわたり学者たちを苦しめてきたマヤ文字も、古典期以後のそれはほぼ完全に解読されるにいたった。漢字という表意文字と仮名という表音文字を併用する日本語と同じく、マヤ文字は両者を併用するが、たとえば円のなかに抽象化された顔をあらわす「太陽」という表意文字は、同時に太陽の語のK’inという表音文字でもあり、また頻出する母音には何種類もの異なった表音文字が存在するなど、日本語よりはるかに複雑である(興味のある方はWikipaediaのMayan lettersを参照)。

脳と文字の不思議な関係 

 文字の歴史のごく一部を書いてきたのは、スタニスラス・ドゥエーヌというフランスの学者が英語で書いた『脳のなかの読むこと;人間創意の科学と進化(Stanislas Dehaene. Reading in the Brain;The science and Evolution of a Human Invention.2009)』を読み、大いに刺激されたからである。 

 かつて言語学者のノーム・チョムスキーは、母語の習得はたしかに出生後であるが、人間の言語能力そのものは生得的に存在し、それがあらゆる言語の習得を可能にすると説き、たとえ脳であっても獲得形質の遺伝を全否定するネオ・ダーウィニストたちの猛攻撃を受けた。だがいまや、人間の言語能力や「読む能力」は遺伝的なものであることは、この本を読んでも明かである。 

 言語を処理する脳の領野は、主として耳の上に当たる左半球のシルヴィウス裂溝とよばれる周辺であるが、読む領野は、それよりもかなり後ろの側頭葉にある。なぜなら視覚を統御する領野は左の後頭葉にあり、両者は密接に関連するからである。ドゥエーヌはそこを「文字箱」と名づけているが、それはすべての人間にとって普遍的である。 

 だが興味深いのは、文字箱の機能は文化や性別によって異なることである。つまりアルファベットやハングルなどの表音文字のみを使う文化では、文字の判読と意味の解読は左半球の特定の直接的な神経回路を経由するが、表意文字を使う文化、あるいはわれわれのように両者を併用する文化では、脳は視覚形態を判別する右半球の神経回路を迂回することになる(もちろん数10ミリ・セコンド(ミリ・セコンドは千分の1秒)という一瞬であるが)。著者は扱っていないが、マヤ文字ではもっと複雑な回路が要求されるだろう。ただ幸いにしてマヤ文字は神官や書記の独占物であり、大衆には関係なかったが。 

 このことは、表音文字のみを使用する言語文化のひとびとより、表意文字あるいは両者を併用するひとびとのほうが、いい意味で脳をトータルに酷使することで恩恵をうけているのではないか、という私の推測をもたらす。つまりわれわれは読むために、頻繁に脳梁(コルプス・カロッスム)を往復させる神経回路を使うがゆえに、脳梁の容積が大きいのではないか、ということである。脳梁の容積が大きいということは、言語脳・知性脳である左半球を、感性を含む全体的な認識やパターン認識を行う右半球とつねに交流させていることを示し、部分的な認識の鋭さよりも全体的な判断を先行させていることを物語っている。 

 性差に触れている余裕はなくなったが、男性よりも女性の方が脳や言語領野の保護機能にすぐれ、失語症や失読症(ディスレクシア)がはるかに少ないこと、あるいはこの本では触れられていないが、脳梁の容積が男性より大きく、総合的判断にすぐれていることを指摘するにとどめておく。 

 脳の損傷や癌の検査など医学的に広く使用されているMRI(磁気共鳴映像装置)が、人間や動物の脳の活動を詳細に追求できることが明らかとなり、脳神経科学の展開に絶大な威力を発揮することとなった。脳神経科学の今後の発展がさらに楽しみである。


伊豆高原日記【88】

2010-10-24 08:39:08 | 伊豆高原日記
北沢方邦の伊豆高原日記【88】
Kitazawa, Masakuni  

 日に日に秋の気配が深まっている。モズたちがあちらこちらで高鳴きし、縄張りを宣言している。季節にはともに暮らした雌と雄も、秋からは袂を分かち、それぞれ競合する。つぶらな瞳のかわいい鳥たちなのだが肉食性の猛禽であり、冬、餌がないとスズメを襲って食べる。秋からはスズメたちはそれを恐れてこの一帯には近づかない。

杉浦康平思想の真髄 

 少し前にいただいたのだが、途中まで読み、急ぎの仕事にかかってしまい、ようやく今日読み終えた杉浦康平『多主語的なアジア』(工作舎)は、非常に印象深かった。杉浦さんの著書はほとんどいただいているが、雑誌などに掲載された文を集めた本書は、インドや中国あるいは東南アジアをはじめとするアジアの絢爛豪華な宇宙論的デザインや音楽を、これまた絢爛豪華に語るいままでの著書とちがい、彼の思想的・精神的遍歴をも含み、その隠れた内奥がうかがえる本だからである。 

 われわれの世代はほとんどがそうだが、敗戦によって明治ナショナリズムや軍国主義の重圧から解放され、全くのタブラ・ラサ(白紙)となったところへ、アメリカを含む西欧近代の思想や芸術や文化が怒涛のように流れ込んできた。合理性にもとづくその明晰な思想やデザインは、まばゆいほどの輝きをもってわれわれをとらえた。 

 杉浦さんも例外でなく、一時期、西欧近代の明晰な合理性とそのデザインに惹かれたようにみえる。だが、実際に1964年ドイツのウルム造形大学を訪れたとき、彼は近代の主観性と自己主張や、0か1かの2進法数値に代表されるあいまいさを拒絶する思考に強い違和感を抱く。私もまったく同じ頃、犬(なんと杉浦さんも同じだという)とレヴィ=ストロースの『野生の思考』と出会い、近代の合理主義的思考では分析できない領域、つまりヴィットゲンシュタインのいう「明晰に語りえない」広大な領域があることに気づくにいたった。 

 杉浦さんはそこからアジアにむかう。つまり近代の主観性という単一の主語ではなく、自己と複数の他者、さらには祖先や精霊、大自然や宇宙をも包含し、すべてが「多主語的に」語る世界を発見し、そこにデザインの根源を体得するのだ。そこから鋭い近代批判が展開される:

 「……このような自己,自我だけに焦点をあてた自分だけの生存圏の拡張行為が、いろいろな意味で地球に破綻をもたらしている…というのが現代社会の姿であると思います。西欧の現代哲学でも自―他の関係はさまざまに論じつくされているかのようですが、いまだそのことごとくが、自我を核とする、あるいは自我を捨てきれぬ論考にほかなりません」 

 アジアでもっとも急進的に近代化を進めたわが国では、ひとびとの思考体系も近代化され、主観性や自我の分厚い壁に閉じ込められてしまった。その壁を打破し、「多主語的」世界を回復しない限り、日本も西欧世界も文明の袋小路に陥り、経済的にも文化的にも再生することはできない。だが近代化が頂点に達しているがゆえに、そこからの脱出はきわめて困難であろう。

 また残念なことに、われわれの思考を何千年にもわたって養ってきた当のインドや中国が、「近代化」と「経済大国」の夢を追いはじめ、多主語的世界を「前近代的」なものとして振り棄てはじめている。杉浦さんやわれわれの叫びもむなしいものとなるのかもしれない。

 だがIT技術は多主語的世界の表現をむしろ深めうるものだし、また最先端の諸科学はむしろヒンドゥーや中国の古代の知恵を実証しつつあるといっても過言ではない。少数かもしれないがインドや中国の若い知識人や芸術家たちも、そのことに目覚めつつあるようだ。われわれはそこに希望を見出すことができる。

 いずれにせよこの『多主語的なアジア』は、こうした想念をかきたてる必読の書といえよう。

伊豆高原日記【87】

2010-10-07 11:27:45 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【87】
Kitazawa Masakuni
 
 青木の書斎の横に植えられたキンモクセイが満開で、家中にむせるほどの香りがただよう。表を歩けばいたるところの樹木で、伊豆高原中がキンモクセイの香りに包まれている。遅れていたススキの穂も満開で、遠く去った仲秋の名月を懐かしんでいるようだ。

年老いても自立できず、未熟な男たち 

 
10月4日のNHK「クローズアップ現代」で、「妻に先立たれた男たちの悲嘆」が放映された。同じ境遇とて共感すべく視聴したが、まったく理解できないというか、驚きあきれ、こちらが異常なのかと疑ってしまった。 

 俳優の仲代達矢氏をはじめ、妻に先立たれた老人たちが登場するが、どのひとも茫然自失して3カ月は泣き暮らし、酒におぼれ、自殺さえ考えたという。登場した彼らだけではなく、妻に先立たれた多くの男たちが鬱病を病み、そこから這い上がれないという。 

 仲代氏や仕事をもつひとたちは、仕事中は気を紛らわせるが、家に帰ると妻の履物を見て涙し、クローゼットを開けて衣服に涙し、耐えられない気分になるという。なかには、預金通帳のありかさえわからず、ただただおろおろするだけで、食事もコンビニの弁当やインスタント物ばかりを、しかも食欲もまったくなく、ただ詰め込むのみという。こうした困っている(私にいわせれば「困った」)男たちを支援すべく、自治体やNPOが活動をはじめたという。 

 興味深かったのは、妻に先立たれた男が悲嘆にくれる率は100パーセントであるのに、夫に先立たれた女たちのそれはわずか30数パーセントであるという統計である。これは何を意味するか?  

 つまり多くの男は、社会的・経済的に「自立」し、仕事をこなしてきたが、生活のレベルや意識や精神のレベルではまったく自立していないどころか、老年になっても未熟なままであったということを示している。男は仕事、女は家事という性差別を疑いもせず、生活のすべてを妻にゆだね、家事ひとつできなかった男たちは、妻に先立たれてはもはや自立して生きていくことはできない。彼らの悲嘆のかなりの部分が共に暮らした家族(ペットを含め)に対する愛情であることはたしかだが、残余は人間的なものというよりも(本当に妻を愛していたら家事の分担などなんのこだわりもなかったはずだ)、自分を生活させ、支えてくれた家事労働者を失った悲嘆にすぎない。 

 逆に多くの女は、いわゆる社会的・経済的自立はともかく、生活や精神のレベルでは、男よりはるかにたくましく自立していることを物語っている。妻の方から申し立てる定年離婚が増加していることも、こうした事実を裏付ける。 

 妻に先立たれた同じ境遇の自身のことを書くのは面映ゆいが、性差別の根源を断ちきるためにもあえて書いておこう。 

 覚悟はしていたとはいえ、青木やよひの死に直面しても私にはなんの動揺もなかったし、いわゆる悲嘆もなかった。人間はいつか必ず死ぬのであるし、末期ガンの悲惨もなく、眠るような彼女の死は美しかったうえ、死の前日の対話で彼女自身が語っていたように、その生涯もきわめて充実し、幸せであったからだ。 

 55年をともにした生活のなかで、彼女に仕事をしてもらうため、私は当初から気負いもなく家事を分担し、とりわけ彼女が仕事に集中しているときは、私が料理をはじめ、ほとんどの家事をしてきた。むしろ資産の運用や家の建築やリフォームなど、ふつう男が分担する雑用は、面倒臭がりの私に代わって彼女が取り仕切ってきた。性別にかかわらず、それぞれが得意なことをするのがわが家のしきたりであったといえよう。 
 
 死後一年が経とうとしているが、いまなお私のうちには幸福感が充満している。なぜなら、ともに暮らしているときは、むしろ意見の衝突や時には喧嘩もしばしばであったが、いまとなっては、たとえばクローゼットを開ければ、あれはドイツに一緒に行ったとき着ていたものだなど、懐かしくいい思い出だけが浮かび上がり、心温まるばかりだからである。そしてあのようなすばらしいひとと55年ともに暮らしてきたのだという誇りが、私に生きる充実感をあたえてくれている。


伊豆高原日記【86】

2010-09-29 06:33:16 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【86】
Kitazawa, Masakuni  

 仲秋の名月までは暑熱がつづき、その夜は家中の灯りを消し、涼しい風を楽しみながら露台で月明かりを満喫したが、翌日からは打って変わった「冷気」で、秋の衣類やら寝具をあわてて用意する次第であった。植物たちもあわてたとみえ、今日は桜の葉が急速に黄ばみ、散りはじめている。乾燥地帯パキスタンの大洪水など異常つづきの世界の気象の一端であった日本の猛暑も、ようやく終わりを告げたが、やってきた秋も少々異常含みだ。

帝国主義・ナショナリズムの恐ろしさを知らない国々 

 尖閣列島の領海内で操業する中国漁船の排除と、それによって起こった海上保安庁巡視船への衝突事件で、日中間の雲行きが怪しくなっている(日本側に全く問題がないとはいえない。つまり下手な政府の対応、操業停止と退去だけで済ませえたはずの海上保安庁の対応など)。領土問題でいえば、歴史的にみても琉球王国に所属していた尖閣列島が日本の領土へと帰属することになったのは明かだが、琉球王国を属国とみなしていた明や清、つまり中国が領土権を主張するのもまったく根拠のないことではない(きわめて希薄な根拠であるが)。 

 しかし尖閣問題に限らず、南シナ海のスプラトリー諸島(西沙・南沙諸島)などの領有権を強硬に主張する中国の姿勢は、ティベット問題やウィグル問題と並んでいささか異常というほかはない。中南海、つまり中国共産党指導部の内部での次期指導層をめぐる権力闘争を指摘するむきもあるし、また大衆によるインターネット・ナショナリズムの過熱への現指導部の恐れもあるかもしれない。しかし問題はもっと根深い。 

 パレスティナやアメリカの反対を押し切って、和平交渉を決裂させる危険を冒して入植地での住宅建設を再開したイスラエルも同じだが、中国もまた、近代の帝国主義やそのナショナリズムの悲惨な被害者ではあったが、みずからそれを体験したことがない歴史をもっている。 

 古代や中世にも諸帝国が存在したが、近代の帝国主義がそれらと決定的に異なるのは、近代の資本主義的経済体制がもつ利潤追求の飽くなき欲望のメカニズムを背にしている点である。つまり経済的合理性の追求が、自動的に領土または植民地の拡大や資源の果てしない収奪を生みだすことである。現在はこうした旧帝国主義はほとんど存在しないが、それに代わり経済的合理性の追求は、不公正な貿易を通じての一次産品輸出国の搾取、つまり植民地なき新植民地主義のかたちをとっている。 

 いずれにせよ問題は、中国やイスラエルでは、帝国主義の被害者意識は強烈だが、みずからがとる帝国主義的姿勢にはまったく無感覚だという点である。たしかに中国では、文革時代に唱えられた「覇権主義反対」を、少なくとも文革時代には対外的には実践していた(それでもティベットやウィグルなど少数民族に対しては覇権主義的であったが)。だが国家統制下にあるといっても、資本主義的に高度成長を遂げつつある現在、その経済合理性の要求する利潤追求のメカニズムは、明かに新帝国主義的覇権を要求している。また私的欲望を増大させている大衆は、大国意識に酔い、覇権を求めるナショナリズムを煽り立てる。少数意見を吐露する自由や場のないことが、それらに対する歯止めをまったく失わせている。それが問題の根底なのだ。 

 こうした隣人と付き合うのは容易ではない。だがむしろ、少なくとも軍事的・政治的覇権を放棄したわが国は、旧帝国主義時代への深い反省を込めて、先進諸国のグローバリズム崩壊後の今後の世界のありかたを、この隣人と深くじっくりと話し合うべきではないか。菅内閣にもこうした姿勢を望みたい。


北沢方邦の伊豆高原日記【85】

2010-09-16 09:23:00 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【85】
Kitazawa, Masakuni  

 百日紅の淡紅色の花々は色あせたがまだ風に揺れ、例年ならではじめるヴィラ・マーヤのススキの穂はいまだに気もないという奇妙な初秋である。暑熱もようやく収まり、今日は肌寒いほどの気温である。

 先日のコオロギらしいのだが、朝、ヨーガをやっている絨毯の上に近づいてきた。危ないので部屋の隅に誘導し、キュウリの端をあたえたら、皮を残してきれいに食べ、いずこかへ去った。

菅首相の再選 

 民主党の代表選挙でメディアはたいへんな騒ぎであった。たしかに一国の首相を選ぶ重要な選挙にはちがいないが、国民のかなりの部分は醒めてしらけていたと思われる。小沢対反小沢の対決を必要以上に煽りたてるメディアのセンセーショナリズムは、今回に限らず、つねにほんとうの争点や問題を隠してしまう。つまり今回のほんとうの争点や問題とは、わが国の未来にかかわる重要な選択が存在しているにもかかわらず、二人ともその答えを用意できなかったという「問題」であり、その意味でこの王様たちは裸であったという事実である。 

 そのうえ前回の日記で書いたように、私は菅再選を当然だと思っていたが、せいぜい160票程度と考えていた国会議員の小沢票が200もあるのに驚いた。民主党でさえ「永田町の論理」つまり恩故や利権や上下関係などという旧態依然たる論理に支配されているという事実に、暗然としてしまった。 

 こうした組織の中では、頼りないとはいえ、開かれた党を唱える菅氏にまだ希望がある。国民にむかって開かれた党であるだけではなく、当選回数や役職、あるいは年齢や所属グル-プに関係なく平等に発言し、時には激論をたたかわせ、そのなかから政策的合意を創造していくような、「民主党」の名に値する党をまず創っていっていただきたい。ほんとうにそのような政党が実現すれば、わが国の政治の未来に大きな期待を寄せることができるだろう。

「戦後民主主義の終焉」 

 またもや自己宣伝になって恐縮であるが、藤原書店の総合雑誌「環」に、「戦後民主主義の終焉――丸山真男批判」と題する論文を書き、その校正が送られてきた。すでにこの日記でもたびたび繰り返してきたアメリカの戦後リベラリズムや日本の戦後民主主義批判である。それらが果たしてきた歴史役割は高く評価しなくてはならないが、冷戦終結やグローバリズム崩壊後の今日の世界ではその役割は終わり、今後の世界を築いていく知ではもはやありえないことを論じた。 

 なぜなら近代の知を創りあげてきた近代科学そのものが、終焉の時を迎えているからである。たとえばその論文「歴史意識の『古層』」で丸山が無残な誤謬を冒したのは、彼の政治思想史の方法論そのものに根本的な誤りがあったからだ。すなわち文献という「書かれたもの(エクリチュール)」のみを分析する思想史は、そのいわば水面下に存在する感性や感覚を含む膨大な無意識の思考を全く考慮しない。それを分析しない限り、水面上にあらわれた氷山の一角としての文献を正当に解釈することはできないのだ。 

 ただこの批判を書くために、丸山真男の諸著作を書棚から取り出したが、そのたびに心が痛む経験をした。つまり自伝にも書いたように、丸山真男は社会科学とは何かを私に教えてくれた師であり、著作の見開きには「謹呈・北沢方邦学兄」などという署名が必ず記されていたからである。大相撲では相撲を教えてくれた大先輩を土俵上で倒すことを「恩返し」というが、この論文はその意味で恩返しだと思っている。 

 なお「環」のこの号には、青木やよひ追悼の小特集も掲載されるので、ぜひお読みいただきたい。